119. 開けますか。開けませんか。
選挙期間である三日間はあっという間に過ぎた。
会場には長蛇の列が並び、ほとんどの王都の民が投票を行ったようだった。
結果は箱を開くまではわからない。
まだ無限の可能性がある。
未来は箱を開けた瞬間に確定する。
投票箱が運ばれてくる間、つかの間の時間があった。
「……勝てるかしら」
マリーが小さな声で不安を吐露した。
ロイ陣営はちょうど部屋の対角線、反対側に陣取っている。マリーの弱気は俺とアイビーにしか聞こえていない。
「どうだろうな」
「無責任ね。ここまで来れたのは確かにあんたのおかげだけど、ここで負けたら全てがおじゃんなのよ。最後の最後で詰めを誤らないでよね」
思えば色んなことがあった。
王子たちはあの手この手でマリーを殺すと画策していたっけ。
何度も危ない橋を渡ったが、何とかここまでこぎつけることができた。
そんな、最終局面。
詰めを誤るはずもない。
「投票の結果はわからないけれど、勝負には勝つよ。マリーが王だ」
「……言っている意味がわからないわ。投票に勝たないと勝負には勝てないでしょう」
「王になるのはマリーだ。それだけは約束できる」
「信じるわよ。まあ、今更だけど。私はあんたを信じなかったことはないわ」
全幅の信頼。
嬉しいね。
「これは投票の勝負じゃない。箱を開ける前から、結末は決まってる」
「はいはい。あんたは色々考えてるもんね。私は黙って結果を待つわ」
ぞんざいな扱いだが、マリーの言葉から不安は薄れていた。
言葉通り、信頼頂けているようで。
「今のリンクがどう見えるかってことでしょ」
アイビーはある程度わかっているようだ。
そう。
ここまで来るまで色んなことがあった。
色んな事をした。
結果と過程は積み重なり、俺の姿を別のものに変える。
もう、何も持っていなくて捻くれていたガキは、いないのだ。
「最後に一個だけ確認だ、マリー。おまえはロイとプリンツをどう思ってる?」
「くそ野郎だと思ってるわ」
「手をつなぐことはできると思うか?」
「……」
マリーは答えに一拍置いてから、素直に答えてくれた。
◇
騎士団員に囲まれるようにして、投票箱が運び込まれてきた。
投票三日目の今日、箱は開けられる。
王の謁見の間には多くの人間が詰めかけていた。各種大臣を初めとして、国の重鎮が勢揃い。
マリーもロイも特段何を言う事もなく、箱を見つめている。二人とも、自分の満足のいく事前準備が行えたようだった。
全員の視線は謁見の間の中心に置かれた箱に釘付けとなっている。
箱の四方を囲うように、四聖剣が立ち並んだ。開票が始まれば、彼らが一枚一枚読み上げて計上することになる。
儀礼的な要素もあって、中々に空気が重い。誰も口を開くことができていなかった。
「――では、開票します」
四聖剣を代表して、スカビオサが箱に手をかける、
のを。
「待って」
プリンツが声をかけて止めた。
当然、ざわつく王謁見の間。
マリーもロイも、不可思議な顔で兄弟のことを見つめている。
全員の視線が箱からプリンツへと移り変わる。
プリンツは逡巡するように俯いてから、
「待って、少し、待って。まだ箱は開いてない。どっちが勝ったかわからない。まだ、始まっても終わってもいない。そうでしょう?」
「そうだ。そして、私たちが勝つ。何も心配することはない」
ロイが悠然と頷く。
周囲の話を聞く限り、俺の読みでは勝敗は五分だ。ロイはどうしてそこまで自信満々にいられるのだろう。何か仕掛けたか?
危ないな。何かが飛び出してくる可能性がある。俺たちが負ける可能性も十分にある。
しかし。
”勝敗”が関わってくる場面がくれば、だけど。
俺の戦いは、そこじゃない。箱を開けた後じゃない。
”選挙の勝敗なんか関係ない”んだ。
「……でも」
「何を心配することがある。こいつらが何かを企んだと思っているのか? 問題ない。それを防ぐための処置はしっかり行った。私をないがしろにする者ばかりで会場を固めたわけではない。心配するな」
「……」
プリンツは何を心配しているんだろう。
何の報告を受けたんだろう。
気になるね。
「――開票しろ。そして、そこにいる女を偽物の王女として、見せしめに殺してやる」
「待ってって!」
プリンツは声を張り上げた。
再三の制止に、大臣たちも困惑の声を上げ始める。誰もが互いに目を合わせ、状況を確認しようとする。
会場を不穏な空気が包み込んだ。
ロイも流石に怪訝な顔になっている。
「だから何を――」
「……貴方、どうして投票会場にいたの?」
その目はマリーを。
いや、その隣の俺を見つめる。
俺は悠然と笑って見せた。
「何をおっしゃいますか。私はずっとここにいたでしょう。それは一緒にいた貴方も証言できることです」
「でも、会場で貴方を見たという報告が上がっている」
いやいや、と俺は否定する。
「じゃあここにいた私は誰なんですか。そんなこと、誰が言っているんですか?」
「私の部下が、貴方を会場で見たと言っている」
ここで誰か証言に力のある人物を出せれば違ったんだろうけどな。
「人違いですよ。見てわかる通り、どこにでもいるような顔つきですので」
「いや、そんなこと、」
「では、貴方は会場で実際に私に似た人物を見たのですか? 貴方が、見たのですか? そうであれば、貴方こそこの場所を抜け出していた証左になりますが」
「……私は見ていない、けれど」
「それでは、ただの言いがかりですよ。開票を止めるようなことでもありません」
プリンツはこれ以上口を閉じてしまう。
おいおい、もっと突っかかってくれよ。こんなんで引くな。
そうじゃないと、おまえにわざわざ俺の霊装を”教えた”意味がないだろう。
もっとここにいる人間を巻き込んでくれ。
「この私には会場に行ける余地はありませんでした。私はずっとここにいた。話はそれで終わりです」
「――いや、貴方には自分の位置を変更する霊装がある。それで移動したんだ」
「だから、私はずっとここにいたでしょう。ロイ王子も証言してくれますよね」
「……まあ、」
「違う! 貴方は何度か華を摘みに行っていた。そこから移動したんだわ」
「騎士団員が一緒にいたはずですが? 彼もグルですか? 自分の人選に異議を唱えると?」
「……懐柔したの? もしくは――貴方の霊装だ。貴方は霊装ティアクラウンのコピーを扱える!」
ざわつく現場。
マリーの眉が寄る。
そう、不安にならなくても大丈夫だよ。
「証拠は?」
「私が進言します」四聖剣――プリムラが手を挙げた。「この男の霊装は、他人の霊装を模倣するもの。王冠もその例に漏れません。私も一度、目撃しています」
プリムラの参入に、再び現場が荒れる。
そんな馬鹿な、とか、ありえない、とか。
そして最終的には、ずるだなんだと騒ぎ立てる。
プリンツの顔に生気が戻ってきた。
「ほら! 貴方はトイレに行って、途中で騎士団員を撒いてか懐柔してか、外に出た。そこで何かをしたんだ!」
「何をするんですか。あくまでそれは実現可能性の話でしょう。それに、私のトイレはそんなに長い期間でしたか? 常識の範囲内だったと思いますけれど。貴方に指示もされましたし、私はそれを守った。だから貴方も当日は不問にしていたはず」
「貴方は移動する霊装を持っている。時間は反論にならないわ」
「移動した先で何ができるというのです」
「何とでもできる。ここでは、貴方が投票会場にいたかいないかが焦点よ」
「では、答えは”いない”ということです。できるかも、だけで議論を進められても困ります。それとも、この場に私が外にいたことを証明できる人がいらっしゃれば、話は別ですが」
しんと静まり返る場内。
そりゃそうだ。誰も証言なんかできない。
だって、この場にいる高位貴族たちは誰も外出していないはずなんだから。
そう、取り決めたものな。
「悪魔の証明ですね」
「貴方だって自分の無実を証明できてない。条件は同じよ」
「私は確かにトイレに行きました。けれど、あの時あの場にいた人たちと同じ頻度、同じ時間だったと記憶しています。同じ理屈なら、貴方たちも無実ではありません」
「だから、貴方はその姿を見られているのよ!」
「貴方の知人です。その証言は貴方の優位に進められる。公平ではありませんね。実は、私の友人こそ、貴方を外で見たと言っていました。貴方こそ何かをしたのでは?」
「妄言を吐くな!」
「同じことをそのまま返しますよ」
「――だから」
堂々巡り。あほらしい。
「もういい? 私、さっさと終わらせたいんだけど」
マリーが不機嫌を隠そうともせずに言った。
「まだ議論は終わっていないわ」
「投票は終わったのよ。そこに結果が転がっている。それともなに、さっきしていた確証もない話で今回の選挙自体を取りやめる?
私はいいわよ、それでも。そうしたら、次回、私も同じように騒ぐから。貴方たちの誰か一人でもトイレに行っただけで、王子という立場を利用して会場で悪さをしたと訴えて、選挙を取りやめるから。一生、茶番を続けましょうか。私はその間ずっとここに座ってるから、好きにしたらいいわ」
「――」
マリーはすでに戴冠を終えている。
現状、マリーが王だ。
つまり、マリーは焦る必要がないのだ。今だって、ぐだぐだと後出しを続ける王子たちに付き合っているだけ。
動かないといけないのは王子たちの方。
リスクを背負わないと行けない立場なのは、すでに俺たちじゃない。
こうならないために、彼らはマリーの戴冠式をするべきではなかった。けれど、マリーが学園を卒業した時点で戴冠は決まっていて、卒業は彼女を在学中に殺せなかったことで確定していて、彼女を殺せなかったのは学園に入れてしまったからで、学園に入れたのは当時殺せなかったからで、――
畢竟、彼らはどこかで流れを変える一手を打たなければならなかった。
自分の身を削ってでも、行動に移すべきだった。在学中に学園に百人でも千人でも人を派遣して、マリーを殺すべきだった。マリーの王冠の能力に関係ないくらいの人数をかけて、彼女を相手どった戦争を起こすべきだった。
彼女にはそれくらいの価値があった。
みすぼらしい女なんていう評価は意味がない。
なんて。
すべてがもう遅いけれど。
「プリンツ。もういい。結論は変わらん。この箱を開ければ我々の勝利なのだから」
「――ばか兄さん。どうして貴方はそこまで直情的なの? それで貴方は死ぬことになるのよ」
「何を……」
「こいつが外に出ていた、それはとても重要なことなのよ。証明はできなくても、外に出ていた可能性がある、何かをした可能性がある、それだけで脅威なの。こいつは――何をするかわからない」
「不確定要素に惑わされるな。それこそこいつらの思うつぼだ」
「こいつのやってきたこと、覚えているでしょう? こいつのせいで学園内でマリーは殺せなかったの。犬たちを向かわせても、四聖剣を派遣しても、討伐隊で英傑たちを集めても、私が直接乗り込んだって、殺せなかったの! 全部、こいつがいたからなのよ!」
プリンツは絶叫した。
今度は別の意味で静まりかえる室内。
「へえ。そんなことしてたんだ。知らなかったわ」
マリーの言葉だけが残響して、各々の鼓膜を揺らしていた。
「おい、プリンツ……」
「ばか! ばかばかばか! 兄さんのばか! 今回だってきっと、こいつが何かしたに決まってる! この余裕を見てよ! きっともう勝敗は決まってるんだ。この投票箱を開けたら、すべてにマリーの名前が書いてあるかもしれない!
だから私たちがまずするべきは、こいつの足取りを追う事よ。誰でもいい、こいつを見かけた人間を探してきて。公平を期すというのなら、騎士団員を全員呼んできなさい。私が片っ端から聞くから」
投票箱を前にして、あらぬことを言う。
誰も動こうとはしなかった。
周囲はどちらかというと、この人は何を言っているんだという視線が多い。
プリンツのこの言動は過去の俺の行動を知っている人間にしか伝わらない。
俺をただの庶民と見限った者には絶対に理解されない。
苦虫を噛み潰した顔になる大臣もそれなりにいた。彼らはよくわかっている。だからこそ――絡めとられる。
中途半端に物事を考えられるやつが、俺という落とし穴にはまるのだ。
「なんで誰もわからないの? こいつが、こいつが、何かしたんだ。絶対に!」
「落ち着け、プリンツ。そんなことありえないだろう。私たちだって――」
「こいつは、外に出てたの! 投票に干渉できた、それだけで意味が変わってくるの! 私たちが考えた策が何度破られたか、覚えていてよ! 王冠も持ってる。こいつは、何とでもできるのよ」
悲痛な言葉と共に、プリンツの目からは涙が溢れ始める。
「なんで誰もわかってくれないの……」
「……」
「いやだ、いやだよ。負けたくない。兄さんに死んでほしくないよお……」
人を散々殺そうとしてきたくせに、自分勝手極まりないな。
でも、それも人間らしいともいえる。
結局人は、自分の周りだけがすべてだ。王子だって、それは変わらない。
勿論、俺も。
俺以上に動いた人間がいて、この場を掌握していたら、泣いてマリーの生存だけでも懇願していただろう。
プリンツはここで懇願できるくらいには賢くて。
そして、今になって気づくくらいには、愚かだった。
俺にも戦争をけしかけるべきだったな。
庶民のがきんちょなんていう評価は改めて。
「それで? どうするの? 箱を開けるの、開けないの?」