5 極夜
私は、はやる気持ちをおさえて家路を急ぎました。
自宅が見えてきました。しかし、そこには明かりひとつ点いていませんでした。
ドアを開けると、玄関前には妻が座って、私を待っていました。その眼には光がなく、まるで穴のようで、私さえそこには映っていないようでした。
「子ども達は?」私は、一縷もない望みをかけて妻に問いました。案の定、妻はしづかに、首を横に振りました。「…私が部屋に入ったときには、もう」
それを聞き終わらないうちに、私は膝から崩れ落ちました。持っていた鞄がバタン、と乾いた音を立てます。開けっ放しの玄関の扉から月光が射しこんで、私の背中を冷たく照らしました。
ああ・・・・・・まさか。「ーーー子ども達を殺したのは私だ。私はとんでもないことをやってしまったんだ」
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泣き崩れる妻を部屋で落ち着かせてから、私は一人で二階の階段をのぼりました。
廊下の突き当り、重い木の扉を開きます。部屋の中からは、なつかしい本の匂いが漂ってきました。
書斎に入ると、私はすぐさま、正面にある自分の文机へ駆け寄りました。黒檀製の重厚な机の上には、数冊の本、そして原稿の束が置いてあります。原稿を手に取ると、つい数時間前に息子が触れた温もりが感じられるようで、私はいたたまれなくなりました。
私は懺悔せざるを得ませんでした。なにしろ、ーーー私も信じたくありませんがーーー私がここにこの原稿を置いておいたせいで、息子たちは死ぬことになってしまったのですから。
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私はある小さな賞をとったことがきっかけで、本格的に物書きを始めました。といっても収入とよべる収入もなく、当時やっていた仕事と並行してぼそぼそと書く程度のものでした。知り合いにも私が小説家であることを知っている者はほとんどおらず、わずかに数人の友人と、結婚して間もない妻だけにはそのことを伝えていました。もともと本が好きということもあって執筆はさほど苦痛なく進み、一年おきぐらいに一作というペースで新作を書いていました。
ある日、私のもとに一通の訃報が届きました。それは髙橋という男で、私のもっとも旧い友人の一人でした。彼とは幼少期に本で意気投合し、一時は共に作家も目指していた仲だったので、彼の夭逝は私にとって純粋に悲しいできごとであるはずでした。
しかしその訃報を聞いて、私は腰が抜けるほど驚愕したのです。なぜってーーーーーー彼はちょうど前日に私と会っていたからです。彼は死の前日にこの書斎を尋ねていたのです。
『おまえ、小説家になったんだってな。おめでとう。昔からおまえの文才には何か光るものを感じてたよ』
『はは、ありがとう。ついこの前、新作も出したところなんだ。ーちなみに主人公の名前は髙橋にしたよ』
『え?ーーーまさか、俺がモデルってことはないよな』
『ーーー残念、図星だよ。何もいわないでやったことは謝る。でも君の雰囲気が今回の作風に合ってたんだ。…どっかの小説家も言ってたよ、身近な人間をうまく書けない作家が、見知らぬ人間を描ける筈はないって。ーーーまあ、髙橋さん、最後は谷に落ちて死ぬんだけどね』
『はっ、まったく、酷いことしてくれるぜ。まあ別に、かまわないけどさ』
・・・・・・・・・そして翌日、髙橋は死んだのです。山奥の深い谷に飛び降りて。遺書はありませんでした。かといって人の好い彼が誰かに恨まれるはずはありません。つまり、
私の本が、彼を殺したというほかなかったのです。
その日から、私はぱったりと本を書くのをやめました。
私はそれまで、幽霊や呪いといった非科学的な現象の存在を端からいないものときめつけていました。しかし今回ばかりは、私はそうした類の実在を認めるほかありませんでした。髙橋の件は、結局自殺ということで片付けられました。ーーーしかしあれは決して、自殺などではありません。ーーー私が殺したのです。私との面会が、彼を何らかの形で死に導いたのです。私はこの出来事を今日まで、妻を除いて誰にも言わずにいました。
そして、罪の意識に心を打ち砕かれそうになりながらも、私にはもう一つ、恐れていたことがあったのです。
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私は手に取った原稿に目を落としました。それは、私がだいぶ昔に書いた短編小説でした。タイトルには太字で大きく『極夜』と書いてあります。
その話の概要は、だいたいこんな通りです。
真夏の熱帯夜、すべてが寝静まった真夜中の住宅街に、殺人鬼が現れます。屈強な体をしたその男は、深夜の街を徘徊して二人の子供を殺し、その後に自らも命を絶ちます。夜空には満月が妖しく輝いています。男は、暑気と月光によって狂わされ、あのような奇怪な行動をとってしまったのでした。
作品は四部編成で、それぞれの登場人物の視点から物語が描かれています。ーーーここまではありふれた怪奇小説です。しかし一番の問題は(もうお気づきかもしれませんが)ーーーその殺された子供二人のモデルが、私の息子たちであったということです。
昼間に妻からの電話があったとき、私は心臓が破裂するほど驚きました。この『極夜』という短編は、細々とですがすでに世に出ています。彼らを死なせないためにも、私は何としても、私が小説家であることを隠しとおす必要がありました。そのために、私は私の作品すべてを、彼らが入ることのない書斎に保管していたのです。ーーーまさか彼らがそこに入ってしまうなんて。完全に私の誤算でした。堂々と机の上に置いておいたのは、ちょうど私が思い立って、それらすべてを捨ててしまおうとしていたからでした。何たる不運の連続でしょう。
私はすぐさま出張先の仕事をほっぽりだして、急いで家まで向かいました。ーーーーーーしかし結局、時は私を待ってはくれなかったのです。
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書斎を出て一階に降り、台所に向かいます。流し台の上の大きな窓からは、異常なほど大きな満月が、美しくかがやいていました。ーーー彼らはこの満月を見て、死んでいったのでしょう。「月光の妖術」私はちいさくつぶやきました。今となっては、その妖しげな力さえも、妙に現実感を帯びて感じられました。
私は流し台に置かれた出刃包丁を手に取ると、それを勢いよく胸に突き立てました。私はふたたび膝から崩れ落ちました。
薄れていく意識のなか、遠くから妻の悲鳴が聞こえてきます。
『極夜』には、こんな一節が登場します。
熟れたトマトに針を突き立てると、そのトマトはいとも簡単に破裂する。
私の胸からは、とめどなく血が噴き出していました。
途中間が空きましたが何とか完結させることができました。読んでくださった方本当にありがとうございました。受験とかが落ち着いたらまた別のものも書こうと思います。