172. ミチ
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魔の森にやってくるのは数か月ぶりと相なった。
マリー女王による現地視察。大災害のあとに何が残ったのかの確認。
死体も死骸も、多くが火葬された後だった。生者と死者の区別は済んでいて、残された者はいないということ。
たまに出てくる魔物の残党を、エクセル率いる討伐隊が狩っているらしい。今回の戦を経て、定期的に魔物を狩るために、魔の森内に通り道を舗装している最中だということだ。
魔の森はいまだ厳戒態勢。
いつ同じことが起こるかもわからない。討伐隊の隊員が巡回を続けていて、いまだに緊張感を有した場所だった。
そんな状態であるのに、マリーはこの中に入ると豪語した。
エクセルを初めとする、すべての人間が声を大にして止めた。俺も声を出せないながらも、止めようとした。俺にしては珍しく本気で。しかし、マリーは頷かなかった。女王としてこの場所の空気を知らないといけないと、一歩も引かなかった。
マリー女王が死者と遺族に心を痛めていたのは周知の事実。死者への弔いだと言うマリーが梃子でも動かない構えを見せれば、折れるのはこちら側だった。
結局、マリーは俺と複数人の護衛をつれて森の中に入っていくことになった。万が一など起こらないよう、討伐隊のエリートを引き連れての行軍である。
がしゃん、がしゃん。
鎧の接合部が大きな音を立てる。そんな音を立てながら歩いているものだから、俺は多くの注目を浴びた。可哀想に、と憐憫の眼で見られるのは、この姿になったことがある人間も多いからだろうか。特に話しかけられたりすることもなかったので、俺としては助かるところだが。
誰も鎧の中の人物を確認しようとしない。俺は俺の形を保ったまま、見つかれば業火に焼かれる立場のまま、人々の中に溶け込んでいる。
そういう空気を作ったのだろう。作ってくれたのだろう。
鎧が亡霊となるように。
死者の器になるように。
表面だけを形どった鎧は、まさしく人を形どった何か。今の不明瞭な俺の形に合っている。
息を切らしながら歩くさまは、まさしく十字架を背負った罪人。これなら生きてもいいと、そう思えるような気がする。
戯言か。
この鎧も痛みも疲労も生の実感も、愛する人からのプレゼントだと思ってありがたくいただくことにしよう。
今までとは違って人に踏み慣らされた道は随分と歩きやすい。
これが枝や根っこに覆われた道であれば、俺の歩みはこうもすいすいと進んではいなかっただろう。魔物が現れたとしてもすぐに駆け付けられるように。人間の手は魔の森の中にしっかりと入り込んでいる。
少しだけ、安心できた。
しばらく歩いた後。
マリーから「そこの黒い甲冑はここで待っていなさい」と指示を受けた。
俺は周囲を見る。こんなところで鎧なんか着こんでいるのは俺しかいない。
自分を指さす。
マリーは頷く。
「ここから先は貴方以外で進むことにするわ」
困惑するのは俺ばかりではない。
護衛の人たちもどうしてかと首を捻っていた。
何をしたんだ、と小声をかけてくる者もいたが、俺は首を横に振るばかり。声も発せない愚鈍な鎧は、ただただ女王様の決定を受け入れるしかない。
「この場所で、大切な約束があるの」
マリーは俺の眼を見てそう言った。
俺を含めた誰もが答えを見いだせないまま、マリーはそのまま歩いていってしまう。人類にとって俺とマリー、どっちが大事かといえば、答えは明瞭。全員、マリーについていった。
皆、見えなくなる。
取り残される俺。
足音が遠い。
甲冑が重い。
密閉空間が辛い。
木漏れ日燦燦と降り注ぎ、真っ黒な甲冑に熱をもたせてくる。
なんだこれ、虐めか?
約束とか言っていたが、俺にそんなことをした覚えはないし、そういう暗喩の虐めか?
マリーに恨まれるようなこと……は、無限に存在する。多すぎて逆に思い至らないレベル。うだつの上がらない騎士に対しての囁かな制裁だろうか。
困惑しても、俺は自分で行動することは許されない囚人。勝手に動ける身分ではない。
とりあえず、待つ。
ただただ立ち尽くして、待つ。
しばらくそうしていると、眼前に人が立った。
「……ひさしぶり」
その子は黒い外套を着ていて、フードを目深に被っていた。身体を覆い隠す外套によって、顔つきも体格も性別も、一目では誰だかわからない。
けれど、俺は声で、仕草で、立ち振る舞いで、誰がいるのかわかった。
わからないはずがなかった。
約束、か。
「元気にしてたか?」
「うん」
「そりゃよかった」
「リ、……貴方は?」
「元気だよ。見りゃわかるだろ」
「わからないよ。何、その鎧。仮装でもしてるの?」
「おまえだって似たようなものだろ。誰だかわからないって」
「はは。そうだね。私たち、誰なんだろうね」
俺は目の前の相手の名前を知らなかった。
そして、眼前の彼女も、俺の名前を知らないのだろう。
死者は二人、向かい合って、意味のない会話を繰り返す。
「終わったってことでいいのか?」
「うん。もう、トキノオリは発動しない。人類は新しい未来に向かって歩き始めたんだ」
「何よりだな」
「尽力してくれた人たちがいるから。この道は、全員の努力によるものだよ」
その子は足場を踏みしめた。
多くの人間の踏み固めた足場。
それは多くの人たちがこの場を訪れた証拠。転んで、倒れて、踏みしめて、そうやって作り上げた、まごうことなき人類の道だった。
「よくやったよな」
「うん。みんなね」
「またこんなことが起こるのか?」
「起こるだろうね。あるいは、人間がいる限り、避けられないものなのかもしれない」
「意味深なことを言うなよ」
「黒の曲芸団と魔物は、同じなのかもしれない。喧嘩ばかりの人類が一つになるための、必要悪なのかもね」
人間が共通の目的を持つために一番簡単で間違いのない方法は、共通の敵を作ることだ。
憎しみをぶつける相手を同じにする。魔王アイビーであり、黒の曲芸団であり、魔物の大群のように。
敵を作って、人間の克己心を煽る。停滞した人類の歩みを進ませる。
超常の力霊装、魔物の発生、聖女という存在。すべてが一つの目的のために生まれていたとしたら。この世界が生み出した、あるいは、過去の人類が作り上げた、明日の人類をまとめるためのものだとして。
定期的に訪れる人類の浄化装置。
魔物の発生も仕組まれたものだとしたら。
「……おい、やめろよ。変な話するな。全部ひっくるめて仕組まれた話だったなんて、聞きたくもないぞ。何かの手のひらの上だなんて、下らない話にも程がある」
「冗談だよ。何か理由をつけてみたかっただけ。これはそういうものなんだって、思いたかったんだ」
罪を背負った顔で、寂しそうに笑った。
「おまえはこれからどうするんだ?」
「ここで魔物の残党を狩るよ。そうして、一生を終える。もう十分過ぎるくらいに生きたからね。死ぬのは逃げだし、後はのんびり死なないように生きてみるよ」
その子は空を見上げた。
やり遂げた満足感と、前に何もない虚無感と。
人類は進み始めたというのに、死者は二人、立ち止まったまま。
マリーも護衛たちの姿も前に進んでしまっている。視認することもできない。
俺たちはただ、立ち止まるだけ。亡霊には進む道もなく、還る場所もない。
しばらく、沈黙が降りる。
「……旅でもしてみるか」
口から出たのは、そんな言葉だった。
「え?」
「考えてみれば、俺たちは狭い世界しか知らない。王都と街と海と森と……。この魔の森を抜けた先に何があるのかも、トキノオリの先の未来も、何も知らないんだ。もしかしたらおまえの力は、”これから”のためにあったのかもしれない。これはただの序章で、本編はこれから始まるのかもしれない。それなのに、ここで魔物を狩るだけで終わり? 勿体ないし、意味がないよな」
そうだ。
俺たちの物語はここから始まるのだ。
まだ何も終わっていないし、まだ何も始まってはいない。
立ち止まっていては、これから起こる”何か”に対処できない。
「次のトキノオリはすぐそこに迫っているかもしれない。世界を知ることが、次の試練への鍵になるかもしれない。立ち止まってる暇はないな。そんな未知を、探しに行かないか」
ここは人類の作った道。
この先は俺たちの未知。
不明瞭で恐ろしくて輝かしい何か。
その形を、見てみたい。
「……はは。相変わらずだね」
「何がだ」
「現実的なくせに、理想論を口にして。
嘘つきのくせに、芯を喰ったような言い方をして。
昨日を振り返るくせに、明日を見据えていて。
寂しくさせることを言ったり、嬉しくさせることを言ったり。
やりたいことにしれっと公然とした理由をつけて」
「ひねくれものなんでね」
「うん。そんな貴方のことが、ずっと好き。不必要だと思っていた未来が、こんなにも楽しみになっているのは、貴方が未来で手を振ってくれているから。
ずっとずっと、そうだったんだ。貴方に初めて会ったときから、貴方が私の手を引いてくれた時から、私はずっと、未来が待ち遠しくて仕方がなかった。辛いことだっていっぱいあるのに、楽しいことが待っているって、信じられたんだよ」
その子はフードの下でにっこりと笑った。
泣き笑いのような、感情が溢れだした笑顔だった。
「行こう。どこにでも。貴方となら、どんな未来だって、幸せに変えられるから」
聖女はそう言って、俺の手をとった。
聖女は一人の女の子になって、笑った。