159. 指輪
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討伐隊基地に備えられた指揮官詰所が、今回の魔の森遠征任務の本部となっていた。
魔物に攻め込まれてもある程度は耐えるようにと、石を積まれて建てられたその建屋の中には、基本的にはマリーとエクセル、二人の長が詰めていた。
討伐隊の隊長として任を受けているエクセルは、自慢の紅茶でもってマリーをもてなす。
「お味はいかがですか? マリー女王陛下」
「美味しいと思うわ」
「王都ではどのようなものを嗜まれているのでしょうか」
「さあ。侍従が勝手に買ってくるものを飲んでるわ。銘柄は知らない」
年頃の女性だ。それなりな話題になるかと思いきや、返ってくるのは塩対応。
エクセルは一度、紅茶を流し込む。
「お兄様たちは息災ですか? ここにはいらっしゃらないようですが」
「ええ。ぴんぴんしてるわ。だから王都は預けられるの」
「お三方が争っていたのがつい最近のようですね」
「私がいない間、別に奪い取れるものなら奪い取っていいと伝えてあるわ。私は別に玉座にこだわりはしない。どう? この回答でいい? 回りくどいことを言わないで、はっきりと言って」
マリーから見つめられ、流石にエクセルも苦笑するしかない。
三人の現在の関係性を知りたいのはその通りなのだが。
「成長されましたな。騎士の後ろに隠れていた時とは大違いだ」
「表に出てくるしかないからね。強くならなくちゃしょうがないわ」
嘆息するマリー。それを見てエクセルは目を細めた。
ノックされる扉。
エクセルが入れと言うと、兵士が一人、部屋の中に入ってきた。手には布にくるまれた何かを持っている。
「四聖剣ザクロ様より伝令を拝聴いたしました」
「話せ」
「黒の曲芸団、リンクと戦闘があったとのことです。ザクロ様が勝利をいたしました。腕の一本を奪い取り、リンクはアイビーと共に逃走したそうです」
その報告に目を見開いたのはマリー。そしてそれを目撃したのはエクセルだけだった。
――成長したと言っても、まだ子供だな。
エクセルは安堵が多分に入った息を吐いた。
彼女は極力感情を外に出さないよう務めているようだが、わかる人間にはわかる。まだ想いを捨てきれていないようだ。
「ご苦労。その他情勢はどうか」
「現状、大きな戦闘は起こっていません。黒の曲芸団は四聖剣様たちが撃破くださっており、発生している魔物もまだ予測値には至っておりません。我が軍の損傷も軽微です」
「わかった。下がれ」
退出の言葉を話して、兵士は去っていく。
沈黙の降りた詰所。
残ったのは誰かの右腕。
軍からの吉報を待っていたマリーは、届けられたものに言葉を失っていた。
それは成人男性の右腕。傷や痣など、特に特徴のあるものはない。誰のものかもわからない。
「ふむ。リンクの腕だと言っていましたが、本物でしょうか。あの小僧ですからな。何を計画しているかも怪しい。手放しに喜んでいいものでしょうか」
エクセルは唸る。
これは、果たして伝令の言う通りのものなのだろうか。
そうであれば、成果と言ってもいい。
諸悪の根源、魔王の右腕。そんな男の、まさに右腕は、肘より前から切断されている。こんな森の中だ、ただでさえ生存が難しいのに、利き腕を失う怪我をして生きているわけもない。よもや快復手段があるわけでもあるまいし。
「報告通りに信じていいものかもわかりませんな。どこぞの死体から拝借したものかもしれませんし」
「議論することもない。報告は間違いないわ」
マリーはその手をとった。
その指を握った。
その指についている青い指輪を見つめた。
「これはあいつの腕よ。冗談でも、この指輪を他人にもたせるわけがない。律義なのか阿呆なのか、変なプライドだけは持ってるのよ。なんでも使うと言いながら、そういった一線は守る男なのよ」
マリーはその手を握りしめた。もう向こうから握られることはない冷たい手のひらで、すでにそれはリンクではないものだった。
何度も握ったからわかる。これは彼の手。
何度も握ったからわかる。これはもう、彼の一部ではない。
彼から離れたその物体は、すでに彼ではない。けれど、彼の残り香を探すようにそれを頬にこすりつけた。
「そういうものですか」
「ええ。そして、ほかならぬ私が間違い様がない。女王の席を賭けて断言するわ。リンクは右腕を失った。もう彼は生きて帰ることはないでしょう」
ひとしきり抱きしめた後、マリーはそれを机の上に戻した。
すでに血が凝固して時間が経っている。本体の方も血は固まっているだろう。薄い膜が腕を覆って、その後はどうなっているのだろうか。この腕と同じく、冷たくなっているだろうか。
マリーは紅茶のカップを手に取って、中身を嚥下した。
「意外と取り乱さないのですね」
エクセルの言葉は単純に心配ゆえのものだった。
ここでマリーに倒れられては困る。
本当はこれをマリーに届けようと走ってきた伝令を止めたかった。彼女の本懐がリンクの死と真逆なところにある以上、これを彼女に見せるのは時期が悪すぎる。
しかし、四聖剣ザクロの遣いであれば無下にすることもできなかった。博打を打っているような心境のまま、マリーの横顔を見つめる。
「どうして? 私はあいつに裏切られたのよ。あんなの、死んで当然じゃない。ようやく死んでくれたんだ、って安心が勝つわ」
「……失礼しました。あいつは貴方にとって仇敵にも等しいものですからね」
なんて返しながら、そんなわけはない。
エクセルから見ていても、マリーがいまだに彼を想っていることとは容易に看破できた。
それこそ、初めてこの討伐隊基地で会った数年前からずっと想い続けているのだろう。
親鳥にくっついて回る雛のようだと思った記憶もある。
――親離れできたのか。いや、
どうだろうか。未練もなにもないと口では言いながら、視線は右腕を見つめたまま離れようとはしない。そう見せようとしているのに、根っこの方で思惑が透けて見える。
親離れ、しようとしている最中か。
エクセルは白髪の混じった自身の髪をかき分けた。
討伐隊の隊長に任命されて、討伐隊基地に街を誘致して、それなりにここも大きくなってきた。一つの居住地となり、自分はそこの主を担っている。いわば、街の王だ。
上へ、上へ。
老い先短い人生だ。手に入れられるものはすべて手に入れたい。
リンクとマリーが討伐隊基地に見学に来た時も、うまく利用してやろうと思った。反マリーの人間がいることもわかっていたが、それをあえて見過ごした。マリーと王子、どっちにつくのが正解かを確かめるために。
結果、マリーは結果を出した。だから、彼らのバックアップを行ってきた。その後の関係は良好。
リンクは賭けは嫌いだと嘯いていたが、エクセルは人生は博打だと思っている。
世界は自分の一存では決まらない。自分の手が届かない場所がどうしたって出てくる。いつだって物事に、人材に、現象に、ベットしないといけない。急激に移り変わる人生の荒波の中、体重を預けないといけない方向がある。
エクセルは幸運にも正解を引き当て続けた。だからここにいる。
そして、まだ上がある。
まだ欲しい未来がある。
この街を国にする。
何十年かかるかもわからない。その時自分が生きているかもわからない。
だが、不可能ではないはずだ。魔の森の近くであることを利用して、軍を強化して、戦力が大きくなった状態で、王国へと宣戦布告。他の大小の街も巻き込んで、王都に不満を持つものを誘致する。
そして、エクセルは新たな王になる。
男として、人類の頂点に立つという野心を持つのは間違っていないと考えている。
野望を達成する過程で、この小娘は敵となる。この小娘は邪魔だ。賢くなってもらっては困る。強くなってもらっては困る。
馬鹿なまま、その軽そうな尻をいつまでも玉座の上に乗せておいてもらう必要がある。
「マリー様」
エクセルは口を開いた。
自分はただ、何も言わなければいい。
自分の男だけしか見ていないこの色ボケ女の成長の機会を奪ってやればいい。頭空っぽのまま生きていくように促せば、自分の王位は目の前。
将来のためにも、自分が王になった方がいい。
エクセルはマリーを見据えた。
「マリー女王陛下。お言葉ですが、その未練たっぷりな顔はやめた方がよろしい。国民の前でそんな顔をすれば、貴方の発言と想いの乖離を悟らせることとなり、支持が揺らぎます。貴方はリンクのことを憎んで恨まなければならない。そんな貴方のために戦っている者もいるのです。貴方は女王なのですから」
「……そう。そう見える? 気をつけるわ」
マリーは青白く俯いていた顔を、気丈に上げる。身体全体が起き上がる。
また少し、強くなった。
エクセルは口の端を歪めた。
――まったく。毒されたな。
ただ男の尻を追掛けているだけでここまでやれるわけもない。逆に言えば、マリーは王としての素質を有している。いまだ完全ではないか、徐々に開花している才能だ。
一歩ずつ階段を上っていくその横顔。自分が言ったことを理解して、すでに顔色を改めている。
いじらしい女王の横顔の成長を見てみたいと思ってしまった。最愛を失って、なお立ち上がる彼女の後ろ姿を見てみたいと思った。
「貴方こそ、寂しそうな顔はやめなさい。士気に関わるわよ」
マリーに反撃されて、エクセルは自身の口元を触った。
笑っていたと思っていたが、緊張に強張っているようだった。
今度こそ、笑ってしまう。
「はっはっは。これが老いるということですかな」
自分の未来ばかりを見てきた。自分が騎士団に入って、自分が長になって、自分が王になって――。
それを恥じることはない。ここに立つことができている自分は、立派で自慢できる自分。
だが、どこに向かうかもわからない荒野を進んできた道の先に、他の人間がいることに気が付いた。自分が進んでいかなくても、別の道が生まれていることを知った。眩しく、羨ましい道だった。
がむしゃらに進んでいるその足が絡めとられている。
自分はそれから避ける方法を知っている。
今までは目にも入らなかった他人。
今は。
自分の培った知識、経験、それらがその足を進ませる原動力になればと思う。
建国。それは夢。しかし同時に、泡沫のようにも感じられていた。自分にはもうそこまで行く気力がない。熱が逃げていくような感じがした。
それよりも向上していくこの国の行く末が、見たかった。
「マリー女王陛下。絶対に魔物を駆逐しましょう。貴方の女王の歴史に輝かしい戦績を残すのです。国民は何よりもそれを望んでいます」
エクセルは目を閉じて笑った。
老い先短いこの人生。
この子の成長を見ていくのも、悪くはない。