8. ★ 恩師と午後にティータイム (令和十年八月十二日・土曜)
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カウンターの隅に置かれた、小さな蓄音機型のオーディオから、ワルツ風なオルゴール曲が流れている。その横では、花瓶に活けられた白いカサブランカが甘く芳醇な香りを漂わせている。
「こんな素敵なお店が中田原市にあったんだねっ。教えてくれてありがとう、常盤さん」
「いえいえ。せっかく久しぶりに小笹先生に会えるなら、ここがいいと思ったので」
優璃は、窓際のテーブル席で、小笹と向かい合ってお茶を飲んでいる。高校卒業してから、久々に恩師と会うことになった優璃は、オススメの場所としてここを小笹に教えたのだ。
「立派になったね、常盤さん。大学では今、何を学んでいるの?」
「まだ二年生なので、一般教養や共通教養科目も多いですが、社会教育学を中心に学んでいます」
「そうなんだぁ。頑張って! ・・・・・・そういえば常盤さんは、部活の方も大活躍だね? 大学連盟でも指折りの選手としてさっ!」
「いえいえ、お恥ずかしいです。まだまだ、稽古は足らないなー・・・・・・と感じてますしー」
優璃は照れ笑いをしつつ、ティーカップを手に取る。
向かい合う小笹は「照れなくてもいいのに」と言い、くすっと笑った。
「そういえば小笹先生。私、昨日ちょっとした騒ぎに遭っちゃって・・・・・・」
「騒ぎ?」
「夜道で、変質者の男に襲われちゃったんですよー」
「え! 大丈夫だったのッ? ・・・・・・その・・・・・・相手の方、が・・・・・・」
「え? あ、ああー・・・・・・。そこは大丈夫です。きちんと手加減はしましたので」
「ああ、よかったッ。常盤さんの技量をもって一般男性を本気でやっちゃったら、相手は間違いなく、逝ってしまう可能性が高いからー・・・・・・」
「あ、あのー、小笹先生? 襲われたのは私・・・・・・なんだけどなぁ・・・・・・」
「え? あー、そ、そうだねぇッ! くすっ。あははっ! ごめんごめん!」
「もぉ! 会話がなんだかおかしいですよーっ? あはははっ」
談笑する優璃と小笹。
そこへ箏音が「楽しそうですね」と言って、笑顔でサービスのスイーツを運んできた。アールグレイティーを飲む優璃にはマロングラッセを。ジャスミン茶を飲む小笹には月餅を。
「こちらのお客様は、ユリの恩師なの?」
「そう。高校時代に、すっごくお世話になった一番の恩師なんだ。空手の師匠でもあるんだよ」
「そぉなんだぁ! ・・・・・・初めまして。この喫茶民宿ことの、鳴瀧箏音と言います」
「初めまして。柏沼高校と柏沼東高校でスクールカウンセラーをしております、麦倉小笹と申します。とても素敵なお店で、感動しました! 雰囲気が良くて、お茶も美味しいです」
箏音と小笹は笑顔で挨拶を交わした。優璃は小笹に「小笹先生も常連になってください」と笑って言う。小笹は「家族で今度来てみるね」と返した。
箏音は「どうぞごゆっくり」と言って、別な客の待つテーブルへと向かった。
* * * * *
窓の外には、小さな洋風庭園に咲いたエキナセアの花がたくさん見える。
陽射しはやや傾き、淡い橙色に変わりつつある。
「――――・・・・・・そうかぁ。もう、大人だもんねー。結婚したってことは、今はもう宇河宮の家にはいないんだ?」
「そうですねー。姉は、勤めてた鉄鋼会社のお得意先の営業マンと結婚したんですけど、もう一年くらい経ちますね。私もいま福島に住んでますが、県南に住む姉とは、ちょこちょこと連絡は取り合っているんですよ」
「常盤さんは、姉妹仲がいいんだねっ。・・・・・・ワタシはしばらく連絡してないなー。久々に電話でもしてみようかなぁ」
「・・・・・・あれ? そういえば、小笹先生って兄弟姉妹っているんですか? 高校生の頃は、そういう話題にならなかったなぁ、と・・・・・・」
優璃の耳元で、小さな白い貝殻のイヤリングが、きらりと虹色に光を弾いた。
「くすっ。実は双子の妹がいてねッ」
「へえぇー? 私、知りませんでしたよ」
「ワタシも、それを知ったのは、今の常盤さんと同じ年齢のときだったんだけどさぁ・・・・・・」
「え! なになに? どういうことですか小笹先生?」
「人生って不思議だなぁって思ってね? こんなことも、あるもんなんだなぁ・・・・・・ってさ」
「双子・・・・・・ってことは、生き別れになってた妹さん・・・・・・だったんですか?」
小笹はカップを両手で持ち、お茶を一口すすり、またそれを置いた。
「生き別れではなく、ずっと『イトコ』同士としてお互い育ってたんだ」
「イトコ同士・・・・・・」
「ワタシの母がさ、その当時は心身がちょっと弱くて、とても二人は育てられそうになくて。父方の叔父夫妻は子宝に恵まれなかったから、生まれて間もなく、妹はそっちの家の長女として育ってたんだよぉ。それ知ったのが、もう、今から十五年も前なんだよね」
「そ、そんなドラマみたいなことがあるなんて・・・・・・」
「ワタシ、成人式の前日に母からそのことを聞かされて、ビーックリだったのッ! すぐに役所に行って、自分の戸籍関係を調べたらね・・・・・・ちゃーんと、当時の戸籍に妹の名前もあってさ!」
「その妹さんって、今は何をされてるんですか?」
「ん? フツーに結婚して、宇河宮市内で小さな料理屋をやってるよ。美味しいから、常盤さんもぜひ行ってみて」
「お料理屋さんなんですか。ぜひ、行ってみたいです! ・・・・・・あのー、小笹先生の双子の妹さんって、やっぱりお顔は似てたりしますか?」
「本当の双子と知る前から双子のようだと言われるくらいだったから、すごく似てると思う」
「そうなんですかぁ! へえぇー」
その後も優璃は、小笹とお茶を飲みながら、様々な話題を夕暮れまで楽しんでいた。
* * * * *
「ごちそうさま。とても素敵なお店で、ワタシ気に入ったよぉ! 大学生になって立派になった常盤さんともたくさん話せたし、嬉しかったよ」
「良かったです! 私も、久しぶりに小笹先生とじっくり話せて、楽しかったですよ!」
「お姉さんの紅葉さんにもよろしく伝えてね。渡良瀬さんにも会ったら、よろしくね」
「はい! 穂花にも小笹先生がよろしく言ってたと、伝えておきます」
小笹は「くすっ」と笑い、橙色と群青色のグラデーションに染まった西の空を見つめて、優璃の横で柔らかく、こう言った。
「常盤さん・・・・・・。かつて、ワタシが教えた沖縄空手の心構えについての話、覚えてる?」
「え? はい、もちろん・・・・・・。覚えてます」
「昨日、変質者に襲われたとき、常盤さんは、どうやって身を守ったの?」
「どう・・・・・・と言われたら、蹴りに、肘に、突きにー・・・・・・。とにかく全力で叩き込んでー・・・・・・」
優璃が得意気に話す様子を見て、小笹は、今日一番の優しい笑顔を見せた。
「・・・・・・よかったねッ、常盤さん。本当に、ケガも無く大事に至らなくて・・・・・・」
「えぇ、まぁ。変質者も、大した相手ではなかったのでー・・・・・・」
「でもネ? 今度は、相手を怯ませる程度にして、すぐに逃げられるといいかもね? いい? 無理に相手の上に立つような戦いに身を投じちゃ、危ないよ? 以前も言ったけどね・・・・・・」
優璃に笑顔でそう告げると、小笹はぽんと両手で肩を撫で、最後にこう付け加えた。
「自分一人の場合は、まず逃げること。ただし、大切な人がいて、ましてや自分を含めてその人にも重大な危険が迫ったと思ったら、磨いた力を使うしかない。でも・・・・・・それ以外の場では、武の力なんて陰に隠れてた方がいいものだからさ。危ない状況からは、逃げるのが一番だしねッ」
その言葉を聞いて、優璃は、小笹の目をじっと見つめたまま動かない。
「昔のお侍さんだってそう。刀を常に携えて、人を斬れる技術も持ってはいても、それを使うのは本当の有事のみ。むしろ、刀をなるべく抜かないことが一番だったんだよ。・・・・・・わかる?」
「・・・・・・。・・・・・・小笹先生・・・・・・。ありがとう・・・・・・」
「ワタシはね、大切な教え子が、空手の持つ力によって危ないことに巻き込まれるのは、いやなんだ。空手に限らず、武の力って、護身にも暴力にもなり得る、諸刃の剣だからさッ」
「・・・・・・正義無き力は暴力・・・・・・ですよね、小笹先生? ふふっ!」
優璃のその言葉を聞いた小笹は、また「くすっ」と笑った。
恩師と愛弟子は、空に光る一番星を二人で指差し、駅まで並んで歩いていった。