148. 私の未来
◆
自分は何をしているんだろう。
今まで何をしてきたんだろう。
どうして玉座に座っているんだろうか。
何をするためにここにいるんだろうか。
それは、一人の男が望んだから。この場所は望まれたからいるだけで、別に本心から進みたい道ではなかった。彼が一からすべての道程を作り上げて、私は作ってもらった綺麗な絨毯の上を歩いているだけだった。
自分は何をしたかと言えば、何もしていない。ただ、近くにいただけなのだ。
そんな自分が嫌になる。
嫌で嫌で、消えたくなる。
――彼に、何ができただろうか。
今更になってそんなことを考える。
もうさよならは聞いてしまっているのに。
もうすでにお別れは済んでしまっているのに。
もうこの手はあの手を握ることはできないのに。
失ってから多くの後悔が生まれてしまう。
もう一回、人生をやり直せたらいいのに。
そうしたら、そうしたら、そうしたら――何をするんだろう。
「おい、起きろ」
叱責に顔を上げると、眼前にはロイが腕を組んで立っていた。
どうも自分は執務室の机でうたたねしていたらしい。
傍に仕えるレフが申し訳なさそうな顔でこちらを見ている。注意できなくてごめんなさい、と顔に書いてあった。
謝る必要なんてないのに。連日魔物の対応に追われて疲れているのだ。むしろ寝かせてくれてありがとうを言いたい。
それに、レフはどう思ってるかわからないが、マリーからすればロイから怒られることなんてどうとも思わない。
「なに?」
「被害状況が更新された。黒の曲芸団が姿を消してからこっち、すでに死者は百人を越えた。発生した魔物は推定五百。それらの討伐は一旦完了したようだが、負傷者も枚挙に暇がなく医療現場は逼迫している。警護の人間も四六時中王都中を回っていて疲労の色が濃い。
医療も警備も政治も、どこもかしこも限界だ。あいつら、とんでもないことをしでかして……」
ロイは憤懣に染まった顔で、書類を机に叩きつけた。「ひぇっ」同時に、レフの肩がびくりと跳ねる。
「やはりあんな出自の知れない者どもを雇い入れるのは失敗だったのだ! マリーよ、あいつらは最初から味方などではなかったのだ。貴様を王にしたのは、これが理由だ。貴様の影に隠れてじっと今回の計画を練っていたのだ。王都の警備状況や国内の戦力関係を時間をかけて確認し、最適な時間、場所で、最悪の一撃を加える機会を狙っていた。それがこの結果を生んでいるのだ」
ロイの激昂は収まらない。
マリーはそんな兄の顔をつまらなそうに見つめて、鼻を鳴らした。
「それで?」
「貴様の人事配置が不適切だったというわけだ。人を見る目がなかったと猛省しろ」
「だから、それで何なの? はっきりと言えばいいじゃない。私は女王として不適格だって」
マリーは再度鼻で笑って、外の景色に視線を投げた。
いなくなった人物たちと仲が良かった。それなのにロイが自分のことを疑ってもいないのが、厭に癪だった。
「今なら簡単に玉座を奪えるわよ。私のことを王にして、支えてくれた人はもういないもの。私一人に価値がないことなんか、貴方が一番よくわかっているはず。貴方は王になりたいんでしょう? だったらこのチャンスを無駄にしないことね」
「――」
ロイは真っ赤な顔になって、机の上に拳を叩き落した。
「ロイ様、や、やめてください……」レフの蚊の鳴くような静止の声も虚しく消える。
「おい、貴様。調子に乗るなよ。貴様の玉座などいつでも奪える。こんな切迫した状況ではなくともな。火中で拾いに行くほど馬鹿ではない」
「誰が言ってるんだか。完膚なきまでに負けたくせに」
「私が負けたのは貴様にではない」
緊縛した空気の中、マリーの瞳が揺れた。
「……そうね。私は一回も誰にも勝っていないわ。ただ、用意された道を歩いただけ」
「ふん。飼い主に捨てられて拗ねているのか?」
「飼い主ね。言いえて妙かもね。私は飼われているだけのペットだったんだわ。リードで引かれて、芸がうまいと褒められて、楽しそうに尻尾振っちゃって、傍から見ればそれは滑稽だったでしょうよ」
「……」
ロイは押し黙った。
マリーは顔を俯かせた。
「……もう、私にできることはないわ。私は降りる。貴方が王になって国民をまとめてよ……」
「本気で言っているのか」
「私は元々、王になんかなりたくなかった。言われた通り王になっただけだったのよ。王になろうと必死に努力してきた貴方の方がよほど立派だわ」
「ま、マリー様、」
レフはロイの顔を見て、顔を真っ青にした。
これ以上何か言えば、何が起こるかわかったものではなかった。
「……では、ここで死ね。そして貴様の頭に乗っかっている王冠を私に寄越せ」
「いいわ。縄か何かを持ってきて。首を吊って死ぬわ。どうせ私はそんな運命だったのよ」
そう、あの時死ぬべきだったのだ。
リンクに手を差し伸べられてここまで来た、それこそが間違い。自室で首を吊ったとされる運命こそが正史だ。
楽しい思い出は作れた。だからもう、人生に悔いはない。
マリーはロイと視線を合わせることすらできなかった。
「貴様と違い、私は生まれながら王を約束づけられた者。当然、王になるべきと思って生きてきた。それは決して虚実ではないし、今でも狙っている」
「じゃあ貴方が王でいいじゃない。ウィンウィンよね」
「しかし、貴様の王に不満があったわけでもない。
認めよう。私では貴様のような王にはなれなかっただろう。街を歩いて笑顔で声をかけられて、国民の不安や不満を聞いて反映できるような身近な王にはなれない。誰もがおまえの一挙手一投足に期待を込めているのだ。結局貴様は在任期間、辞めろなどとは一度も言われなかった。国の総意は貴様に文句を有していない。国民の王は、貴様なのだ」
「……」
無言のマリーに対してロイは大きく息を吐くと、背を向けた。
「次に来た時に同じ顔をしていたら、貴様をそこから突き落とす。そして私が王になる。この未曽有の事態に痴話喧嘩で対応が遅れたなど、我が一族末代までの恥だ」
そのままわざとらしく足を鳴らして歩いていくと、扉の向こうに姿を消した。
マリーとレフは二人きり、執務室に残される。
「えっと、ロイ様なりの激励があった……んですかね? 最後のは意外と優しい言葉だったかもしれません」
「……」
「えっと、リンク君の件は、きっと何かの間違いですよ。リンク君は行動力はすごいですけど、いつも態度と言葉を間違えてましたから。今回だって何か言い間違いとか、掛け違いでこうなってしまっただけで……」
マリーは何も言えなかった。
レフだってわかっているだろう。
リンクは腹を括った。ここまで多くの国民にその犯行を目撃されていて、最後には堂々と啖呵を切った。これは王国に対して、ひいてはマリーに対する挑戦だ。もう言い訳をしてどうこうなる状況じゃないし、リンクだって戻ってこようとは一切思っていないだろう。
マリーだって内情は理解している。
人類存続のために魔物を殺しきること。そのために、アイビーが魔王として動いていたことも聞いたし、今回はそれと同じことを繰り返していることも推測できる。
これは彼の目的のためには必要なことなのだ。
でも。
それでも。
「……置いていって欲しくはなかった」
貴方がここまで私を連れてきたのに。
最後の最後で手を離すなんて。
ただただ、哀しかった。
「でも、リンク君がマリー様のことを想っていたのは本当だと思いますよ」
マリーは顔を上げて、レフのことを見た。
レフは笑いかける。
「マリー様といるときのリンク君は楽しそうでしたし、つれていかなかったのは危険な目に合わせたくなかったからでしょう。それくらい大切な人だったんだと思います」
「知ってるの」
そんなことは知っている。
わかってるわかってるわかってる。
一緒にいて、顔を見てきたんだから、わかってる。
大切に大切に包まれて、壊れないように置いておいてくれた。
それが嫌だったんだ。
私にはそんな価値もないのに。
そうされる見返りもないのに。
まるで恋愛ごっこみたいに、好きという言葉が空っぽの空洞の中を反響するようで。
もっと傷つけてほしかった。自分のいない世界で生きてくれと言われるよりも、一緒に死んでくれと懇願してほしかった。
――わがままが過ぎるわね。
助けてくれたのに、ただただ文句だけを並べて。
また一つ、自分の嫌いなところを見つけた。
せっかく元気づけようとしてくれたレフの言葉も受け取れない。
「あ、ホントだ。ボロボロなのね」
沈黙がする中、扉が開いて執務室に入ってきたのはプリンツだった。
少女から女性へと、その見た目は変遷を遂げている。長い髪を揺らしながら、喜色を隠そうともせずにマリーに寄っていった。
「男に振られて泣いている女王様がいると聞いて、面白そうだから来ちゃった」
「なに。笑いに来たの?」
「ええ、そうよ。自分の立場を忘れて泣き喚くお子様の顔を見に来たの」
にやにやと。
そんな煽るような顔を見せられても、マリーには気力の一つも湧きおこらなかった。
「帰って。貴方の相手はしたくない」
「どうしてよ。姉妹でしょう?」
「うるさい。今は何も聞きたくないの」
「……こりゃ、重傷ね。女のヒステリーは犬も喰わないわよ」
呆れたため息。
「そりゃ、男も出ていくわ」
「……」
「今度は黙るのね。意気地なしに甲斐性なし。なんであの男が貴方を王にしたのか、よく考えなさい」
プリンツは真剣な表情になって、淡々と告げた。
「あの男はね、貴方を王にするために相当骨を折ったと思うわよ。だって貴方は王冠以外何も持ってない小娘だったんだもの。目的もないくせにダラダラと生きて、たまたま出会っただけの男に惚れられてここまで来た、運だけの女」
「……」
「でも、王になってからの貴方は王だった。皆に慕われる、所謂、良い王様だったと思うわよ。昔は何も持っていなかった。けれど今は多くを持っている。皆が貴方の判断に耳を傾けているの。それなのに、貴方は一人うじうじと男の背中を追って何がしたいの」
「……」
「民にもあの男にも、もらうだけもらって終わりなのね。乞食と変わらないわ」
辛辣な言葉に、マリーは唇を噛んだ。
「……こんな私に何ができるっていうの」
「なんでもできるでしょう。なんでもできるんだから、何がしたいかを考えなさい」
何もないわけじゃない。
私が本当にしたいことは。
「生きていてほしいの」「傍にいてほしいの」「ずっと、近くにいてほしいの」
それだけで、そんなに。
涙がでてきてしまう。
それも嫌いだ。
負けを認めているようで、嫌だ。
嫌いだけが積み重なっていく。
「相変わらずのお花畑ね。とても国をまとめ上げる存在の器ではないわ」
プリンツは大きくため息をついてから、少しだけ表情を和らげた。
「でも、それでいいんじゃないの。なんだかんだ、私たちは一人の人間だしね。欲しいものがあるのなら、手を伸ばせばいいじゃない。父様のように」
「……父さんのように?」
「私たちは王族よ。民のことを考える必要がある。けれど、結局は一人の人間。人生は一回しかない。父様はきっとそれが恐ろしくなって、別の愛を求めた。兄さまだって、民のためというより、自分が王になりたいから王を目指している。私だって、兄さまに王になってほしくて、色んな努力をしたわ。
全員、結局は自分のために頑張ってきたのよ。他人のために頑張るからぼろぼろになるの。貴方だって、頑張るのなら自分のためにすればいいわ」
プリンツは朗らかに笑った。
「いつまでもいじけてないで、好きなら好きで突っ走ればいいじゃない。私としては、リンクが本当に悪だとは思ってないし、何か事情があると睨んでるわよ。放っておくの?」
自分のために。
今まで自分は何のために動いてきたのだろう。自分のため――いや、手の差し伸べてくれた人のためだった。だから、そこに誰もいなくなった途端に糸の切れた傀儡のようになってしまっている。
唯一の望み。手に入れたいもの。
私は、彼を手に入れたい。
そのために、頑張ってもいいのだろうか。
マリーはプリンツよりもリンクのことを知っている。
何が目的か、どうしたいか。
――私がどれくらいの愛情をもらったか。彼が私のことをどれくらい好きでいてくれているか。
わがままな自分。
嫌いだ。嫌い嫌い。
でも。
それが自分なのだ。
それしか、自分ではない。
それだけが、愛してもらえた自分なのだ。
だったら、貫くしかない。変われない自分がいるのなら、未来の方を変えてしまえばいい。
それこそ。
「――打算的に」
あいつがいつも言っていたように。
欲しい未来があるのなら、そのために何が必要かを考える。理屈と感情の折り合いをつけて、誰もが納得できるような状況を作り上げる。
リンクはもうこの国には戻れない。大罪人リンク。そういう意味では死んだのだ。
でも、それで私の望みを叶えられないわけじゃない。
そうだ。いつだって、どこだって、抜け道は存在している。あいつが口頭で、行動で示したように、”どうとでもできる”はずだ。
彼がくれたものは、空っぽの愛情ではなく、必要のない玉座ではなく、もっとたくさん。
それを捨てるのか、手にするのかは、私自身。
後者以外、ありえない。
マリーは立ち上がった。
涙で濡れた顔を上げる。
「これ以上警護に人は割かなくていいわ。魔物はもう王都には生まれない。魔の森に進軍するために、行軍の兵を整えて」
彼が目指した未来。
私が望んでいる未来。
どちらも満足させるための手札を、私だけが有している。
そのために必要なことはなんだろうか。
自分にできることは、ここで死んでロイに玉座を譲ることだろうか。
決して、違う。
”女王という立場を利用してでも”、欲しいものを手に入れる。
そう、逆だ。
女王という肩書はあくまで過程。ほしいものを手に入れるための手段でしかない。すべては目的のために存在する武器でしかない。
「私自ら指揮を執るわ。全軍を率いて魔の森へ進軍し、魔物を殲滅する」
都合の良いように、マーガレットの予言では自分が前線に出るとされている。当時はただの嫌がらせだっただろうが、乗っかってしまおう。
私は彼に裏切られた女。彼を憎しむ理由は立つ。周囲を巻き込むことができるのなら、私の想いすら利用してやる。
すべて、手元にあるものはすべてを利用する。
人の気持ちだって、政治的肩書だって、あるものは全部!
彼の目指した未来のため、まずは魔物を殺しきる。そして――
覚悟。
自分の責任で、自分の思考で、すべてを巻き込む意識。
ハイリスクハイリターン。
これがあいつの見ていた景色かと思うと、少し申し訳なる。
結局、私は彼にすべてを任せていただけだった。
「今回は私がやるから」
赤髪は日光を受けて炎のように発光する。
「見ていて」
涙で真っ赤に染まった瞳ですら、煌々と輝いていた。
それを見て、プリンツは肩を竦めた。
「良い顔になっちゃったわね。また兄さんの玉座が遠のいちゃう」
「そうね。ここに決めたわ。私は一生、死ぬまで女王よ。女王という立場を利用し続ける。貴方たちが入り込む隙間はないわ」
「可愛げのない妹ね」
「口うるさい兄が二人もいるからね」
「姉と呼んで」
「そうね、姉さん。今回ばかりはそう呼んであげる。……ありがとう」
俯いているままでは何に手を伸ばしているかもわからない。
顔を上げて、前を見ろ。
私は――彼に傍にいてもらう。
それだけが望むことで、生きがいで、未来で。
それが自分を自分足らしめる、存在証明なのだ。
「戦闘能力を有する全員に通達しなさい。これから私たちは諸悪の根源である黒の曲芸団、その首謀者であるリンクとアイビーを全力で討ちに行くわ。彼を”殺す”ことが、人類の悲願に繋がると心得なさい」