92. 原罪と
◇
俺がレドに告げたのは、たった一言だった。
「次の日の朝にでもスカビオサとマーガレットがやってくるから、おまえもその場にいてくれ」
夜中、レドは一人、大穴が空いたままの部屋で俺を待っていた。俺の返答を聞くと、頬をぴくぴくと震わせた。
「おまえ……。一晩待たせてそれだけかよ」
「勘違いするなよ。おまえを信頼していないわけじゃないぜ。むしろ逆で、おまえを信頼しているからこそ、おまえには何も知らないでいてほしいんだ」
スカビオサとマーガレット。あの二人は魔物を殺しきるのに絶対に必要な戦力だ。だから、倒れてもらっても、暴走されても困る。うまく誘導していかないといけない。
そのためになら、あらゆることを選択肢に入れる。
俺は打算的だからな。
テーブルの上に乗せられるものは全てを乗せる。
今回、レドは何が起きるかを知らない方がいい。今からやろうとしていることを知れば事前に苦言を呈すだろうし、俺が期待している反応をしてくれないだろう。
最悪の結末さえ起こらなければ、後はどうとでもしてみせる。
「レド、一つだけ聞かせてくれ。おまえとあの二人は、俺とアイビーの話をどこまで聞いていた?」
「会話なんか、何も聞いちゃいねえよ。扉を開けたらまさにおまえがアイビーを床に叩きつけてたんだ」
見られたのはそこからか。
というか俺はアイビーを取り落としただけで、叩きつけてなんていないぞ。いや、そう見えたなら、それも好都合か。
「了解。会話を聞かれていないのなら、何とかなるな」
「何とかって、どうするつもりだよ」
「どうとでも」
俺はレドを安心させるために笑って見せた。
しかしレドは頬を引くつかせて身を引いた。
「そういう時のおまえは怖いんだよ」
「こんな善良な人間を捕まえて怖いとは」
「どの口が言うんだ」
「俺が唯一誇れる、この口だよ」
口はいい。
言葉はすべてを創り出す。過程なんかないのに、結果だけを創造する。
感情を揺さぶり、行動を制限して、他者を食い殺す。
「レド。おまえはただ、一緒にいてくれればいい。そして、感情のままに行動してくれていい。それが正解だ」
「これからのこと、言うつもりはないんだな」
「ああ。絶対に言わない」
「わかった。心の準備だけはしておく」
不承不承ながらの頷き。
それでいい。レドが普通であればあるほど、俺の異常が際立っていく。
二人がアイビーの生存に理解を示しつつ、魔物へのヘイトを失わない。針の穴を通すような条件の中で。
今回の場合は、それが唯一の正解だ。
◆
スカビオサ・エクスカリバーは自分の感情を推し量れなかった。
正確に言えば、推し量る余裕がないと言った方が正しいだろうか。
昨日から、ひどく気分が悪い。生まれてからこの方気分が良い日なんかついぞなかったが、殊更に頭痛がした。吐き気もあるし、寒気もあるし、視界も狭い。自分という輪郭がぶれている気がする。
風邪だろうか、逸り病だろうか。いや、おそらくこれは心因的な問題だ。
どうしようか。
どうするべきだろうか。
今日、再びアイビー・ヘデラと会って、自分はどうすればいい。
わからない。ずっと殺意を向けていた存在でありながら、殺しても意味がないことはわかっている。でも、殺さないと前に進めないこともわかっている。殺さなければ自分に意味がなく、殺しても相手に意味はない。
悩んでも悩んでも、決して答えの出ない設問。
自分は何のためにここにいるのか。何のために生きてきたのか。
この世界に出口はあるのか。今まで必死に足掻いてきたが、すでに出口は存在しないのではないか。
考えは袋小路に入って、抜け出すことができない。覚めることのない悪夢に等しかった。
自分の意志とは関係なく揺れる身体を何とか起こして、目的地へと向かう。学園内をゆっくりと進んで、男子寮に入っていく。異性の同級生とすれ違っても、誰も何も言わなかった。スカビオサは声をかけるのも憚られるほど、青い顔をしていた。
リンクの部屋の扉を開ける。昨日、リンクが空けた大穴が真っ先に目に入った。
人物は二人。リンクとレドがいた。
「よお、スカビオサ。早いな」
リンクが声をかけてくる。昨日の狼狽はどこへやら、平素の表情だった。へらへらと軽薄で、にやにやと薄っぺらい。逆に腹が立ってくるくらいだった。
「別に……」
嘔吐しそうな口を押さえて、部屋の隅に向かう。部屋全体を見渡せる場所で壁にもたれかかった。
マーガレットはまだ現れていないようだった。そして、今日議題にあげられるはずの人物もここにはいないようだった。
「アイビー・ヘデラはどこ? まさか、取り逃がしたなんて言わないよね」
リンクはアイビーを殺すことに反対していた。そこには魔王を殺しても意味がないという諦念以上に、ただ”殺したくない”という感情が優先されているように感じられた。そんな感情のままに逃がしてしまいました、なんて口走れば殺してやる。
スカビオサは冗談を許さない眼力でもって、リンクを睨みつけた。
「おまえは何を言ってるんだ? ここにいるだろ」
リンクが足元に置いてあった何かを蹴り飛ばす。
ごろごろと床の上を転がるそれ。
それは置物や布切れなんかでなく、人だったらしい。
衣服をひどく擦り切れさせ、その隙間からは真っ赤な裂傷が伺え、ぴくぴくと痙攣している何か。よく見てみると、確かに布切れの端っこからは四肢が伸びていた。四肢も青あざや裂傷まみれで、生傷がひどかった。
何度も殴打されたのだろう、赤く腫れあがった顔を見ると、それは確かにアイビー・ヘデラの顔だった。
「何を……」
「制裁ってやつだよ」
「……殺したの?」
「よく見ろって。生きてるよ、かろうじてだけどな」
その生き物は、息を吸っては吐き、小さく身体を上下させている。だけど、それだけ。スカビオサに目すら向けようとはしていなかった。いや、向ける余裕すらなさそうだった。
「……」
スカビオサはこの場の最後の一人、レドにも目を向けた。しかし、彼は腕を組んで目を閉じたまま、何も言わない。
リンクへと視線を戻す。
「何があったの? 貴方はこいつに親愛を抱いていたように思えたけど。守る様に動いていたと思ったけど」
「おいおい、おまえは何を言ってるんだ? こいつは魔王だぞ。何人の命を奪ったかもわからない、人類の敵だ。なんでそんなやつに情けをかける必要があるんだ? むしろこれくらいじゃ生ぬるいくらいだ。この場でおまえも制裁を加えてくれよ」
リンクは憎しみを込めてアイビーを睨みつける。
ずきん、と、スカビオサの脳が唸った。
「なんで……。貴方はアイビーを助けたんでしょう? こんなにしてしまって、どうするつもり?」
「ただの贖罪だよ。罪は償わせないといけない。こいつを助けたのだって、死なれちゃ困るってだけの話だ。殺されたら魔王は移り変わってしまう。魔王はこいつの中、逃げられないように閉じ込めておくのが正解だ。ずっとずっと、こいつには生きてもらう。死なない程度に、かろうじて生きてもらう」
そう語るリンクの瞳は、揺らがない。確固たる意志を持っているのはわかった。
「だとしても――」
「なんだ? これが一番正しい選択だろうが。こいつは殺しても意味がない。むしろ殺してしまえば次の魔王が追えなくなって、状況は悪化する。かといって無傷で生き延びさせるのも癪に障る。理屈と感情の折り合いが、この半殺しなんだよ」
「……」
言っていることはその通り。
何も反論することはないように思える。
実際、ぼろ雑巾のようなアイビーを見て、溜飲が下がる自分もいた。
けれどスカビオサの頭は痛んでしまうのだった。
「あはは。やるようになったじゃないですか」
嘲笑と共に部屋に入ってきたのは、マーガレット。背後には五人のお供を引き連れていた。
「ようやく来たと思ったら、護衛が勢揃いじゃないか」
「当然です。私はこの場でそいつを殺しに来たのですから」
マーガレットはアイビーを睨みつけた。
彼女が手を挙げると、背後の五人が霊装を展開する。いずれもアイビーに狙いを定めて、主の命令を待っていた。
「一晩考えました。しかし、私の結論は変わらない。そいつは殺すべきです。そいつがのうのうと生きていることは、あり得ない。赦せない」
そんな折、リンクが大きなため息を吐いた。
「おまえはばかだなあ、マーガレット。何度説明させれば気が済むんだ」
「……言葉に気をつけてくださいよ。今の私に貴方の冗談を聞いている余裕はありません。邪魔をするなら、貴方もここで殺します。そこの魔王とは随分と仲が良かったようですし」
「こいつが魔王だとわかるまでの話な。こいつを殺しても次の魔王が生まれるだけだぞ」
「それでも、殺します。魔王を殺さない限り、この世界は終わらない」
「ったく、これだから馬鹿は困る。なあ、スカビオサ」
水を向けられ、スカビオサは返答に困った。
こいつ、何を考えている。
「どいつもこいつも、馬鹿ばかりだ。魔王を殺せばこのトキノオリは壊れる? 誰が言ったんだ、そんなこと。こいつが言っただけだろうが。なんで事の張本人である魔王の言ったことを信じてるんだ」
「嘘だとしても、殺さない理由はありません」
「話が通じないな」
リンクは再びため息をつくと、アイビーの腹部に蹴りを見舞った。どすん、という鈍い音は、決して手加減しているようには聞こえなかった。アイビーの細い身体は軽々しく吹き飛び、壁に激突する。
「これは殺されるのを望んでるんだぜ? だって死ねば俺からは逃げられるからな。おまえは魔王の望みを叶えてやりたいのか?」
マーガレットもその剣幕には怯んでいた。
「貴方、何をして……」
リンクはアイビーに近づいていって、その髪を掴んだ。「いっ――」顔をしかめるアイビーに構わず、元居た場所にひきずっていって、彼女の顔を床に叩きつける。
「――俺を騙した罪は重い。死なない程度にいたぶって、償ってもらわないとなあ」
その瞳は真っ黒だった。
スカビオサは息を飲んだ。
隣でマーガレットも息を飲んでいた。
アイビーの顔面はリンクの手によって、何度も何度も床に叩きつけられていく。大きな音が鳴って、顔が歪んでいって、鼻血が飛び散って、反面、うめき声や痙攣などのアイビーからの反応は段々と薄くなっていく。
「だ、大丈夫なんですか……」
マーガレットの小さな呟きは、加害者と被害者、どちらに向けられたものかもわからなかった。
「優しいねえ、マーガレットさんよお。殺すってことは、こいつを地獄の苦しみから救ってあげるつもりなのか。死は救済ってやつか、流石は聖女様だ」
「……なんですか。可哀想だから救ってやれと、そういう場面を作ってるんですか?」
「違うんだよなあ。いい加減わかれ、馬鹿野郎」
リンクは手を離すと、再びアイビーを蹴り飛ばす。アイビーの身体はスカビオサとマーガレットの眼前に転がった。
「こいつには殺す価値も生かす価値もないんだ」
「……」
ぼろ雑巾みたいな魔王。
身じろぎ一つしなかった。
「こんなやつに何ができる。死んだら回復されて、生きていても邪魔でしかない。だったら、生と死の境目、この状態で管理するのが正解だ」
「貴方はこの状態で魔王を管理すると言いたいの? 殺さず生かさず、留めておくと」
「おまえは賢くて助かるよ、スカビオサ」
リンクに笑いかけられたが、スカビオサは眉間にしわを寄せた。
リンクは本当にアイビーに対して憎しみを顕にしているのだろうか。真っ青な顔でアイビーを抱えていたのは昨日のこと。記憶に新しい。一晩で考えが変わったのだろうか。信じていた者に裏切られたと考えれば、変わり身もわからなくはないけれど。
近くで見るとアイビーの怪我は本物であることがわかる。本当に切り刻まれているし、顔を殴打されている。演技や虚飾の枠を越えている。親しい人をここまで痛めつけられるだろうか。
いや、否定するまでもない。瀕死まで痛めつけている以上、リンクは本気だ。
リンクは、道を定めたようだった。
――私は、どうしたいんだ。




