第四話 北都
北都の中心部アイスシティまでは王都からおよそ二千キロ。その道中には巨大な山脈が構えており、それを超えるのはなかなかに難しい。もちろん、その二つの地点に交流がないわけではないし、ある程度の道は出来上がっていて、その道中にはいくつか宿もあるが、やはりその道程にはかなりの時間がかかる。
それを『転移』ですっ飛ばす。
『転移』はこれまでに行ったことのある場所に瞬時に移動することができるという能力である。
レイは一年前、『強化』の能力者を殺しに行くのに北都に向かっている。したがって、その辺りは記憶しているために『転移』を使用して向かうことができるのだ。
「転移」
レイは肉体の回復が終わると、意を決し、『召喚』で防寒用の服を二着取り出し、着替えてから、ノゾミの手を取ってそう呟いた。
瞬間、目の前の景色が文字通り歪んだ。その歪みは次第に渦巻となり、レイを飲み込んでいく。木々のざわめきが、土の匂いが、ノゾミの手の感触が、だんだんと弱まっていき、ついぞ、それらは完全に消滅した。
後に残るはレイの意思だけ。まるで、水の中に体の全てが溶けてしまったかのような感覚。痛みも快楽もない、その中で、レイの中に孤独という名の強烈な不安がこみ上げる。それとともに引き起こるのは永遠への恐怖。
だが、そんな時間も長くは続かない。気づけば、レイは極寒の地アイスシティにいた。
突如として取り戻した平衡感覚に気分が悪くなり、レイはその場に座り込む。
「お姉さん!」
ノゾミが耳元で叫ぶ。
「なに──」
そう言った直後、脇腹に痛みが走った。
「おい、誰だよ。お前」
真上から声がかけられる。
その刹那に、全てを察する。
転移先の座標を正しく設定することができなかった。運が良いことにあまり人のいない路地裏ではあるが、当初の予定では人が完全にいない山の中を想定していた。
そのことに、転移直後の感覚の消失ですぐには気づけなかったのだ。
レイの決断は早かった。
「だから、てめえはな──」
貧しい身なりをした男は喉から血を噴き出し倒れた。
レイが上着の下に隠し持っていたサバイバルナイフで喉笛を掻き切ったのである。
さらに直後、呆気に取られていた周りの三人の男を次々と殺害する。
後には血まみれの女が一人と、少女が一人。そして、死体が四つ。騒ぎにすらならなかった。
レイはすぐに血の付着した上着を変え、ノゾミを抱えて、
「強化」
そう呟いた。足の筋力が大幅に増強され、その足でレイは飛び跳ねる。
着地した場所は建物の屋根の上。そこからなら街全体を見渡せる。アイスシティの真ん中──それはあまりにも巨大で、この街に訪れた全ての人々の目を引く。フリームスルスの居住地にしてこの街の政治の中心。
ヨトゥン城、通称、氷の宮殿。
そもそも、北都はディアリーで最も新しい街の一つである。今から三十年前、フリームスルスがこの地にやってきて、敵対勢力を壊滅させ、この街を手に入れた。ヨトゥン城の外郭を覆う氷は彼の権力の象徴とも言われている。
だが、それも昔の話。
今のフリームスルスは約七十歳。最強の能力者の一角に数えられる彼とて老いには勝てないだろう。
もちろんレイも無策でやってきたわけではない。
レイはノゾミの手をひいて、堂々と街を歩いた。傍から見ればそれは妹の手を引く姉のようにも見えるだろう。そして、一直線にヨトゥン上に向かった。大門の前には門番が二人いて、当然、レイは彼らに止められる。
「何者だ?」
その問いにレイは当然のように答えた。
「能力者だ。フリームスルスに用がある。なんだ、私を知らないのか?」
そう言うと、門番はすぐにかしこまって、
「も、申し訳ございません! すぐに門をお開きします」
と言う。
予想していた通りだ。能力者はこの国を力で支配している。当然、その力を己の権力の誇示のために使うような人間も少なからずいるのだから、この国の人々は能力者を恐れている。したがって、彼らに対して怒らせるような態度を取れない。
さらには北都は前述の通り、王都から向かうのにかなりの時間がかかる。だから、能力者でも、ここを訪れる人はかなり少ない。ノゾミの話からフリームスルスがあまり王都からの呼び出しに応えたがらないというのも知っている。加えて、ノゾミは本当に公式の能力者だ。彼女の存在そのものが、レイに危険性がないことの証明になり得る。
それに何も嘘をついているわけじゃない。ただ、公式の人間じゃないだけであって、レイも能力者なのだから。
それで、レイは簡単に城内に侵入した。正直、セキュリティがこんな甘くていいのかとレイは少し不安に思う。
城内に入ると、執事の人がいて、
「お客様でしょうか?」
と尋ねてくる。レイは
「フリームスルスに用がある」
と端的に告げた。
「承知しました。主人に聞いてまいります。こちらでお待ちくださいませ」
そう言われ、応接室の方に通された。
薪がくべてあり、暖かい。さらに紅茶も出された。
これほどセキュリティが甘いのはこれだけ能力者が殺されてなお、フリームスルスはそういうのに狙われる性質じゃないという信頼があるのだろう。それは逆に考えればフリームスルスがそれだけの強敵だというのを示している。
「ノゾミ。フリームスルスが出てきたら彼の思考を全部読んで。敵意があったら、私の服を引っ張って知らせて」
「わかりました」
こういう相手にノゾミの能力は使える。実際、フリームスルスは好きなように氷の形を変えて射出できるらしい。距離があれば、いくらでも負ける可能性がある。距離を止めて不意打ち。この原則は変わらない。
しばらく静かな時間が流れる。窓の外の雪を眺めていると、『強化』の能力者ハルとの一戦を思いだす。
その日も雪が降っていた。
ハルはヒーローのような人間だった。他人を救うことに固執していた。そういう性格はこの国の階層構造を揺るがすもので、彼は特にこの国でも差別意識の薄い北都に左遷された。
持ち前の性格で彼はこの国の住民によく信頼されていたし、実際、どんなお願いにも応えていたそうだ。
そんな人間だから、騙しやすかった。
レイは彼に縋る国民に紛れて、ハルに近づいた。そして、彼の接点を持った。
その後、レイはハルに雪山で遭難していると嘘の信号を送った。すぐに駆けつけてくれたハルをレイは抱きしめてもらいながら、殺した。
いつかは時を巻き戻すのだから。
そう思って、殺人を含めた全ての犯罪を肯定してしまっているレイでも、そういう善側の人間を殺すのは抵抗があった。今でも、その時のことを思いだせば少しだけ心が痛む。そうして、必ず、この戦いを勝ち遂げなければならないと誓うのだ。
「遅れてすまないの」
背後から声がした。振り返ると、応接室の扉。そこに一人の老人が立っていた。
髪と髭は両方真っ白で、顎鬚は長い。杖をついて歩いており、もはや七十歳であることすら疑わしいと思えるほどだ。
レイは立ち上がり、一礼する。
その時だった。
ノゾミが、レイの服を引っ張った。
レイからフリームスルスまでの距離はおおよそ十メートル。彼の能力の練度はかなりのものだと聞く。おそらく、これだけ距離が離れていればこちらの刃が彼に届く前に向こうの作り出した氷がレイの全身に突き刺さるであろう。
「どうしたのじゃ?」
フリームスルスはそう言って、笑った。それから、ゆっくりと歩いて、レイの向かいのソファに腰かける。
「して、何ようじゃ? 能力者狩り」
フリームスルスの目の奥が光っていた。
ただ、それだけの一言で、背筋が凍る。
レイは、今、目の前に座る人間が今までの相手とは格の違う相手だというのを察した。その距離は未だ五メートル離れているにも関わらず、瞬きの瞬間にも殺されてしまいそうな、そんな感覚。
「能力者狩り……ですか。いえ、私はその人について話があって来たのです」
「嘘をつくな」
レイが絞り出した発言も一言で否定される。
「ハルの件を知らんとは言わせん。黒髪に赤い目をした女がいたという話じゃ。おぬしじゃろう?」
「…………」
多少は無理がある話だとわかっていた。だが、そんな特徴をした人間などいくらでもいる。
「私以外にも、黒髪に赤い目の女なんていますでしょう」
「おぬし以外にはおらん」
しかし、フリームスルスはそう言い切った。レイは気づく。
「全員殺したからの」
戦慄した。高々レイ一人だけのために、罪のない一般人を多数殺すなど為政者としてやっていいことだろうか。いや、違う。そうやって、生き延びてきたのだ。自らに歯向かう人間を多数殺して、この男は、この北都の頂点に立っているのだ。
何も不思議なことじゃない。
レイは嘆息する。
自分はなめていた。化け物たちのことを理解しきれていなかった。
「氷牢」
レイが反応するよりも速く、その能力は発動した。
フリームスルスの体から飛び出るように射出された氷はレイとノゾミの座っていたソファを破壊し、レイの体を壁に叩きつけ、拘束具のようにレイの体に巻き付いた。
「お姉さん!」
一人、何もされずその場に倒れたノゾミは叫ぶ。
「女、おぬしに聞きたいことがある。抵抗せずに答えてくれるのなら、命は助けてやろう。メタトロン様には差し出すがの」
「…………」
体がまったく動かない。氷はあまりにも頑丈すぎる。それに、レイは自分の体温が急激に下がっていくのも感じていた。それに、だんだんと氷と接している部分の感覚が消えていっている。
「なぜ、能力者を殺す?」
フリームスルスは問いかける。
それにレイが答えるよりも早く、ノゾミが動いた。
手に持った風車の持ち手、尖ったその先をフリームスルスの目に向ける。
「ノゾミ。貴様は傷つけるなと言われておる」
あっという間にレイと同じように氷に掴まってしまう。
「抵抗はよせ。わしには勝てん」
そうして、フリームスルスは再度尋ねた。
「なぜ、能力者を殺す?」
沈黙が流れる。
レイに喋るつもりは毛頭ない。考えるべきはこの場をどう切り抜けるか。
時間はない。これ以上、氷に囚われていてはろくに行動できなくなってしまう。
「火炎!」
叫んだ。
炎を体中から同時に噴出した。炎は氷を一瞬で溶かし、さらには壁にも燃え移っていく。
それと同時にレイの体に痛みが生じた。
「……炎が」
体が焼けていた。自分の出した炎に体が耐えきれていないのだ。これだと、またスルトとの戦いを再現することになってしまう。これ以上の能力の使用は体が耐えきれない。
ならば、この瞬間に決着をつける。
「強化、火炎」
足から噴き出した炎がジェットの役割を果たして、目にもとまらぬ速さで動き始める。『未来視』は使わない。視界がぼやける。ただ、この目の前だけに集中する。
二度、同じ轍は踏まない。
フリームスルスは即座に対応した。今度はレイの体を完全に停止させるため、鋭利な氷が勢いよく飛び出す。
レイの判断は速かった──否、最初からレイは予想していた。相手は格上、自らの行動に合わせた行動を取ってくると。それゆえに、レイは相手の行動を確信していた。必ず、敵はレイを仕留めに来る。けれども、もう『転移」は間に合わない。あれにはラグがある。前回はスルトの体が既にぼろぼろだったから通用したというだけのこと。もし、フリームスルスの背後を取ったとしても、背後にも展開している氷に突き刺されてしまう。
だから。
レイは空中で体を一回転させた。燃え盛る足をフリームスルスに向ける。
炎の能力を使うのを目の前にしたフリームスルスであるから、氷の強度はさきほどよりもずっと引き上げている。先ほどと同じ出力の炎では氷は溶けない。鋭利な刃と化した氷はレイの足に深々と突き刺さる。
だが。
「なんと……!」
レイは止まらない。
五体満足なフリームスルスを見たときから思っていた。この男が今までにやってきたのは全て『圧倒的な』戦い。自らの敗北など少しも考えていない。ただただ圧倒する。
そして、同時にフリームスルスはレイを弱者と考えていない。他の能力者たちと同様に考えている。彼らは敗北を知らない。そんなときのことなど想像もしない。圧倒的な力で相手を粉砕する。
だからこそ、そう言う意味でフリームスルスはレイを舐めていた。
レイには能力者の持つ驚異的な力と、弱者の持つ覚悟がある。
犯罪者の覚悟を彼は想像しただろうか?
けれども。
血まみれの足でレイはフリームスルスの顔を蹴飛ばした。フリームスルスは大きく態勢を崩し、その場に倒れる。
レイもまた勢いを殺すことができず、そのまま壁に突っ込む。それと同時に足がぐちゃぐちゃになる音がした。
「回復」
そう呟いたが、効果が目に見えて薄い。
レイは剣でほとんど残っていない右足の膝の先と左足の足首を切り捨てた。そして、焼けてあまり残っていない服を脱ぎ捨てて傷口をきつく縛る。
その最中、後ろから声がかかった。
「あまりわしをなめるなよ」
顔に大きな火傷を負ったフリームスルスがなおも立ち上がっていた。