170. 女王と聖女
◆
軍が王都に戻ってくると、国民たちは多いに沸いた。
ある者は涙を堪えながら、ある者は怒りを抑えながら、ある者は本心からの喜びを。
内にある感情は様々であったが、笑顔を作って、マリー女王一行を出迎えた。
――てっきり、戻る場所すらないかもしれないと思っていたけれど。
マリーは馬車の上で衆目を浴びながら、重いため息を漏らした。
轟々と非難されるものなら、兄に玉座を譲っても良かった。首を落とせと言われれば、それもやむなしと覚悟を決めていた。
それくらいに、自分の成したことは理想とは程遠い。
死傷者に枚挙に暇がない。
魔の森での争いを見た者は誰も異議を立てないだろうが、今、自分たちを出迎えている彼らは魔の森で実際に何が起こっていたのかを知る由もない。
大勢で遠足して、多くの人が死にました。
端的に言えば、そんなもの。近しい者がそんなつまらない物語に巻き込まれて、何も思わないわけがないのに。
この中の何人が遺族となっただろうか。自分はそれに報いることができるだろうか。
「……難儀なものね」
多くが死んだ今回の戦。
マリーの近くにいた者だって何人も死んだ。
そういう意味では、自分だって遺族か。遺された者か。
残されることと、先に逝くこと。
どちらの方が容易なのだろうか。
どうでもいいか。どちらにせよ、自分は生きて、多くが死んだ。
そんな哀しみに暮れる”自分”が、多くを死に追いやった”自分”に言う言葉は。
「――責任を持って、国のために尽くしなさい」
マリーは立ち上がると、笑顔を作って国民に声に応えた。
◆
「黒の曲芸団、全員の死亡が確認されました」
「……そうですか」
兵士からその言葉を聞いて、悲しくなったのは何故だろうか。
死んだ彼らは人類に牙を向けた大罪人。例え生きていたとしても、死刑は免れないだろう。だったら、この薄暗い森の中で死んでも何も問題はない。むしろ、魔物に喰われてざまあみろといったところか。多くの人間の溜飲が下がる。だったらそれでいいではないか。
でも、そうだと断言もできないのだ。
少なくとも自分はそうは思えなかった。
マーガレットは一人、空を見上げていた。
討伐隊基地の端っこ、魔物用に建てられた塀の向こうで。
マリー女王は負傷兵の多くを引き連れて王都に戻っていった。けれど自分は戻る気にはなれなかった。戻る場所もないように思えた。
進んでいく世界において、立ち上がって歩く気力すらなかった。
怒りたい相手も、労わりたい相手も、いなくなってしまった。
燃え尽きた。
その言葉が一番しっくりきた。
必死に走った先には、何もない荒野が広がっていたのだ。
世界はいやに静かだった。悲鳴も絶叫も慟哭も響かない。これが普通の世界なのだと思えないのは、あの災害のせいだろう。
静かなことが違和感。
今は誰にも会いたくはなかった。
何も話したくはなかった。
ただ、一人、ぼうっとしていたかった。
雲は流れていく。
風も少ないからか、ゆっくりとした動きだった。
それをじっと視線で追う。
追う。
追う。
「おつかれさま」
声の方向に顔を向けると、そこにはアイビーが立っていた。
立ち上がって霊装を構えて――すでにその行動に意味がないことを悟った。
その場に腰を落として、彼女の顔を見上げる。
「生きていたんですか」
「なんとかね」
「おつかれさま、だなんて、誰が何を言っているんですか」
「死に損ないが、危機を乗り越えた聖女に向かって言ってるんだよ」
「皮肉ですか?」
「そんなことないよ」
「……貴方が、聖女だったんですね」
スカビオサから聞かされた真実を確認する。
アイビーが頷くのを見て、マーガレットは鼻を鳴らす。
「さっさと言ってくれれば良かったのに。そうすれば、もっと協力できたし、もっと早く動くことができたし、もっと――」
「そうすれば、こうはならなかった?」
「……。やめてください。もう、意味のない議論です。これが正史になってしまった今では、どんな言葉も無意味です。死体に聞かせる子守歌なんてないんですから。そして、遺族に聞かせる英雄譚も存在しない」
後の祭り。
結果論。
じゃあ自分は、どんな結果が欲しかったんだろうか。
どうなれば、満足できたのだろうか。
そうなれば、ないものねだりと相違ない。
「――失ったものばかり数えていても仕方がないよ」
アイビーの他人事のような言葉に、怒りすら湧きおこらなかった。
無機質は自分は、霊装を放り投げる。
地面を転がっていく水晶玉。
「じゃあ今の私に何が残っているって言うんですか」
「じゃあ昔の貴方には何があったの?」
問われ、答える言葉はなかった。
人に誇れるようなものは何も持っていなくて。動かない時の中で何度も何度も殺されて、何も持っていない自分は何かに縋るしかなくて。何かで身を包まないととても生きていけなくて。
だから聖女という立ち位置に収まって、満足げに鼻を鳴らしたのだった。
聖女という称号は、自分がかき集めて作った張りぼての鎧。でも、自分にはそれが必要だった。
何もないから、何かに手を伸ばしたのだった。
「今の貴方には、いっぱいあるよ。忘れないで。今の貴方はトキノオリの中に閉じこもっていた頃よりも、いっぱい、持っているから」
「何を言ってるんですか。他ならぬ貴方が、何を――」
ぽろりと。
溢れたのは涙だった。
「いっぱい、”あった”んですよ。そしてそれをついさっき、失ったんです」
いっぱい持っていたのに。
それが大切なものだと気が付いた時には手から零れ落ちていて。
こんなに大切なものだったのなら、もっと大切に、大切に、していたかったのに。
「私は――彼らの屍の上に立つ価値もない。生きていく権利もない。今まで何度だって彼らを盾にして、自分だけ生き残って、無感情に死体を見下ろして、生き残ってきたんです。なのに、なんで、いつものように彼らに守ってもらっただけなのに、いつも通りなのに、何度だって経験してきたのに、今になって、こんなにも辛くて悲しい――」
彼らはずっと、人だったのに。
自分の中で彼らは記号で。ヒトで。
最期の最期に、この世界でなら彼らは私の知らない彼らになったと、そう気が付けたのに。
愚かだ。愚かだ。
知ってたのに。
私が愚かだってことは、最初からわかっていたのに。
想像以上に愚かだったことまでは、知らなかった。
「リンクだって……あんなに頑張ってたのに、私は、何も知らないで」
労いもなく、労わりもなく、ただただ悪だと決めつけて。
私がもっと考えていれば、救えた命はあったのではないか。
根回しや裏回し。もっと賢く動くことができれば。
それをなんで今ここで知るんだ。もっと前から知っていれば。
「教えてくれれば良かったのに。貴方は、多くを知っていたんでしょう?」
「駄目だよ。他人から言われた言葉に命を賭けられる人はいない。
人は経験して強くなる。後悔っていうのは、必要なんだと思うよ。後ろを振り返りたくないから人は前を向ける。過ちという恐怖から逃げるように、歩くことができる。今の貴方には後悔がある。二度と間違えないという思いがある。だから、大丈夫だよ。貴方は大丈夫。もうそれ以上自分を責めないで」
それは決して、綺麗な話ではなかった。
御伽噺の中にあるような、英雄譚でも理想論でもない。皆の頑張りですべてを救えたなんて、誰も言いはしない。
汚く、淀んで、真っ黒な現実。
マーガレットは自分の生きる世界を思い出した。
「貴方の中で”人”として死ねたのなら、彼らだって良かった。それは貴方を支える明日になる。貴方が泣いてくれる。貴方の心の中に残り続ける。それだって、未来じゃないのかな」
欺瞞だ。
偽善だ。
曲解だ。
そんなことはない。生きる以上に必要なことなんかない。彼らはきっと、自分のことを天国で恨んでいるに違いない。ふざけるなと罵倒するに違いない。
そんな綺麗ごとに流されたりはしない。
そこまでお花畑な脳内ではない。
だから。
これが自分が背負うべき、業なのだ。
マーガレットは涙を拭った。
「……彼らの尽力を無駄にはしません。彼らが溜飲を下げるのは、彼らが守った私が、この世界を有意義なものに変えた時。彼らの守った私に生きた意味があった時。これ以上この世界を荒そうとするのなら、私がすべてをやっつけます」
せめてその墓標が汚れないように。
綺麗にいつまでも残るように。
偽善に。欺瞞に。自分は努力しないといけない。
「ありがとう、マーガレット。貴方のおかげでこの世界は続いていける。後悔はしてもいい。泣いてもいい。でも、前だけは向いていて。貴方の救った世界を、その眼で見つめていて。貴方は立派に”聖女”なんだから。私なんかよりもね」
マーガレットは立ち上がった。
アイビーと向かい合って、その瞳を覗き込む。
「貴方はどうなんですか。よくもまあ私の前に顔を出せたものですね」
言ってから、彼女は自分の様子を見に来たのだと気が付いて、バツが悪くなった。
人の機微に気づけるようになった自分が疎ましく、少しだけ誇らしかった。
こほん、と空咳を入れる。
「黒の曲芸団は全員死んだと聞きましたよ」
「うん。全員死んだよ。リンクも、レドも、ハナズオウも、ライも。アイビーも。全員、死んだ。全員、許されないことをしたからね。地獄行きさ。もう貴方たちの前に姿を見せることもない」
「何を言ってるんですか。貴方は、アイビーは、そこにいるでしょう」
「いないよ。もう、アイビーは死んでいる。世界を混乱に落とし込んだ魔王は、すでにもう死んでいるんだ。そして同じく、多くの人を喪わせることでしか未来を作れなかった愚鈍な聖女も、死んだんだよ」
アイビーの姿をしたその人物は、うっすらと笑った。
「全員、死んだ。だからもう、彼らの名が呼ばれることはないでしょう。さようなら、ありがとう。マーガレット」
聖女は聖女に未来を託して、背中を向けた。
◆
「ひどく、恐ろしい戦いでした」
王城のバルコニーより、マリー女王の言葉が広場に響き渡る。
細い身体から出る声は、決して大きいものではない。しかし、聞く人の鼓膜と心を揺らすに足るものだった。
「多くを失い、多くの涙が流れました。大切な人を失った者も多いでしょう。泣くなとは言いません。俯くなとは言いません。しかし、貴方の明日は、そんな彼らが作ってくれたものなのです。どこかで良いので、一度だけ前を向いてみませんか。明日のことを考えてはみませんか」
マリー女王は一度俯くと、顔を上に向けた。
雲一つない青空に、視線を投げる。
「黒の曲芸団は全員魔の森で死ぬこととなりました。私たちの勝利です。これからはこんなことが起こらないよう、聖女様と共に未来を見守っていきます」
マリー女王の隣に、聖女マーガレットが姿を見せた。
女王に負けず劣らず着飾った彼女は、大きな声で宣言した。
「私は聖女マーガレット。貴方たち国民を守り、未来を紡いでいくことを誓います。この平和な世界が未来永劫続いていくことを、全員で祈りましょう」
慈母のような笑顔に、傷を負った多くの者は涙を流した。
魔物と共に人類を襲おうと目論んだ大罪人たちの思惑は、今ここに、散ったのだった。