158. 末期
◇
ようやくたどり着いたそこは、一面緑の広場であった。
今は魔物もいないその場所。さっきまで魔物の唸り声の聞こえる鬱蒼とした森の中を歩いてきただけあって、とても神秘的な場所のように感じた。
その中心までやってくると、俺はゆっくりと腰を落とした。
「……流石に疲れたな」
まずい。右腕の痛みが薄れてきた。
意識がぼやけてくる。
血を流し過ぎた。
自分を動かすための潤滑油が枯渇していくこの感じ。一度死んだ身からするとわかる。
死期が近い。
一度昏倒したら目を覚ませない。
こんな森の中では適切な処置なんかできようもないし、必要な栄養も満足な睡眠も得られない。意識を失ったら、まず助からない。
いや、そもそも重傷を負った状態でこんな場所にいるんだ。魔物と戦いながら俺の身体を運ぶことなんかできやしないし、どう足掻いても助かりようがない。
人の腕が落ちる要因を作り、実際に人の腕を切り落としたこともある俺にはお似合いの末路というわけだ。
「はは。これで終わりか」
笑ってしまう。
辞世の句は特に生まれようもなかった。
真っ白な紙に何を話せと言うんだろう。
「後は任せた、アイビー。絶対に魔物を殺しきってくれよ」
「……」
アイビーは答えなかった。
俺に背を向けた状態で、何も口に出さない。
少しだけ怖くなったので、一応釘を差しておく。
「言っておくが、もう一度やり直そうなんて考えるなよ。俺たちがここまで来れたのは、俺の、アイビーの、スカビオサの、マーガレットの、全員の熱量があったからだ。
これ以上の思いが生み出せない以上、もう同じ手は二度と通じない。人は慣れる生き物なんだ。次は絶対にここまで来れないからな。ここで終わらせろよ」
「……わかってるよ」
アイビーは相も変わらずこっちを見なかった。
彼女も彼女で、俺が瀕死であることはわかっている。何人もの死をその目に収めてきた彼女からしても、俺はすでに見るに堪えない状態なのだろう。
手を尽くさなくてはいけないのに、手を尽くすことができない。
同じ状況のレドは大丈夫だろうか。
まだ魔の森の浅いところだから、討伐隊基地に運ばれて治療を受けられているだろうか。
わからない以上、俺だけ助かるわけにもいかないな。
「悪いな。おまえを残してしまって」
「……別に。どっちみち、リンクは死なないといけない。人類の敵である貴方は、死んだという事実を見せつけないといけない。貴方が生きているという事実こそが、今度は人類を苦しめることになる。
私がお願いしたんだ。貴方に死んでくれって。そんなこと、わかってる……。わかってるけど」
「おまえは悪くない。抱え込むな」
「嫌だってば。私はすべて抱え込む。今まで死んだ全員を忘れないで生きていく。それが私にとっての唯一の罪滅ぼし。聖女の記憶に刻み込んでいくから。この記憶がある限り、全員、そこに生きているから――」
生きて人類の存続を見届けないといけないアイビー。
途中で死んで戦いの輪から一歩抜けてしまう俺。
どっちが辛いんだろうな。
まあ、アイビーの方が絶対に辛い。俺は最後の最後、逃げただけだ。臆病者なだけなんだよ。
「行け、アイビー。ここまで来たらもうあいつらに発破をかける必要もない。道は作った。思いも作った。後は未来を作るだけだ。協力して魔物を殺せ」
「……リンクはどうするの?」
「俺はここに残るよ。憎むべき、人類の目標地点にならないとな」
それと、多分、あいつが来るだろうから、最期に一言話しておかないといけない。心残り、俺が意識を保っているのは、その瞬間のためだけ。
アイビーはようやく顔をこちらに向けた。
涙と鼻水でぐちゃぐちゃな顔だった。
近づいてきて、唇を奪ってくる。
ねちょねちょとして、ぐちゃぐちゃとしていて、粘性のある、しょっぱい、最悪で
最高のキスだった。
アイビーは俺から離れていく。
二人を繋いでいた液体も途中で切れていった。
「ありがとう、リンク。貴方のおかげで人類は新たな一ページを飾ることができる。私は、私たちは忘れない。貴方という男の尽力があって、次の世界があることを。聖女の名において、未来永劫引き継いでいくことを誓う」
「いいよ。恥ずかしいだろ。史実にそんな汚点を残してどうすんだよ。俺には何もなくていい」
「……馬鹿」
まだ伝えたい言葉はあった。
それは俺もアイビーも同じだった。
ずっと一緒にいたはずなのに、無限に言葉を交わしたはずなのに、心残りなんかないはずなのに。
けれど最期は離れがたくて。
愛の言葉も空気に溶けていきそうで。
伝えたい言葉はあるのに、伝えられる言葉はなかった。
俺の口は、最期の瞬間は役立たずであった。
俺は左手を差し出した。
アイビーは何も言わずにそれを握る。
固く握った後、手を離す。
「行け」
「うん」
アイビーは背を向けて歩いていく。
振り返ることはなかった。
それでいい。
その背を見送って、俺は空を見上げた。
青い空だった。
綺麗な青色。俺には似つかわしくない美しい蒼天。
そういえば。
青色で思いつくものがあって、俺は右手を見つめた。ここの指に
そこには何もなかった。
「……本当に何も残らなかったか。まったく、俺らしい」
段々と空から色が抜けていく。
灰色になった空を、何も考えずに仰向けになった状態で見つめていると、
「ようやく追いつきました」
待っていた存在が声をかけてきた。
顔を上げる。身体は水の中にいるように鈍重で、他人の身体のように重かった。
「ああ。おまえにしては遅かったな」
「これでも全力で向かってきたのですが」
「冗談だ。間に合ってよかったよ」
「間に合う……?」
シレネがそこには立っていた。俺の灰色の視界に、白と黒が写り込む。
シレネは俺の顔を見て顔を青くして、俺の右手を見て、その顔は灰色になった。
「……どうして」
「人類の敵は死ぬべきだ。それは魔物も黒の曲芸団も変わらない。安心安全の世界を取り戻すためには、俺は人の未来に残ってはいけないんだよ」
俺は笑った。感覚が遠くて、笑えているからもわからないけれど。
シレネの目が彷徨っているのを見て、頭を下げる。
「悪いな。指輪、落としちまった。せっかくいいのをもらったのに」
「……」
シレネは何も言わない。
だから、俺は話した。
一秒すら惜しかった。
「色々と迷惑かけて悪かったな。でも、満足だよ。ようやく俺は一人前の人間になれた気がする。何もなかった俺が、ようやく人間という形になれた気がするんだ。人類のためにここまで頑張ったんだ。認めてくれるよな」
「……」
シレネは口を開けて閉じて開けてーー唇を強く噛んだ。
血が溢れて、俺の世界に赤色が追加される。
「……貴方はいつもそんなことを言う。どこか冷めた目で自分を見つめていて、何かを必死で求めているのに、逆に諦めているような顔をして。……私は貴方がなんでそんなことを言うのか、ずっとわからなかったんです」
シレネはぽろぽろと玉の様な涙を流す。
歪む顔面を隠すことなく、俺に向かい合ってくれる。
俺の死に泣いてくれる人がこんなにいる。
捨てたもんじゃないな。
「人間だとか、人間じゃないとか、そういう議論になることもわからない。貴方は人間でしょうに。それとも、本当は人間じゃないんですか?」
「実は人類救済のために生まれた霊装人間なんだ。聖女の霊装とセットで世界のために生きている。――なんて言えたら、それもそれで良かったんだけどな」
俺は両手を開いた。
そこには何もない。
そもそももう両手もない。
「残念。そんな楽しそうなこともない。何もないさ」
「私にはわからないんです」
子供のように首を振る。
「それはな、おまえが立派に人間だからだよ」
「私と貴方に違いなんてありません。貴方が孤児院で育ったからですか? 親の顔も知らないからですか? その霊装がどこから来たのかもわからないからですか?」
「口で説明できるかはわからないよ」
「貴方から口をとったら、それこそ何が残るんですか」
「はは。それはそうだ」
俺は笑ったが、シレネは笑わなかった。
しかし、実際に説明することは難しかった。なぜなら、俺は普通の人間という存在を知らないからだ。だから必死に人間になろうとしていたのだから。
「貴方の目的はきっと、遠すぎるんです」
わかってるさ。こんなことを言いながら、俺の目的なんか一生達成できないってことは。
一角の人間。
立派な人間。
普通の人間。
そんなもの、どこにも存在などしていない。誰もがそうであり、誰もがそうではない。定義がない以上、どう足掻いてもなれるわけもない。
ただの俺の自己満足。
意味のない自己投影。
だけどきっと、そんなもんだろう。
誰もが何かを追い求めているが、そのほとんどは他人からすればどうでもいいものだ。
何かが欠けていて、何かを埋めたくて。
それが喉から手が出るほど欲しい。
だから生きている。
だから生きてきた。
そして――
「俺はたどり着いた。人類のためになることができた。だから何も文句はない」
「私は……嫌ですわ。こんな結末」
シレネは駄々っ子のように首を横に振る。
理屈者の彼女らしくない、感情的な動きだった。
「らしくないな」
「やめてください。私を知ったように言わないで。貴方は私のことなんか知らないくせに。私が好きなことも私のしたいことも私の夢も、何も知らないくせに。知っていたら、こんなことしてない!
貴方は腕を斬り落とす必要もなかった。ただ、世間的に死んだことにして、ここから去るだけで良かったのに。真っ赤な血のついた服でもなんでも置いていけば、人は勝手に邪推しますわ。わざわざ本当に死ぬ必要なんか、ないんです。
でもきっと、貴方はこう思ってる。それじゃあ俺のせいで死んだやつらが可哀想だろ、って。死ぬ覚悟がないやつに殺されただなんて辛すぎる、って、意味のわからないことを言うんです。死者に報いる必要なんでないのに。
――ほかならぬ貴方が、私に言ったんだ!!」
いつも冷静な彼女の絶叫は、初めてだったかもしれない。
アロンダイトを得る際の家族内のひと悶着。
そういえば、俺はここでシレネと戦って、そんなことを言ったんだった。おまえを縛るものは何もないって。
何も言い返せない正論だな。
でも、シレネは実際に手を汚したわけじゃない。俺の手は真っ赤に汚れている。
「俺は死ぬことで俺になる」
「意味が分からないんですって……」
伝えたいのに伝えられなかった。
まあ、しょうがないか。
言葉はいつだって人を惑わせるだけ。
時間も少なくなってきたし、
「シレネ。おまえを救えて良かった」
「最期のように言わないでください。私は救われてなんかない。貴方のせいでまた辛い思いをするというのに、貴方はまた私を置いていくんですか」
「事実、最期なんだよ。最期におまえと会えてよかった」
最期の目的を達成できたからか、充足感が押し寄せてきて、同時に眠気もやってくる。
これは良くないな。
前に死んだときも、こんな感じだった。
極度の睡眠欲が這い寄ってきて、意識を奪い去ろうとしてくる。
「駄目ですってば!」
シレネが駆け寄ってきて、肩を掴んで揺さぶってくる。
その感覚も遠い。
唇に熱い感覚。
いつまでも感じていたいような恍惚とした瞬間だったが、永遠なんてものはない。
あるいは、ここからが永遠なのかもしれない。
多くの人間に疎まれ恨まれ、彼らの記憶の中に留まり続ける。
これが本当の意味で、トキノオリなのかもしれない。
なんて。
嘯き野郎は下らないことを考えるのであった。
「リンク!」
シレネの絶叫を受けながら、俺はゆっくりと意識を手放した。