163, 灰色は毅然と(1)
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誰もを納得させる方法は、理論的でいることだ。
主観性を排し、客観性にのみ身を投じる。
自分のためではなく、その他大勢のために行動する。
誰にとっても公平となり、わがままだという意見を封殺する。
そして、それを体現するものが聖女と呼ばれる存在である。
――私は一体、何なんだろうか。
アイビーはナイフを空に放り投げながら、漠然と思った。
この聖女の記憶を手に入れる前のことは、もう思い出せない。他の人間の記憶を背負う前の自分は、果たしてどんな人間だったのだろうか。
数多の人間の記憶が積みこまれたこの霊装を手にした瞬間に、主観性は消え失せた。過去、多くの人間が人類のために努力をしてきたことを知った。誰もが一つの未来のために、自己を犠牲にして邁進していたことを理解した。
それはただの記憶。けれど人格を形成するのが記憶である。従来、田舎の街で育ったアイビー・ヘデラは、すでに存在していない。
そんな彼女たちは、アイビーを嘲笑う。
現在の行動を馬鹿にする。
リンクを救う意味はない。あれはもう、機能するものではない。万が一生き残ったとしても、戦線に復帰することはない。であれば、無価値に等しい。そんなもの、放っておけ。
後ろを振り返ってはならない。そこに魔物を殺す術はない。死者に目を向けるのではなく、生者を使い切る方法を考えろ。ただ、魔物を殺すために前に進め。
客観的に、理論的に、人類の危機を脱するために、声は響く。
人の未来だけを考えているそれらの存在は、人は消耗品として見なしている。
使える分だけ使いつくして、用がなくなったらゴミ箱へ。
数多の人間を足蹴にして、前へ、前へ。
人類のための犠牲なのだ。消耗した人間を切り捨てる選択は何も間違っていない。むしろ、光栄でしょう? その努力は人類の礎となる。無為に生きて無意味に死ぬ有象無象とは大違い。貴方の死が、これから先の人間を支え続ける。
光栄でしょう?
素敵でしょう?
だから、人類のために、喜んで、誇りに思って、死んで。
そう、微笑む記憶たち。
「うるさいなあ……」
アイビーはそれらの声を一蹴する。
――私は、私たちは、その他大勢のために生きてるわけじゃない。
人類は大事。世界は大切。それら基盤の上に自分たちは立っているのだから。
でも、だからといって、それらすべてに命を捧げるのは違う。それでは、”生きている”意味がない。
反旗を翻すようなこと思うと、何を考えているんだと、過去の人たちは言う。
自分だって、人生の全てをこれに捧げたんだ。聖女として、十全に生きたんだ。わがままをやめて、ただただ世界のために生きたんだ。聖女となったのなら、この血が流れているのなら、貴方だってそうするべき。貴方の一存でここまで続いた世界を壊すことになるんだ。繋いできた人の世界を失わせるんじゃない。私たちの努力を無駄にするんじゃない。わがままを言うんじゃない。
今までのアイビーはその声に殉じてきた。
私だって聖女だから。
でも。
私は聖女である前に、アイビーなのだ。
リンクが、シレネが、それを思い出させてくれた。
自分を捨ててまで、聖女でいるなんて嫌だ。
そう思う自分がいることがわかった。
聖女の中に沈んだアイビーを見つける。
深い場所に、確かにいるんだ。
アイビーは笑う。
――可哀想に。貴方たちは、自分を殺さないと、世界を救えなかった。何かを捨てないと、何かを得られなかった。
逆に嘲笑う。
過去の聖女たちを。
彼女たちを、自分と切り離す。纏わりついてくる怨嗟の声を斬り捨てた。
――貴方たちと私は違う。私はすべてを手に入れる。世界を救って、愛する人も救う。
声は脳内で残響する。
大バカ者だ。
欲張りだ。
わがままだ。
自己中心的だ。
主観的だ。
聖女失格だ。
「うるさい!」
誰もいない空に叫んだ。
「自分が出来なかったからって、他人にそれを求めるな! 自分ができなかったことで、他人もそうだと決めつけるな! どっちがわがままだ。結局、聖女たちは、負けた人間ばかり。諦めて、諦めて、諦めて、全員、それが聖女の仕事だと決めつけて、自分で自分を捨てたんだ。主観的なのはどっちだ、わがままなのはどっちだ! 私が何も失わずに事を成し遂げられそうだからって、足を引っ張っているだけじゃないか」
アイビーは叫んだ。
アイビーは怒った。
アイビーは慟哭した。
そこに聖女の意志は介在しなかった。記憶の中、今はどこにも存在していない聖女たちは、黙りこくった。
「――黙って見ていろ、負け犬ども。私がこの聖女の歴史すら、ぶち壊してやるから」
聖女は人類のために殉ずるべき。
命を捨ててでも世界を救うべき。
違う。
これは命を捨てることが目的じゃない。自分を失う事が聖女ではない。
世界を救う事。それが、目的。
だったら、いらないんだ。自分が死ぬ必要もないし、愛を捨てる必要もない。
私は私のまま、生きる。
彼が救ってくれた私を、大切にする。
そして、自分が大切にしているものを、救いたい。
これが、私。
こう思う事が、私。
ナイフを握る手に力がこもった。
しばらく進んでいくと、アイビーは枝葉の隙間から、後退していく集団を見つけた。ナイフを下に投擲、地面に降りてその人物の様子を窺う。
そこにいたのはプリムラ・アスカロンと、部下の集団だった。
数人で行動していた彼らは空から降ってきたアイビーを認めると、目を見開いて即座に剣を抜いた。
「魔王アイビー! こんなところで何を!」
間違えた。
これは自分の求めていた集団ではない。
アイビーはナイフを手に、移動しようと考える。
その思考を遮ったのは、プリムラが担いでいる女性の存在だった。裂傷に塗れたライが身体をぐったりさせてプリムラに担がれていた。
血の気が引く。
「……ライはどうしたの?」
「魔物の山の中に落ちた。噛まれて裂かれて殴られた。見てわかる通り、重傷だ。もうすぐ死ぬのではないか」
プリムラは何の感情もなく答えた。
鼻を鳴らして、
「よくもまあ、そんな悲痛な顔ができるものだ。貴様の引いた引き金だろう。被害者面をするな。後悔の顔を作れば許されるとでも思っているのか。貴様は懺悔して後悔して無残に死ね」
アイビーは何も言えなかった。
このまま斬りかかられるだろうと思っていたが、プリムラに戦闘の意志はないようだった。
「これからこいつを討伐隊基地へと連れて帰る。運が良ければ、生きられるだろうな」
プリムラはそのまま歩いていく。
他の兵士たちはプリムラが背を向けたのを見て、少し逡巡した後、プリムラの後を追っていった。
「待って」
その足を止める。
プリムラは振り返った。
「今からなら討伐隊基地に戻るよりも、進んだ方が早い。魔の森の奥に、転送の霊装が置かれてる。そこから討伐隊基地に飛ぶことができる」
そっちの方が距離は近い。
魔物の数は多くなり、危険も増えるが、プリムラなら苦にしないだろう。一刻を争う現状であれば、そちらの方が生存の確率は上がる。
「誰が何を言っているんだ。貴様のことなど、誰が信じるか。好き好んで魔物の巣に飛び込んでいくやつがどこにいる」
プリムラは乗ってこない。
これは時間との勝負。ライが救われる確率が高いのは、このまま進むことだ。
そちらに舵を切らせたいのに。
どうする。リンクが満身創痍でそこにいることを伝えるか。プリムラはリンクに敵愾心を有しているし、乗ってくるかもしれない。もしくは、更に煽るようなことを言うか。プリムラは負けん気が強いから追ってくるかもしれない。
そう考えて、ふと、一つ気になることがあった。
「なんでライを背負っているの?」
プリムラなら満身創痍になったライは放っておくはずだ。魔物の餌になれ、とでも言って我関せずな態度をとるはず。
「……別に。ただ俺の矜持が許さないだけだ」
その斜に構えた態度は、まさにプリムラそのもの。
しかし、それでも決してライを離そうとはしていなかった。
――この男も、変わったのかもしれない。
アイビーはさっきまでの考えをすべて捨てた。
深々と、頭を下げた。
「お願いします。ライを救いたいんです。私のことを信じて、このまま進んでください」
顔を見合わせる兵士たち。彼らは納得できない面持ちだったが、プリムラの返答を待った。
プリムラは大きく息を吐く。
「何を言うかと思えば。貴様は魔王だ。魔物をけしかけて、人類を破滅に導こうという悪魔だ。その自覚はあるだろう? どうして俺たちがその言葉に乗れると思う?」
「目的が同じだから。ライを殺したくはないでしょう? このまま戻っていっても、間に合わない。進んだ方が可能性が高い。貴方なら、正確な判断ができると思ってるんだ」
「馬鹿が。貴様が罠を構えている可能性は捨てきれない」
彼を納得させる言葉を、アイビーは持っていなかった。
でも、それで良いと思った。
何もここで頷いてもらわなくてもいい。
二人は敵なんだから、敵の言う事は聞かなくてもいい。
結果的に、同じ選択肢をとってしまうのは、しょうがないことだろうし。
天秤に乗せられるだけの選択肢を与えられれば、今の彼なら正しい選択をとる。そう、信じられた。
「お願いします」
アイビーは再度頭を下げると、空に向かってナイフを放った。
上空から見える景色では、プリムラが魔の森の奥に向けて足を進めたところだった。