120.
「それで? どうするの? 箱を開けるの、開けないの?
開けるのなら、そこで私たちの因縁に決着をつけましょう」
しんと静まり返る。
マリーの言葉に、プリンツは首を横に振った。
「……開けない」
プリンツは真っ青な顔のまま、その場に崩れ落ちた。
「もう、無理よ。何をされたのかも、何が起こってるかもわからないんだもの。対策のしようもなければ、勝てるはずもない。
……その箱は中身を見ずに廃棄して。誰も見えないところで燃やし尽くして。結果なんか、どうでもいい。見たくもない」
「いいの? それは貴方たちの都合よ。当然、不戦勝という形で、私の勝ちということになるけれど。貴方たちは王になる最後のチャンスを失うわ」
「構わないわ」
「おい! プリンツ!」
ロイが激昂して詰め寄った。
その胸倉を掴み、立ち上がらせる。
「何を言っているのかわかっているのか! 貴様の方がうつけものだ! 結果も見ずに負けを認めるだと! そんなことありえないだろうが!」
「代わりに、命だけは許して」
プリンツはロイには目も向けずに、マリーと共に俺を見た。
俺が返事をするまでもなく、マリーが頷く。
「いいわ。命は助ける」
二人の間でとんとん拍子に進む話に、ほとんどがついていけていなかった。
困惑に次ぐ困惑。
流されるままに、二人の話を聞くしかない。
「全員が見ているこの場で、未来永劫私に傅くことを誓いなさい。そうすれば、貴方たちを迎え入れる準備が私たちにはある。私だけで王の仕事が務まるかと言えば、正直、難しいところもあるもの」
マリーは優しく微笑んだ。
「ねえ、兄さん。腹違いとはいえ、兄弟なのだから、争うのはもうやめましょう。私たちは三人で、王の子供なの。私たちで手を取り合って王となることこそが、父様の真の遺言だと思う。私を支えて。お願いします」
マリーの譲歩。
まったく、器の大きい女王様だ。
内心がどうだか知らないが、誰の目にも綺麗な笑顔に見えた。
諦め交じりではあるが、少しだけ、プリンツの顔が緩んだ気がした。
けれど納得できないのは、ロイの方。
大きな声で吠えた。
「馬鹿が! 何を下らない世迷い事を! プリンツ! 何を言われたか知らないが、母の顔を思い出せ! この女がいるということで心労を患い、この世を去った母の事を! こいつにあらんかぎりの呪詛を吐いたことを忘れたか!」
「忘れるわけがないよ、兄さん」
「ではなぜそうも簡単に負けたなどど口にできるのだ!」
「……もう私に、彼女に勝つ方法は思いつかない。何をしても、返される。手のひらで転がされているような気がする。もう、勝てないよ。もう、疲れたんだ」
「軟弱ものめ!」
ロイはプリンツから手を離すと、投票箱に近づいていった。
「下らない妄言に騙されおって。誰が何をしようが、関係ない。私が王なのだ。国民はそれをわかっている。こんなくだらない議論ではなく、国民の声を聞け! 王座が、眼の前にあるんだ。もう少しで、私の――俺の――王座が。俺の、俺の――」
四聖剣がロイを見据える。
箱に触れた途端に、それは開票行為となる。
そうなれば、後戻りはできない。
開票が始まれば、後は勝敗を決めるだけ。
勝者と敗者が明確に決定し、敗者には烙印が押される。
国政にはもう絡めない。
自分を王子などと口にするのも憚られる。
ロイは負けの可能性を考えていない。
それは美点でもあり汚点でもある。
今回はどっちに転ぶのだろうか。
あと一歩、もう少しで箱に手をつけるところで――一つ、声が上がった。
「私も、マリー様を王に推挙いたします」
大臣の一人、クロノーが手を挙げた。
彼は王子派閥として尽力してきた人間だった。
「は……。クロノー、貴様、何を言っているのかわかっているのか? 裏切ったというのか?」
「いえ。そういうことではありません。私の心は今も貴方様に向けられています」
「なら、何故そんな戯言を吐ける!」
「投票に進んではいけません。私もプリンツ様の意見に賛成です。マリー王女殿下にはまだ見せていない力があります。今回もその手腕を振るったのでしょう。しかし、それが何なのかわからない以上、我々に勝機はない」
苦渋を舐めたような顔。
彼が王子のことを想って手を挙げたのは、間違いがなさそうだった。
呼応するように、どんどんと手が挙がる。
彼を王にと全力と尽くしてきた腹心が、次々へと手を挙げる。高位貴族も、宰相も、そもそもマリー派閥である人間も、全員がマリーを王位にと、意見を合わせた。
この場全員がマリーを女王へと推薦する。
ロイは信じられないものを見るように、周囲を見渡した。
「……なんでだ」
「貴方様に死んでほしくはない。これからのこの国に、貴方は必要です。しかし、この箱を開ければ、そうも言っていられないでしょう。勝ち負けすら判断されない今ならまだ間に合います。勝負が決する前に、御身をお引きください」
「何を馬鹿なことを! どうして今、そんなことを言うのだ! ただ、この男が外に出たという話を聞いただけだろうが! それだけだ! 会場内は騎士団員が詰めて、開票箱には誰も近寄らせていない。不正など起こりようもないと、協議に協議を重ねただろうが。ありえない妄言で選択を間違えるな! 勝っているのは私なんだ!」
ロイは正しい。
でも、それは俺が答えを知っているからそう思えるだけだ。
周囲の人間、特にプリンツ、大臣たち。マリーの力を計りかねている人間は、そうも言っていられない。彼らは知りえないはずの秘密に気づかれたことで、相当マリーを警戒している。
加えて、傍に控える俺とアイビー。披露会にて優勝して現状最強の存在である俺と、聖女に目をつけられて何かただならぬ雰囲気を発するアイビー。それらを従えるマリーは、不気味でしょうがないだろう。
全てを見通すような情報力と、ここまで生き残っていた戦力、今も堂々と椅子に腰かけている胆力。
マリーはいつだって想像以上の結果を出してきた。
膨大な警護をかいくぐって投票に何かを行う。
自身の勝利を絶対なものにする布石を打つ。
ありえない、とは言えない。
むしろありえるとしか思えない。
が、何をしたのか、決定的なものがない以上、何も指摘できない。何も言えない。
誰もが不安を覚えるが、何が不安なのかもわからない。
不明瞭ってのは、本当に怖いよな。
早く楽になりたくもなる。
「兄さん。ごめんなさい。私が見誤ったの。そこの二人が取るに足らない存在だと、間違えてしまったの。霊装に配慮して死んでもらうとか、醜聞があるから目立つように殺せないとか、そんなくだらないこと、考えちゃいけなかった。いえ、そもそも、殺せると思ったことが間違いなんだわ」
プリンツはどこか吹っ切れたような顔で。
ロイの青筋は引くことがない。
「どいつもこいつも――俺に王になってほしいんじゃないのか!」
「私たちが望むことは、貴方が王座に座らなくても叶えられる望みです」
クロノーも退かない。
出過ぎた真似をしているとは、本人も思っているだろう。
だが、このまま不明瞭なまま進むことは、真っ暗闇の海を泳ぐに等しい。
いつ襲われるか、いつ溺れるか、何もわからないまま、沈む。
特にマリーは、王子二人を恨んでいる。どこで喉元に噛みつくか、わかったものじゃない。
死が身近。
だとすれば、歩みを止めるのが忠心。
後ろを振り返るのも勇気。
良い部下を持ったな。
マリーとロイの戦い、ここまでもつれたのは、マリーが粘ったからもそうだし、ロイが自身の陣営をまとめていたからだ。仁徳のない人間だったら、裏切りも多発してもっと早く決着はついていた。
彼は真っすぐだ。でも、それは悪いことではない。
だからこそ、この人物を今失うのは惜しい。
自分の身を呈してまでこの場で声を上げたプリンツもそうだし、最後の最後で不敬を承知で諫めてくれる部下だったり、返す返すも周りに恵まれている。
何も賢い者が良い王になると限らないのは、教えられたな。
実際、過去だって王都の守りはしっかり統制して行っていたわけだし。
「誰が、誰も……」
周囲からただただ見つめられるだけのロイ。
大臣の中には悲壮感を覚える人間も多かった。敗北を察して、けれど、最後の一線だけは守ろうと、忠心を貫いている。
俺も含めた、誰もがロイの生存を願っている。
だからこそ、勝負せずに負けてくれと祈っている。
段々と、ロイもそれを理解し始めたようだ。
誰も彼を貶めようとは考えていない。
むしろ、救おうと、助けようと、声を張り上げているのだ。
「馬鹿、が……。そんな、何故、開票もなしに、決着がつくのだ」
誰も何も言わない。
「ありえないだろう。ありえないだろう! 誰か、この矛盾に答えを出せ!」
誰も何も言えない。
「――おい、本当に、誰も、冗談ではないのか。本気で、俺に負けろと。戦いもなしに、ただ膝を折れと、そう、言っているのか」
誰も何も、言う事はない。
それが、答えなのだ。
「……馬鹿が。馬鹿が!!」
絶叫。
そして、その場に膝を落とした。
流石にロイも折れたようだった。
箱に手を触れさせることなく、その場に蹲った。
彼だって、部下の言葉を聞けない程に無能ではない。
自分の命をかけて上司に意見した彼らの気持ちを汲めるくらいには、王だった。
これで勝敗は決まった。
王子二人の心の傷が癒えるには、時間がかかるだろう。
しかし、立ち上がらないことはない。周りにはここまで親身になってくれる存在がいるのだから、どうとでもなるだろう。
静まった王謁見の間。
そして本来の機能を取り戻す。
王は定まった。
家臣はただ、彼女に首を垂れ、臣下として振舞う。
放心した顔のまま、王子二人もマリーの前に膝をついた。
少しだけマリーの目が潤んでいたのは、きっと勝利の喜びばかりではないのだろう。
色んな事があった。
苦渋も舐めさせられたし、慟哭も繰り返したし、兄との関係は簡単に許される間柄ではない。
けれどきっと。
マリーが二人を殺さなかったこと。
二人を迎え入れる判断をしたこと。
その思いは二人に伝わるだろうし、マリーもまた、受け入れてくれた二人に感謝する日が来るのだろう。
王を巡る戦いは、こうして一つの区切りを迎えた。
◇
「政治ってのは血の流れない戦争だよな」
王城の庭にて燃え盛る投票箱を見つめながら、俺は独白した。
結局、箱の中身が開示されることはなかった。
騎士団員数名が現在、責任を持って火にかけている。
誰の名の記載が多く残ったのか。それを知ることは、今後一切ない。
「リンクの見立てではどっちだったの?」
アイビーが俺の独り言に反応した。
立ち上る煙を共に見つめる。
「さあな。話す意味もない」
「まあまあ。個人の意見としてでいいから」
「開けられたとしても、マリーが勝ってただろうな。根回しは問題なく行えていた」
「へえ。王子たちは何を企んでたんだろうね。自信はあったようだけど」
「さてね。想像もつかないよ」
この焔が消える時、すべての結果は過去へと消える。
まさしく、ブラックボックス。
「とんでもない作戦があったとして、それでも勝てた?」
「さあな。それこそ、議論する必要はない。誰に賭けたかなんてどうでもいいんだ。あいつらは投票に賭けていて、俺たちは”その前”に賭けていた。それだけの違いだよ」
あっちは”ただ”勝ちたかった。
俺たちは”王子を味方につけて”勝ちたかった。
これから、王子の力は必要だ。投票で勝ったとしても、遺恨は残る。牢屋の中から、あるいは、殺した後の部下の怨恨で、ちょっかいをかけられては敵わない。
箱を開ける前に勝つ。勝負すら許さない。
ここまで圧倒的な勝利を収めれば、心をへし折ったのも同然。もう易々とは歯向かってはこないだろう。勝負をするまでもない。それほどの差異があると植え付けられた。
「また、全員を救ったんだ」
「結果論だけどな。ロイが部下の話も聞かないようなやつだったら、すべてが破綻していたよ」
そんなやつだったら殺した方が良いという判断になるんだけど。
「恐ろしいね。もうリンクは、ただ歩いただけで勝てちゃう人なんだ」
「客観的に見ると、確かに怖いよな。プリンツを降ろせる自信はあった。けど、綺麗に嵌まってくれたよ。そういう意味では、俺も周りに恵まれた」
狂人がいなくて良かった。
俺の手の内に収まる人物ばかりで良かった。
俺の思い通りに動いてくれる人ばかりで、良かったよ。
投票箱は燃え尽きた。
そこには灰しか残っていない。
中身はもう覗くことはできない。
俺はそれを確認して、背を向ける。
そしてその背中に、声がかかった。
「待って」
そこには青い顔をしたプリンツが立っていた。