168. 「ん。」
◆
どれほどの時間が経っただろうか、どれほどの犠牲を払っただろうか。
気が付けば、地面を埋め尽くすほどの魔物が、すべて動きを止めていた。赤い血をまき散らして、舌をだらしなく垂らして、四肢を弛緩させて絶命していた。
もう周囲に生きるものがない。
それに最初に気が付いたのは、スカビオサ・エクスカリバーだった。
数日間、眠ることもなく振り続けた四肢は、すでに棒きれも同然だった。感覚を失って、今となっては動いていたのが不思議なくらい。服にこびり付いた赤黒い血はどれも返り血。じかし、自分の血だと言われても素直に信じてしまうくらい、顔の血の気は引いていた。
すべてを使い果たした彼女は、その手から彼女の代名詞の剣を取り落とす。
真っ白な顔で、周囲を見渡す。
「……終わった、の?」
近くの樹に背中を預けて、周囲の音を聞く。
何も聞こえなかった。木々のさざめきが鼓膜を揺らすのみで、魔物の足音もうめき声も聞こえない。
しんと静まり返る世界は、しばらくぶりの静寂。騒音に塗れた世界に慣れ切っていたから、かえって五月蠅いくらいだった。
「……誰か、いる?」
近くに誰かいないか、確認の声を出す。
返事はなかった。
魔物の死骸の山の中に、人間の死体も混じっていた。
地面を彩る黒色は、何も敵のものばかりではない。
死だけが溢れるこの場所では、逆に自分だけが死んでいるのかもしれなかった。そんな妄想に悩まされるくらい、現実味が薄い。
赤と黒とに着色された世界には、何もない。誰もいない。
「……勝ったのかな」
スカビオサは空を見上げた。
葉の隙間から見える世界は、綺麗な青空だった。
溶けてしまいそうになる。
でも、ここに至ってもスカビオサが”眼を覚ます”ことはなかった。まるでこれが夢だと錯覚するように、十年前の朝へと移行することはなかった。
数多の歴史の中で、繰り返される日々の中で。
幾度のやり直しの果てに行きついたこの未来。
これは、現実。
これが、現実。
たどり着いたのは、こんな、救われない終末。
死が蔓延する、地獄の世界。
でもきっと、だからきっと、
これが、未来なのだ。見たくもない現実に眼を背けて、理想ばかりを追い求める虚実を振り切って、たどり着いた末路。
良いことばかりではなく、悪いことばかりでもない。
「私は、誰かのためになれたのかな。英雄になれたのかな」
人殺しだけではない、何かになれたのだろうか。
後世に語り継がれる、英雄になれたのだろうか。
どっちでもいいか。
この世界が終わりを迎えて、人類が前を向けるのであれば、それ以上のことは何もない。
自分がこのまま動かなくなったとしても、それでいい。
終わったのであれば、自分も、終わってもいい。
何よりも。
「……つかれた」
スカビオサはずるずると腰を落としていって、地面に尻を落とした。
エクスカリバーが消え失せる。
このまま眠りに就けば、エクスカリバーや他の霊装は次の所有者を探して旅立つのだろう。自分が止めてしまっていた歪んだ系統から解き放たれ、もっと優れた人物たちに受け継がれていく。
ごめんね、私が集めてしまって。
どうせ感情もないだろう霊装に、スカビオサは頭を下げる。
でも、これからは自由だから。
だから、自分の好きなように所有者を選ぶんだよ。
そしてそのままゆっくりと目を閉じた。
「ばか」
声が落ちてくる。
こんなところで誰だろうか。地獄からお迎えでも来たのだろうか。
気になって瞼を開けると、マーガレットがそこにいた。
彼女も彼女で真っ赤だった。全身赤色の絵の具をぶっかけられたかのような有様。別の場所で必死に戦っていたのだろう。
彼女がこんなになるまで戦ったのなんて、いつぶりだろうか。久しく見ていなかった戦闘の色に、少しだけ笑みがこみあげてくる。本気で抗ったのは、自分だけではないということ。
満身創痍なのはスカビオサもマーガレットも同じ。肩で息をしながら、それでも、スカビオサを強い意志を込めて睨みつけていた。
「何を安らかな顔をしてるんですか。
……駄目ですか?」
マーガレットの顔が悲痛に歪んだ。
「やめてくださいよ。貴方は四聖剣でしょう? 王都に戻って、凱旋を伝えないといけません。人の未来を築かないといけません。こんなところで死んでいい人間じゃないんです……」
マーガレットは涙を流して、スカビオサの身体を抱きしめた。
「スカビオサ。貴方まで逝かないで。一人にしないで……」
赤ん坊のような泣き声に、スカビオサはため息をついた。
そんな顔をされてしまっては、おちおち死んでもいられない。
自分は死に損なったようだった。
英雄は死んでこそ英雄になるというのに、その階段を上り損ねた。
――私は最初っから、英雄の器じゃないもんね。
徹頭徹尾の弱虫。
偶然が重なってここにいるだけの存在。
だから、生きる。
歴史の中に残るような存在じゃない。そんな大層なものじゃない。
むしろ、真の英雄たちを後世に伝えていく必要がある。
ここで散っていった人間の墓標に華を添える役割がある。
「ごめんね。わかってるよ。私は死ねないんだ」
スカビオサは首を横に振った。
「駄目じゃないよ。大きな怪我はないし。つかれたから、ちょっと休もうと思ってただけ」
「ばか。こんなところで眼を閉じるなんて、それはちょっとの休憩で済むんですか。永遠の……、いえ、もう、いいです。
それに、まだ終わったと決めつけるのは早いですよ。残党がいるかもしれませんし、第二陣が来るかもしれません。私たちはもう、未知の世界の中にいるんですから。ほら、立ってください」
「もう立てないよ」
「……じゃあ、おんぶしてあげます。ほら」
マーガレットは涙を拭った後、屈んで背中を向けてきた。
いつになく献身的なマーガレットの態度が面白くて、スカビオサは少しだけ笑ってしまった。
彼女も彼女で、本来は面倒見の良いいい子だったことを思い出した。
――難儀だね。
だから、余計に辛いだろうに。
頑張って辿り着いた先が、こんなところで。
でも、これ以上の結末はどこにもなくて。
人の心をすべて失うことができたら、良かったのに。
「いいの? 貴方だって限界でしょう?」
「私はただ炎をまき散らしてるだけで良かったから楽だったんですよ。剣を振り回していたのは他の人の役目でしたので」
「じゃあお言葉に甘えようかな」
そのまま彼女の背中におぶさる。
マーガレットは立ち上がる。
「軽いですね」
「帰って、きちんとご飯を食べないとね」
「そうですね。早く良くなってください」
マーガレットは討伐隊基地に向けて足を進めていった。
帰り道は死の道。
足音はびちゃ、だったり、ぐちゃ、だったり。
皮肉にも死体と死骸が連なっているところを道なりに歩いていけばいいから、迷う事はなさそうだった。
「とりあえず、まずは基地に戻りましょう。これで終わりかどうかわかりませんが、どちらにせよ、もう限界が来ています。立て直しが必要です」
「うん。もう何も動かせない」
「私も足が棒のようです」
「それなのに探しに来てくれたんだ」
「……一人で帰るのが嫌だっただけですよ」
スカビオサはマーガレットの背中越しに前を見つめた。
死、死、死。
生きているものなんか碌にいやしない。
これで勝利と呼べるのだろうか。
この死の上に成り立つ勝利が、人類のためだと言えるのだろうか。
「……貴方が生きていてくれて、良かったです」
沈んだ声に、スカビオサは返すことができなかった。
慰めとしては、これだけの死が集まってもまだ”少ない”と言えるところ。
これらが王都に向かっていれば、死者はこの比ではない。人類滅亡だと言って間違いない状況になる。
少数の犠牲の上に立って、多数の未来を得る。
残された者は生きなければならない。
だから、スカビオサは彼女を守るために存在していた護衛団の行く末のことは聞かなかった。
マーガレットが一人で担当区域ではないこんなところまで人を探しに来ていたことから、色々と察せられた。
ここが現実になってしまった以上、彼らは”人間”なのだ。
失った人間に心を痛めて当然。もう彼らは話さない。
ようやく、”私たちにとって”、多くが”人間になれたのに”。見なすことができるようになったのに。
いなくなってしまったのか。
人の姿をどこまで探したんだろうか。
どれほど心を痛めただろうか。
この子はなんだかんだ、寂しがりだから。
「私も。貴方が生きていてよかった」
震える背中を、抱きしめた。
力の入らない弱弱しいものだったけれど。
マーガレットは何も言わなかった。
歩いていく間、生きている人間は誰もいなかった。
道に転がっているのは、苦悶の表情で絶命している兵士ばかり。死後何日か経過しているものも多かった。
数千人が派遣された今回の戦。
一割でも生きていればマシなように見えた。
「ひどい有様ですね。討伐隊の基地が無事であることを祈りましょう」
「取り逃がしてたらどうしよう。壊滅してたらおしまいだよ」
「とりあえずまだトキノオリは発動していません。前回よりは進歩があったということでしょう。王都に向かった魔物も少なく、人類はそこまで蹂躙されていないのかもしれません」
「そうだといいな。……これ以上はもう無理だよ、色々と」
「そうですね。また巻き戻されても、頑張れないかもしれません」
同じ境遇の二人は、小さな声で話しながら、来た道を戻っていった。
残された力をすべて振り絞った。
次の世界に進んだとして、もう、残っていない。
身体は元気。
しかし、心は摩耗した。
損耗して消耗して。もう、何も残っていない。
何故人間の生が数十年なのか。身体以上に、心が残らないのかもしれない。
むしろここまで良く残ったものだと褒めてやりたい。
しかしその原因はアイビーの憎悪ドーピングによるものだから、何とも言えない気持ちになる。
結果的に、魔王アイビーの策は功を奏したのかもしれなかった。
まあしかし、どれも、この歴史が正史となればの話だけれど。
魔物は一切現れない。ただただ死骸が積み重なるのみ。
やがて、魔の森を抜けた。
鬱蒼とした樹木から、広々とした原っぱが広がっている。
眩しさに目を細める。
討伐隊の塀は来た時と同じ。人の背の高さを保っていた。
周囲に死体も見られない。赤色は散っているので、片づけられたのだろうか。その余裕が残っていたのだろうか。
魔物の死骸も一か所に集められている。深く掘った穴の中に放られて、後は燃やされるのを待つだけ。
「……遅いわよ」
近づいてくる影に顔を向けると、そこにはマリーが立っていた。
目の下に深い隈を作って、呆れたような表情を作っている。
「死んでるのかと思ったわ」
「うるさい」
スカビオサは大きく息を吐いた。
この女が生きているということは、そういうことだ。
前線から一切離れずに兵士を鼓舞していたこの女が笑っているということは、そういうことなのだ。
様々な感情が沸き起こる。
達成感なんてものはなかった。
ただただ、後悔と喪失とがあった。
切れ味の悪いナイフで裂かれたような、傷口がじくじくと痛みを上げるような。
しかし、それでも。
生きて、ここにいた。
明日。自分の知らない明日があることを知った。
「ん」
マーガレットが拳を向けてくる。
「うん」
スカビオサは自身の拳を、そこに押し当てた。