169. 残された者たち
◆
死者は三千人を越えた。
今回の戦闘に参加した人間の、およそ半分だった。
号外が出回ったのは今朝の事。報告を聞いたその男は、何とも言えない笑みを零したものだった。
「激しい戦いとは聞いていたが、ここまでとはね。惨敗もいいところじゃないか」
魔物の鳴き声一つ聞こえない間に、すべてが終わっていた。王都に住む国民の多くは、ぎりぎりのところで人類が勝利したという結果だけを知る。死傷者の数を聞いて、悲鳴すら聞こえない場所での尽力に息を飲むばかりだった。
王都内のバーは、通常通りに営業していた。
カウンターで一人酒を煽るその男は、名を持たなかった。いや、正確には、以前の名を失っていた。命の代わりに名を捨てたのだった。
店主とは知り合いのようで、二人きりの店の中、遠慮のない言葉を交わし合う。
「しかし、王都には魔物一匹訪れていません。人類の、彼らの、勝利ということでは?」
「まあそうだろうな。多くの人柱の上、今の世界は動いている。よくやった、と褒めるべきだろうよ。少なくとも、俺様はこの戦いで死んだやつらに盃を傾けてやりたいね」
「貴方もよくやったと思いますよ」
「よせや。俺様は命欲しさにこの王都に”残った”んだ。俺様なんかではなく、魔の森まで軍を引き連れていった俺様の仲間の方が賞賛されるべきだ」
「貴方は貴方で別の仕事があった。それを全うしたでしょうに。貴方も多くを失ったでしょう。そう、自分を責めるように酒を煽るのをやめなさい」
「王都のやつらがどうして喜んでいるのか知っているかい? 大量の魔物が死んだのもそうだが、それよりも、黒の曲芸団が全員死んだからだ。憎き馬鹿どもが死んだからだ」
男は褐色の液体を一気に飲み干した。
店主が眉を寄せるが、それを気にした様子もない。
「はっは。人類に歯向かった馬鹿なやつらは、魔物と一緒にお陀仏だ。ざまあみろ。てめえらのせいで何千人も死んでんだ。地獄で何千回と死んでこい。そりゃ、誰だってそう言うわ。やつらの手配書を足で蹴り飛ばすわ。
……誰が本当の英雄か、大声で触れ回りたい気分だ」
「やめなさい。それこそ、彼らが尽力した意味がない。守るべきものの中には、貴方もいたはずですよ。少なくとも、貴方とここで話していた彼は、貴方に深い情を有していました。私はそう見ていました」
「んなことどうでもいい。
――死に損ねちまった。あいつらと一緒に死ぬべきだった。義がねえよ。俺の人生において最大にして最悪の失態だ。やり直してえ」
男はカウンターの上に上半身を投げた。
店主は嘆息し、水を彼の前に置いた。
「貴方も今や死者です。ウルフという存在は、すでに死んでいます」
「その名を口にするな」
「ええ。だから、生きていた頃の矜持など、捨ててしまいなさい。第二の人生が貴方を待っていますよ」
「死者は語る口を持たない、か。……ただの戯言だな」
その男は鼻を鳴らして、置かれた水を嚥下した。
◆
「今なら多分、あの女に勝てるわよ」
プリンツは執務室にて、何の気なしに呟いた。
部屋の中には、彼の他に一人。ロイは執務机の上の書類を処理している。
返事がないことにも構わず、プリンツは自身の髪をいじりながら言葉を続ける。
「速報が届いたわ。この戦争での死者は兵の六割にも及ぶとのことよ。数千人規模の人間が、たった数日の間に亡くなっているの。時間が経つにつれて生存者は減っていき、救出作業や撤収作業の合間にも、死者は増えていくでしょう。そんなものが勝利と呼べるのかしらね」
プリンツの視線は次に、自身の爪に移る。
綺麗に揃えられた爪は、手塩にかけて手入れした自信の一品。
「訃報を受け取った国民たちは、反乱の一分子になって何もおかしくない。マリー女王は無為に人を死に追いやった。そんな中、自分は五体満足で戻ってくるなんて、どういうことだ。民衆の怒鳴り声が簡単に想像できるわ」
欠伸を一つ。
ソファに身を投げて、ロイに視線を投げた。
「マリー女王はまだ王都に戻ってきていない。国民が混乱している今なら、あの女の支持を下げることは容易よ。邪魔になる騎士君ももういないし、女王派の人間は多くが討伐隊基地に向かっている。今、この王国は私たちの手でどうとでもできる状況にあるわ。実際、大臣の何人かは私に話を持ち掛けているわ。玉座をすり替えるなら今しかないって」
「その通りだな。これが俺が王になる最後の好機と言っていい」
ロイは口を開いて、プリンツと視線を合わせた。
互いに同じ結論に至ったことを悟ると、どちらかともなく口を開く。
「その大臣の口を塞いでおけ」
「その大臣は黙らせておいたわ」
ため息を吐いて、ロイは言う。
「今更私は玉座など狙っておらん。自分の至らなさも承知しているし、私がいまだ王を狙っているなど知れれば、余計な火種を生むだけだ。もうあの選挙ですべての決着はついたんだ」
「素直ね。兄さんらしくない」
「私もいつまでもあのままではいられない」
ロイは眉間を押さえた。
「負けているとは思わない。ただ、あの女は今回の一件でうまく民衆を誘導し、予言の克服を成し遂げた。せっかく国民が一つになって成し遂げたというのに、それをひっかきまわすのは国のためにならん。あいつが玉座に座っているのがベストだ。今回の件で、あの女に反旗を翻す人員を掃討し、私は身を引いたことを対外に示す。もう無駄な争いなどは行わない」
「それは可愛い妹のため?」
「馬鹿が。あれほど憎らしい妹がいるものか。あいつのせいでどれほど……。今だって余計な仕事を増やして、まったく……。
これは国民のことを思ってのことであり、父の遺言を慮ってのことである。そして何より、私が玉座を奪うこと、それはあの女が喜ぶだけの選択だ。取るべき責任を失って、笑顔で去っていく姿が目に浮かぶ。気に食わん」
ロイの渋面に、プリンツは微笑んだ。
「ええ、そうね。本当に気に食わないわ。
こちらにマリー派の人間をほとんど残さずに討伐隊基地に向かったんだもの。留守中に何をされてもいいという、私たちを舐めているともいえる判断よね。私たちを信じてる……わけもないしね。結局、どっちでもいいのよ。王を追い出されたのなら、別の生き方をする。そんな女よ、あれは」
「腹の立つ女だ」
「ええ、とっても。だから、そんな思惑には乗ってあげない」
二人してため息。
しかしそれほど重いため息ではなかった。
嘆息して、これからの行動を話し合う。
「国民には理解してもらうしかないでしょう。どのみち、聖女も女王も、死闘になることは伝えていたわ。貴方たちの命は彼らが守ったの、とうまく演説して説き伏せましょう」
「やつらが帰ってくるまでに話を回しておくべきだな。彼らは英雄でなければならない。これからの王国のためにも。
そしてそのお膳立てをするのは、不承不承ながら我々の役目だ」
やるべきことを明確にして、二人は頷き合った。