171. テツノオリ
◆
「キーリ。ただいま復帰いたしました」
魔の森で大規模な戦闘があってから一か月ほどが経過した。
負傷兵は生死の分かれ道を彷徨い、どちらの道に進んだか、明確に別れるタイミングであった。
死に飲み込まれた者、生を掴み取った者。
どちらにせよ、病院を後にする人間は多かった。
残された人々は日常に戻っていく。
キーリは多数の裂傷を負ってはいたが、命も四肢も失うこともなく王都に戻ってくることができた。本来であればまだ休養が必要であると医師に判断されたが、マリー女王の下で一刻も早く働きたいという思いもあり、最短期間での復職となった。
一か月も経てば、多くの物事は風化していく。
トキというのは、すべてを押し流していく。
多くの死傷者を出した戦。
それがどんな過去であろうが関係なく、一度普段の生活に帰ってくれば日常に忙殺されていくものであった。
マリーもそれは同じだった。
魔の森に対する対処、討伐隊基地のこれから、被害者への支援対応。少し考えただけでも決めることは多く、書類と会議に忙殺されることになった。
執務室に入ってきたキーリに血走った眼を向けて、「これ、やっておいて」と一言。
せっかく頑張って復帰を急いだのに、と口をすぼめるキーリだった。
――まあでも確かに、やることは多いですし。
ため息をついたところで、
「ありがとう。無事にここにいてくれて嬉しい。戻ってきてくれて、助かっているわ」
マリーからの笑顔をもらった。
キーリはこの仕事を一瞬で終わらせようと決意した。一緒にお茶を飲もうと心に誓った。
キーリの視線はマリーの隣に移る。
黒い甲冑に身を覆った誰かが立っていた。
「まだやっていたんですか、それ」
「まだとはどういう意味よ」
「いや、だって、黒の曲芸団はいなくなったわけですし、ロイ様もプリンツ様もマリー様が王であることを公に認めて、もう対立しているわけではないんですよね。マリー様の敵は、いたとしてもそこまでの勢力ではありません。だったらそんな甲冑で身を守らせずとも良いのでは? 中の人だって大変でしょうに」
「一度始めてしまったことを取り下げるのには、多くの労力が必要なのよ。この書類の山の中にそんな案件を入れ込む余裕はないわ」
げんなりしたマリーの顔に、キーリは他にものを言えなくなってしまった。
良くも悪くも時の人。マリー女王の護衛の方針を変えるのは、確かに難しそうだった。
本日の被害者の近くに寄って、右手を差し出した。
「誰だかはわからないが、ご愁傷様だ。私も中に入ったことがあるが、大変だろう? まあ、慣れればどうということもないと思う。今日だけの辛抱だろうから、頑張ってくれ」
鎧の中に入った人物は、何も言わなかった。
キーリから差し出された右手に対応するように一度右手を挙げようとして、それを降ろし、代わりに左手を差し出してきた。
キーリは首を傾げながらも、左手にて握手に応じる。
「我々しかいない場所でも、この鎧に入っていては口を開いてはいけないんですか? 誰が入っているか、一切わかりませんよ」
「そうよ。これはそういうものだから、仕方がないわね」
「厳しいですね……」
「それはね、口を開いてはいけないのよ。絶対ね」
マリーは嬉しそうに笑う。
とてもとても、幸せそうだった。
――お気の毒に。
変なところで茶目っ気というか、嗜虐的というか、そういうところがあるマリーに眼をつけられるのは、いかにキーリであっても嬉しさと辛さが半々だ。
キーリは「頑張れ」と中にいる可哀想な人間に告げた。
中にいる人間は肩を竦めようとしたようだったが、重厚な鎧の前では、ぎしぎしと不明瞭な音を立てるだけだった。
「……まるで鉄の檻だな」
キーリは武骨な鎧をそう評価した。
自分を守るためではなく、自分を閉じ込めるような、鉄の塊。
まるで防護柵ではなく、檻のようだった。
「鉄の檻。テツノオリ。ふふ、言いえて妙ね」
「何がですか?」
「いいえ、なんでもないの」
マリーはにっこりと微笑んで、黒い甲冑を愛おしそうに見つめるのであった。
◇
「罪人は裁かれないといけない。犯した罪を償い、額を牢の床に擦りつけて泣き叫ばないといけない。後悔に後悔を重ね、蹲っていないといけない」
マリーは歌うように口ずさんだ。
「未来を奪った多くの人々、彼らに報いなければならない。その結果は、死ではなく、生であるべき。なぜなら私たちは死後の世界を知らないから。もしかしたら死後の世界は楽しいことが待っているかもしれない。それじゃあ、贖罪にはなりえない。生きているこの世界のみが、私たちの世界。だから生きて未来のために骨を折り、奮迅する。それこそが唯一にして絶対の贖罪」
マリーの視線は窓の外、夜の中へ。
一人、自分の寝室の中で歌う。
「それはそう。でもね。それは頑張った者への褒章とはまた別のものになるわ。その男には罰が必要で、私やその他多くの頑張った者には、報酬が必要なの。そして、その二つは矛盾する。その男が牢屋の中にいたのでは、私は喜べない。首を公然に晒したのでは、後を追いたくなってしまう。私はこんなに頑張ったのに、報われない形になるの。
私は女王よ。でも、同時に、人なの。
これからに救いがなければ、楽しみがなければ、生きていくことができない。
女王の責務はわかっているわ。他の人に向ける無償の愛も、女王の仕事。でもね、自分を殺して生き続けるなんてまっぴらごめん。私は私のまま、生きるのよ。それが私を生かしてくれた人への恩返しでもあるわけだし」
彼女の視界は移り変わる。
今度は部屋の隅に置かれた黒い甲冑へ。
「多くの人たちから恨まれた男は、死なないといけない。命を喪って名を喪ってすべてを喪って、懺悔しないといけない。
同時に。その男は、私の傍にいないといけないの。私の近くで永遠を過ごさないといけないの。それが私の唯一にして絶対の望みなのだから。
公然と死んだまま、私の傍で生きる。
二つを満足させる方法は、きちんとあるの」
マリーは黒い甲冑に近づいていった。
その鎧に指を這わせると、小さい声で呟いた。
「ここにいるのは私だけ。だから、話してもいいわ。王の名において、許可します」
「……悪趣味だな」
俺は大きくため息を吐いた。
生暖かい吐息は、甲冑に当たって俺に返ってくる。
おいおい。誰だよ。この女をこんなにしてしまったのは。
人を息もしづらい甲冑の中に押し込めて、一日中その隣でにこにこしているなんて、嗜虐的な性格の女に育てたのは誰なんだよ。元々は文句ひとつ言わずに自死を選ぶような女だったじゃないか。
許せねえな、ホントに。
「あはは。しゃべった!」
マリーは子供のように無邪気に笑って、部屋中をくるくると回り始めた。
「ねえ、その鎧を脱いでいいわよ。ここでなら、ここだけなら、貴方は貴方になるの。死者から生者になるの。私がそうなるようにしたんだもの、そうなるべきなのよ」
「……まあ、一日二日くらいならずっとこのままでもいいんだけど、脱がないとこれから持たねえわ。寝るときは外すのを許してくれ」
「いいわ。許可しましょう」
楽しそうに片目を閉じるマリー。
遺族の前で真っ青になっていたり、積み重なる仕事の前で真っ赤になったり、ころころと表情を変えていたが、元気そうで何よりだよ。
俺は鎧を脱ごうとする、が、片腕では脱ぐのにも一苦労だった。
マリーが近づいてきて、「しょうがないわね」と言いながら手伝ってくれる。
「ふふ。私がいないと鎧も脱げないんだ。ホントに檻みたい」
その笑顔、少し怖いですね。
全身すべての鎧を落とし終わると、俺はその場に倒れ込みそうになった。いや、ダメだ。床の上に転がったら、もう起き上がれない。そこで一晩を過ごすことになる。なんとか踏ん張って、ベッドの前まで直進、そこで倒れこんだ。
「あ。人のベッドに勝手に入り込んで」
「許してくれ……。この鎧、思った以上に重いし硬いし可動範囲狭いし、きついんだ」
「そうじゃなきゃ罰にならないじゃない」
マリーはベッドの上、俺の隣に寝そべった。
目の前にマリーの端正な顔がある。
「これはね、私から貴方への、ひいては国民から貴方への、罰なのよ。
私が創ったこの暗いテツノオリの中で、一生を過ごしなさい。私の隣で一生を過ごすのよ。
ふふ。打算的に、これが一番有意義な方法でしょう? 私は満足。貴方も満足。素敵よね」
「素敵すぎて分相応じゃないな。俺みたいなくそ野郎にはこんな素敵な未来は似合わない」
「だからこの鎧を用意したのよ。これは鎧ではなく、貴方を囲う檻よ。
貴方はどうせ、自分は死ぬべきだった、とか言うんでしょ。私の隣にいる権利もないというんでしょう。阿呆らしい。真実を知っている人は、誰もあんたが死ぬべきだなんて思ってないわよ。それは逃げよ。だから逃げないように囲い込んで、代わりに罰をあげてるの」
人差し指が俺の頬を射抜く。
「いい? 貴方はこれから一生私の傍にいて、私を助けるの。国民の命を足蹴にして生き残ったのだと嘯くのなら、その命を国民のために使いなさい。私の傍で国政に関わることが、何にも勝る贖罪となるでしょう」
眼光鋭く。
理路整然と。
そこにいるのは、死にたがりの女の子ではなかった。
理論的に俺が生きる意味を積み立てて、俺が生きる意義を創り上げて、その中に自分の欲望もこっそりと入れ込んで。
理論的にも、感情的にも、すべてを丸く収めようとするその中途半端なやり方は、誰かのようであった。
昔、俺がしていたような話を返されてしまうなんて、立場が逆転してしまったようだった。
人は成長する。
トキノオリの中でだって。
いや、鎬を削りあったトキノオリの中だからこそか。
「……眩しいな」
「今は夜よ」
「一番星が目の前にいるからな」
「うわ、きっつ」
マリーは眉を潜めた。
こういったやり取りも懐かしい。
思わず笑みが零れてしまう。
「それに、貴方には罰が必要かもしれないけどね、私たちには褒美が必要なのよ。あんたのせいでどれだけ苦労したと思ってるの? やるだけやって後は任せたなんて、酷いやり方にも程があるわ」
「まあ、それはそうだな」
「私だけじゃない。シレネにも、アイビーにも、ザクロにも、スカビオサにも、マーガレットにも、レフにもライにもレドにもハナズオウにもアステラにもキーリにも、――全員に、貴方は償わないといけないの。頑張ってくれた彼らに、報いなければならないの。
”生きて”、ね」
至極真っ当な意見に、反論の余地もない。
俺の死とは、すなわち逃げである。
後は任せたという、丸投げの極致。
そうだよな。俺にはこの世界がどうなっていくのか、見続ける義務がある。
俺がこんな凄惨な結末を作ってしまったんだ。自分のケツは自分で拭くべき。簡単に死ねると思うなよ。
トキノオリが終わったと思ったら、今度は鉄の檻の中か。
テツノオリ。俺は一生囚人の身の上。
まあしかし、何とも俺らしいんじゃないんだろうか。
悪くは、ない。
「……自戒は終わった?」
ジト目のマリーが顔を覗き込んでくる。
どうも俺の考えていることは丸わかりのようだった。
そして、そんな下らないことを考えている俺は、彼女にとって不服の対象らしい。
肩を竦める。
「悪かった。せっかくの二人きりに下らないことを考えていた」
「反省が終わったら、今度は御礼を受け取りなさい」
寝そべったまま、抱きしめられた。
強く。強く。
暖かく。
「ありがとう、私の騎士」
女王様自らの御礼の言葉。
感激しないわけがない。
「お褒めに預かり、光栄です」
「貴方のおかげで、今の私がいるの。明日の私がいられるの。そして、皆の未来があるの」
素直な感謝というのは、少し照れくさい。
実際、俺は自分のためにやっただけなのだ。そう、感涙されることもない。
俺でなければもっとうまくやれていただろうし、全員の尽力あってのことなのだから。
まあでも。
ここは受け取っておくべき言葉だろう。
人の厚意や好意は、無下にしてはいけない。
俺はマリーを抱きしめ返した。
「俺も、ありがとう。俺に生きていていいと言ってくれて。そういう場所を作ってくれて」
「大したことはしていないわ。始まりは貴方が私を救ってくれたからでしょう」
「違うよ。本当の始まりは、おまえが話しかけてくれたからだ。俺のことをおまえが見てくれたからなんだ」
「……その言い方はずるいわ。私、その話知らないもの」
「ずるいずるいと言われてきた男だ。今までもこれからもずっとずるいままさ」
「そうね。それが貴方だものね」
マリーはにっこりと笑って、唇を押し当ててきた。
俺の好意に応えてくれたこの子に、俺も応えてあげないといけない。
それもまた、一つの義務だ。
なんて。
ひねくれものは、マリーに好意を伝えたいのに、相変わらずこうやって下らない理由をつけるのだった。