167. その日
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その日。
魔物が世界を覆う日。
魔の森では魔物がいたるところから噴き出した。
リンクたちが消息を断ってしばらく。
聖女マーガレットの示した予言の日。
緊張の面持ちで魔の森を巡回していたとある兵士は、百を裕に越える魔物に襲われた。魔物の軍勢は世界という器から零れ落ちたかのような勢いで、自分に差し迫ってくる。
剣を構えると同時に魔物の波に飲み込まれる。兵士は、ほとんど何もできなかった。無我夢中で藻掻き続ける中、全身を牙と爪に突き刺され、断末魔の叫び声を上げる。
死ぬ。
眼前に、死が見える。
いや、見えたと思った時には、すでに全身が浸かっている。
もう、避けられない。
もう、逃げられない。
死ぬ。
しかし、ただ殺されてやるものかと思った。
自分がここで何もしないで殺されてしまえば、魔物はすべて王都へと向かう。王都に残した家族が瞳の裏に浮かび上がる。親族の一人は魔物に噛み殺された。残された家族は多いに泣いた。あんな世界を作り上げてはいけない。それを防ぐために、今自分はここにいる。命を失う覚悟はしていたはずだろう。決してただ殺されるためにいるわけではない。魔物の餌として生きてきたわけじゃない。
「うわあああああああああああああああああああ」
絶叫して、剣を魔物の首に突き立てた。前後左右を魔物に圧迫された状態、碌に剣も振りかぶれなかったので、それを捨てて、血まみれの腕で魔物の首を絞め殺した。指が噛み千切られたので、自分も歯でその首根っこをかみ砕いてやった。いつの間にか自分の首からも血が溢れていたので、せめて身体だけ、少しでも魔物を押し留めるように踏ん張った。
がむしゃらに。
それが無為なものとはわかっていて。
「――ありがとう」
眼前の魔物がはじけ飛んだ。
極光に包まれて、魔物に囲まれて見えなくなっていた景色が見えるようになってくる。
しかし、もう何も見えなかった。
魔物に押しつぶされることもなくなったのに、自分の身体の感覚が遠かった。誰の声だったのか、それを確認することもできない。目が見えないのか、脳が認識できていないのか、それすらもわからない。もう身体の感覚もない彼は、ただただその声を聞く。
「同時に発生する魔物すべてに対応はできない。けれどここにおいては、貴方のおかげで、私は間に合うことができた。この魔物が人を喰い殺すことはない。貴方は英雄よ」
四聖剣スカビオサ・エクスカリバー。
彼女は振り向いて、潤んだ瞳で笑いかけていた。
薄い視界、スカビオサが笑っていることがわかった。
遠くからしか見たことのない遠い存在に、英雄と呼ばれている。本当の英雄は、やはり英雄だった。自分なんか、四肢を捨てても命を賭けても足止めとすることしかできなかったのに。
人の命には価値がある。貴賤がある。
わかっていたけれど。
自分の命が軽いものだとは思いたくはないけれど。
現実はとても、非情だ。
「……王都に妻がいるんだ」
「うん」
「後は、任せた」
「……スカビオサ・エクスカリバーが承った。英雄の働きに報いる未来を、貴方の愛する人に」
死にたくはない。
未来に自分がいないなんて、考えたくもない。
それでも、自分に成し遂げられたことがあるのなら。
ただ漠然と死ぬよりも、家族を守ることができたのなら。
それは
◆
「どけ」
悲鳴が上がる場所においても、プリムラ・アスカロンは従来と変わりがなかった。
武骨に、不愛想に、不器用に。
今まさに噛み殺されそうになっている一人の兵士を襲う脅威を払うべく、アスカロンの鎧の上から魔物の頭蓋を握りつぶした。
鮮血が飛び散ったその存在の死を確認する間もなく、更に襲い掛かってきた魔物を大剣で叩き切る。
絶え間なく押し寄せてくる化け物たち。
鎧を身にまとった巨躯は、魔物の群れと人の世界とを断絶するように立ちふさがった。
「魔物など、俺が殺す。俺がやるべきことなのだ。雑魚は俺の後ろにいればいい。弱弱しくぴいぴい泣いていろ。貴様らが眠っている間に、すべてが終わっているだろう」
傲岸に、厚顔に、傲慢に。
それが、プリムラ・アスカロンだった。
自分に対する矜持が肥大であり、しかし、それを掴んで振り回すことのできる男だった。
他人を見下すのは、自分が上にいる自負があるから。自分が上であると疑わないから。
だから、助ける。上にいる人間として、下にいる人間は救ってしかるべき。
「雑魚は雑魚らしく、俺の後ろで泣いていろ」
皮肉たっぷりの言葉。
矜持の一つも有していれば、反駁して当然の言葉。
「――はいっ」
しかし、死の瀬戸際にいた兵士は、その言葉を頼もしいと感じた。
言葉は悪くとも、行動は正義だった。
この人の近くにいれば、守ってくれる。この人は民のことを慮ってくれる。四聖剣の名に恥じない力を持って、戦ってくれる。
「我が名はプリムラ・アスカロン。不承不承ではあるが、とある下らない者たちから人類の命運を託された身だ。この身朽ちるまで魔物を殺しきってくれる」
数十の魔物にも臆することなく、その身を前に進ませた。
◆
それは閃光のようであった。
何かと見てみれば、人間の形をした”何か”だった。兵士はそれを視認することができなかった。それは刃をもって、兵士の眼前に迫る魔物を切り捨てた。
「大丈夫ですか?」
自分の目の前で、それの足が止まる。よく見ると、それは四聖剣ザクロ・デュランダルであった。
精悍な顔つきに、柔和な表情。
こくりと兵士が頷くと、「良かった」と頷く。
兵士は安堵と共に、不甲斐なさを感じた。
四聖剣が強いことはわかっている。しかし、自分だって強い。騎士団員として長い間戦いの最中にいた。周囲の魔物の死骸だって、自分たちの手によるものだ。
同僚と力を合わせて、数十の魔物を屠ってきたのに。彼からすれば、それは児戯なのかもしれない。自分たちの行動なんか、意味のないものなのかもしれない。
「ありがとうございます。貴方たちのおかげで、僕も自由に動けているんです」
綺麗な笑みに、兵士は思わず泣きそうになった。
馬鹿か。羨ましがっている場合でもないのに。誰が魔物を殺したかじゃない。全員で、魔物を殺すのだ。
自分たちだって頑張っている。そしてその成果は確かにある。
「同僚がもう、何人も死んでいる」
魔物の死骸に混じって、人の死体も転がっている。赤と黒に塗れた世界では、死体がどこにいくつあるのかもわからない。
さっきまで隣にいた存在がどこにいったのかもわからない。
「俺だって、もう死を待つだけだ」
「……貴方には、もう一度話したい人はいますか?」
ザクロの言葉に、顔を上げる。
にっこりと笑うその顔は、戦場に不釣り合いな、一つの華のようだった。
「少しでも心残りがあるのなら、その思いが貴方を生かしてくれますよ。だから、捨てないでください。大切に、掲げていてください」
「……悪い、馬鹿なことを言った」
何を言っているんだ、自分は。こんな状況下で、慰めの言葉を期待していたのか。
全員、同じ気持ちで戦っているのに、自分だけが何を足を止めているんだ。ここで自分がなにもしなかったら、同僚の死は何のためにあったんだ。
未来で話したい相手はもういなくとも、彼らが作った未来を無駄にしたいとも思えなかった。
兵士が顔を拭ったのと同時、ザクロは空を扇いだ。
「わかってる。誰も死なせないようにすることなんか、無理だ。こんな脅威、誰かの一助でなんとかなるはずもない。全員が必死で戦って、全員が死んで、ようやく成し遂げられること」
独り言のように呟いて、襲い掛かる魔物に切っ先を向けた。
「でも、夢を見ることはいいでしょう? ねえ、リンク君。夢があるから、君だってここまで来たんだろう? 託されたその思い、僕が繋いでいくよ。だって僕は、君の中では英雄なんだから」
ザクロが地面を蹴ると、大地が爆ぜた。
それくらいの力を込めた跳躍で一気に魔物に詰め寄ると、一刀の元に切り捨てる。
一匹、十匹、百匹。
覚悟を決めた瞳で、魔物を殺していった。
◆
黒剣が地面に突き刺さる。
同時、その横を通り抜けようと駆けた魔物の身体が爆ぜた。
周囲の樹木すら巻き込んだ爆発は、数匹の魔物を絶命させるに十分な威力を有していた。
「こんなもので私が殺せると思ってるんですの?」
シレネ・アロンダイトは黒剣を手に、不遜に鼻を鳴らす。
一人、背後に魔物の死骸の山を積み上げて、魔の森と人の世界とを断絶する壁となる。最寄りの木々をすべて薙ぎ倒し、見通しの良い場所を作り上げ、ここから先は一匹たりとも通さないことを誓った。
限界は遠い。
まだまだ、何匹でも相手にできる。数百匹の魔物が相手であっても、まだ男一人相手にする方が大変だと思った。
近寄ってきた魔物を切り捨てて、数が多くなってきたら衝撃波を発する。
自己中心的な能力だと改めて思う。守れるのは自分だけ。殺せるのは周囲だけ。これは最初から、誰かと足並みを揃えるような力ではなかった。
でも、そんな自分だからこそできることがある。
別に仲良しこよしがしたいわけじゃない。目的があって、自分の力が必要で、だから剣を振るう。
ただ、やりたいことがある。
「後は私の役目。命を賭してまで守ろうとしたこの世界、私が守って見せる。だから、見ていて。この世界の未来を。在り方を」
そうしてまた、彼女は死骸を積み上げる。
◆
魔の森が本気で魔物を吐き出し始めてから、軍の本部に入ってくる死傷の報告に枚挙の暇がなかった。
どこの隊の誰が死んだ。どこの隊が全滅した。
マリーは魔の森を眼前に捉えて、遠くから聞こえる悲鳴をただ受け止めていた。
「マリー様。基地に戻った方がよろしいのではないですか?」
傍にいるのはエクセル。
魔の森の入り口付近にいるマリーを慮ってのことと、この場所を守り切れるか不安な胸中があった。
一匹二匹くらいなら残っている兵力でも殺せるが、数十の魔物が森を抜けて来たら、命の保証はない。国のトップがこんなところにいてはいけないのに。
マリーは視線も顔色も変えなかった。
「馬鹿なこと言わないで。どこに逃げたって一緒でしょ。貴方たちが私を守れないようなことになるんだったら、どのみち終わりよ。基地に逃げ込んだって王都にいたって、死ぬときは死ぬわ」
「それは一理ありますな。この場所が守らなくてはならない最終防衛ラインということですか」
「ええ。私たちは死んでもここを死守しないといけない。私だって学園にいたんだから、剣の扱いの一つも学んでいるわ。女王とか関係なく、人類を救う駒として使われるべきよ。
それに、彼らの悲鳴を聞かないのはフェアじゃないわ。私が命令していることなのだから、上に立つ者として、すべてを受け止める責任がある」
森の中から這う這うの体で姿を見せた兵士がいた。体中が傷だらけで、すぐに手当をしないと死んでしまうだろう。
近寄って話を聞くと、二十人規模の集団が一つ壊滅したらしい。ほぼ全員が死に、防衛ラインが保てないと言う事。近くにいたシレネが穴埋めに向かい、なんとか急場を凌いだとのこと。
またか。
こんな報告ばかりだ。
すでに百を越える死者が出ていて、これからも増えていくのだろう。
アイビーもスカビオサもマーガレットも、終わりを見たことがない以上、いつ終わるかもわからない。誰に聞いても何もわからない。地表の見えない海の中を泳いでいくようなもの。
しかし、それなら死ぬその時まで泳いでいけばいい。死んでから次を考えればいい。負けを認めるまで負けにはならないのだから。
報告の後、気を失った兵士を医務室に運ばせて、マリーは腕を組んだ。どれだけの死者が出ても、どれほどの地獄が待ち受けようとも、てこでも動かないつもりだった。
そんな覚悟を横目に、エクセルは息をつく。
「肩の力を抜いてください。そう、一つ一つの死に反応していてはもちませんよ。貴方が倒れれば、戦線も維持できません」
「私は王よ。人間に部位でいえば、脳。彼らは四肢。四肢が噛み切られて痛みを感じないような愚鈍な頭にはなりたくない。あとね、真の獣は脳がなくなろうが仇敵の喉元に噛みつくものよ。私がいなくても、背後が守れればそれでいい。人間の本能に期待しましょう」
マリーは口の端を歪めて見せた。
エクセルは嘆息した。
「貴方が王です、マリー様」
「何を今更」
「一生ついていくことにします」
「私は王には固執しないけれど、貴方には渡せないわ。これは私の物語だもの」
「これはこれは。貴方はいい王になる」
エクセルは笑った。
マリーはエクセルの方を見ずに、唇を噛んだ。
「託されたのよ。これを成すために、私は生かされたの。だったら、やってやろうじゃない。――どんな犠牲を払ったって、ここで魔物を殺しきる。あいつに見せてやるのよ、私たちが守ったこの世界を。この未来を」