8.『卒業パーティー(前)』
──眩しい。
会場となった大広間に入るとシャンデリアのぎらついた光が目を刺した。
外の薄闇から入ると、それは攻撃的にすら感じて何度か目を瞬かせる。
何秒かして目が慣れてくると、着飾ったドレス姿の人々の群れがその大広間を住みかとする美しい魚のように、ゆったりとあちこちを流れるように歩き回っているのが見えた。まるでお伽の国のようだ。
見ると、誰もが卒業という節目に頬を綻ばせて挨拶を交わしている。
本日の主役である姉さんたちと別れ、回遊する彼らを横目に通り過ぎ生徒会の仕事をするために舞台袖へと移動した。
大広間内は人が多いせいか、風の通っていた涼しい中庭から入るとむっとして少し暑いくらいに感じた。
姉さんは卒業生の監督生としてこまごまとした仕事を任されておりあちこちを美しく、けれど素早く移動している。
しばらくすると、ユリウス殿下も卒業生代表の挨拶のため舞台袖へと姿を現した。
僕は彼のすらりとした背を見て、今まで感じたことのないユーリ兄さんから逃げ出したい気持になる。
「……考えたかい?」
学園長の長い話が続く間、横に立った殿下からそう声をかけられた。
「……。」
答えられずに無言でいると、殿下は小さく僕に視線を寄こし、そう、と言う。
「僕は君にけっこう長いこと、猶予を与えていたと思うけど。それが答えなんだね。なら、話は終わりだ。」
そのトーンを落とし周囲に溶け込ませるように静かに呟いた声に、僕は言いようもない焦りを感じて振り返る。
すると、どこを見ているのか、なにを考えているのかわからず不安になるユリウス殿下の視線と僕のそれが重なった。
ごくり、と唾を飲み込むと殿下がふっと視線を、スポットライトを浴び祝辞を述べる学園長へと向ける。
ほっとして、僕も同じ方向を向く。
「……エレナは、明日以降すぐにでも城へと上げさせる。彼女は優秀だし、僕と相性もいい。カリスマ性も、統制力も、この学園でも十分示して見せてくれた。王太子妃、そして行く行くは国を共に治めるに相応しい。なるべく、早くに式を挙げよう。」
静かに紡がれるその言葉をちゃんと理解する前に、足元が揺れた。
そして、殿下の言った言葉たちがのろのろと耳から頭へと入り、意味を理解したその瞬間、僕の世界から音が消えて、しん、と痛いと感じるほどの静寂が支配した。
ぐっ、と奥歯を噛み殿下へと目を向ける。
「っ、ですが、シルビア嬢のことはどうされるんですか……?」
微笑めた、と思う。固まった頬を、多分だけど、引きつりつつ上げられたと僕は思った。
「シルビア嬢……?」
訝し気に言う殿下に、僕は作り笑いをしたままに言う。
「殿下が彼女を、慕っていらっしゃると噂がありましたが。」
一瞬眉を顰めてから、はぁ、と殿下が大きくため息を吐く。
「なら、シルビア嬢は側室に迎えようか。ああ、でも後継者争いの種は減らしたいから、まずはエレナと子を成してからでしか迎えられないかな。」
噂を否定されずに、あまつさえ彼女を側室になどという話が出て、冷えた頭が今度は一気に熱くなっていく。
「殿下は、姉さんを愛している、の、ですか……?」
「政略結婚は当たり前だし、別に、愛はなくても彼女を抱くことはできる。」
──ガッ!
「やめろ、ハル!」
かっとしたまま殿下の胸元を掴むと、控えていたライナス様から小声だが鋭い叱責が飛んだ。それでも僕は、掴んだその手を離せずにいた。
「ハル、皺になるから放してくれる。」
殿下のその他人言のような冷静な声に、僕は固く力が入った握る掌をなんとか緩める。
「申し訳、ありません。」
「いいよ。でも、出会った頃はあんなに後をついて回ってきて可愛かったのに、随分生意気になった。それで?君は今なにに怒ったの?君が言い寄っているシルビア嬢を側室にするって言ったこと?それとも、エレナを無下に扱ったこと?まぁ、なんでもいいけど。」
殿下は、手で胸元を整え寄った皺を伸ばす。
「僕とエレナが結婚したら、君も城に遊びにおいで。エレナの弟だものね。いつでも歓迎する。」
その一言がまるで矢のように心に刺さり、僕は謝罪のために浅く折りたたんだ体を深く傾ける。体の横で、感覚を失うほど右の掌を強く握る。
「ああ、出番みたいだね。ライナス、行くよ。」
学園長の長い話が終わり拍手が起きると、殿下は舞台の方へと移動していく。
俯いた僕の目の中を、殿下の白いマントの裾が滑っていく。
いつだったか、ユーリ兄ちゃんが『ハル、チャンスの神様には前髪しかないんだ。好機は本当に一瞬で、躊躇っている内に既に手の届かないところに飛び立っている。だから、判断を誤ってはいけない。』そう教えてくれたことを思い出す内に、すでに僕の目には殿下のマントは消えてなくなっていた。
「ハル。君は、自分で『エレナの良い弟』でいることを選んだ。」
「……え?」
のろのろと頭を上げるとそう声をかけられ、目を向ける。
──チカッ
暗い舞台袖に僕は立っていて、舞台へと向かう殿下に後光が差した。
逆光となり、僕は眩しくて目を細める。
「人生は選択の結果だ。いつか君は、この日に大事なものに手を伸ばさなかったことを後悔する。だが、それは君が選んだ結果だ。」
「でも、僕に選択肢なんてなか、」
選べるものなんて、なかった。僕は、なにもできなかった。
そう言いかけたが、被せるように殿下は静かに言葉を紡ぐ。
「君は『なにもしない』という選択をした。僕が言ったことを考えることも、聞くことも、エレナとちゃんと向き合うことも、話をすることも。他の全てを諦めて、『エレナの良い弟』でい続ける道を選んだ。選択肢がなかったんじゃない。君が、その道を、自ら、選んだんだ。」
僕を叱りつけるように言ったその言葉の後で、ふと殿下は自嘲するように眉を顰め、目を伏せた。
胸を抉る様に切ない声色で言われたその言葉は、僕の心をぐらつかせた。
選ぶっていうのは、もっと積極的なものだと思っていた。
ふう、と空を仰いで一息吸うと、ハル、と殿下が穏やかに僕の名を呼んだ。
「君は人生のこの先、何度もこの瞬間を思うだろう。けど、それは自分が納得して選んだんだ。いつか悔やむにしても、それは誰のせいでもない、自分のせいだとちゃんと知りなさい。痛みを知り、そして次に活かしなさい。」
ばさり、と殿下はマントを翻す。その後を、ライナス様が雷のようにぴりっとした鋭い眼光を僕に与えた後、何事もなかったように身を翻して殿下の後を追い舞台へと上がっていく。
遠のく殿下たちの背と入れ違いに、今度は舞台袖に姉さんが入ってきて、ハル、と小さいがいつものように優しい声を僕にかけてくれる。
「今日は忙しいね。」
笑いかけるその顔が、愛おしくて、痛かった。
「あ、もう、終わりそう!ユリウスったら簡潔過ぎる!学園長の祝辞が長かったから、巻くつもりね。」
ユリウス殿下の、簡潔極まりない卒業生の言葉が終わろうとしていた。
それが終わればまた姉さんは舞台へと上がり、そのまま殿下とのファーストダンスへと突入し、パーティーの終わりまで会えないかもしれない。
からからに乾いた喉が、声を出すのを拒む。それでもなんとか絞りだした声はかすれていた。
「……ねえ、さん、」
「ん?どうしたの、ハル。」
──ワァァァァァ
簡潔だが、人々の心を掴むユリウス殿下のスピーチが終わると先ほどの学園長とは比べものにならないほどの歓声がおきた。
一瞬、こちらを見た殿下と目が合った気がした。
「ごめんね、もう行かないと。」
するり、と姉さんのドレスが翻り裾が僕の目の端から消えていく。
『ハル、チャンスの神様は──』
がしりと姉さんの手を掴む。
「姉さん、」
「どうしたの、ハル?」
姉さんが困惑した声を出した。
……言ってどうなる。そう思った。言ったって、どうせ変わらない。そんなこと、わかっているだろう?
……わかっている。
……けど。それでも、一つだけ。
一つだけ聞かせてほしい。
顔を上げると、姉さんの春の青空のように透き通った淡いブルーの瞳に、僕の泣きそうな顔が映っていた。
無理矢理に口角を上げて微笑みながら、声が震えないように気をつけて僕は口を開く。
「エレナ、姉さん……。」
耳に、あの日の姉さんの声がよみがえる。
『ずっと、一緒にいて。』
『ええ、ずっと一緒にいるわ。約束する。』
僕の戯言に小指を絡ませてくれたあの日のことを。
僕はずっとあの時の約束を、忘れられずにいるんだ、姉さん。
「……あの『約束』を、まだ貴方は覚えていますか……?」
**********
『……あの『約束』を、まだ貴方は覚えていますか……?』
自分の喉から出たはずのその言葉は、結局情けないくらいに震えて自分の耳に届いた。
姉さんのその大きな目が、零れるんじゃないかってくらい大きく見開かれる。
その様子を目を逸らさずに見つめていたが、いつのまにか浮かんできた涙で彼女の輪郭がゆらゆらと揺らいでいく。
貴方が覚えていなくても、構わなかった。
もう十分だと思っていたんだ。
だって、あの悪意だらけの家からウェストリンド侯爵家へと連れ出してくれて、明るい空の下で大きく息が吸えて。
痛む背中の傷も癒してもらえて。
心の中の傷すら、貴方が書き換えてくれて。
たくさんの甘くて優しい、幸せな思い出をもらえたから。
僕は貴方の面影を後生大事に胸の中で抱きしめて生きていけばいいって。
僕なんかが、これ以上手を伸ばすべきじゃないって思った。
だから、貴方へ向けた感情とその名を心の中へと押し込めた。
僕が蒲公英の花指輪を贈ったその薬指に、別の人から贈られる指輪を嵌め、僕以外の人とずっと寄り添って生きていく。
貴方が幸せならそれでも構わないと、悲鳴を上げる心を無視した。
でも、もし。
もし、貴方が──……
「エレナ」
ユリウス殿下が、舞台から戻り姉さんに声をかける。
「行くよ。」
チャンスの神様を掴み損ねた僕は、そっと姉さんから手を放す。
「……ハル、」
春の温かな日差しのような声で、姉さんが僕を呼ぶ。
「覚えているよ。」
──え?
「ハル、もちろんだよ。覚えているよ……!」
姉さんの顔が泣きそうに歪み、そして、涙が一筋流れていった。それは哀しみではなくて、嬉しさを堪えるような顔だった。
姉さんが、小指を差し出す。僕は夢心地に、姉さんのするりとした細い小指に自分のそれを重ねた。
「エレナ?」
ライナス様が急かすように姉さんに声をかける。
繋いだ小指をそっと離すと、姉さんは手を差し伸べるユリウス殿下の元へと歩いていく。
その姿に背を向けて、急ぎ足でその場を離れた。
かけられる声を全て無視して無茶苦茶に歩き行きついた舞台裾の端で、僕は小さく息を吐く。
──姉さんは、ちゃんと覚えていてくれた。
胸が熱くなる。それと同時に、心に冷たいものがじりじりと広がっていく。そして、どんどんとそれは大きくなり、痛くて呼吸を阻害する塊へと変わり、息苦しさに僕は涙ぐむ。
ほら、これで満足だろう?
もう一人の自分が、そう言って僕に言い聞かせる。
覚えていなくても、構わない。けれど、もし覚えていてくれるなら、そのエレナの言葉だけをただ胸に抱えて生きていけるって思っていただろう?
覚えていてくれた。それだけで、満足じゃないか。
そう言い聞かせるのに、心がずきずきと痛んで心臓が暴れ回って涙が溢れそうになる。
心にしまったその感情を開く鍵は、姉さんとの戻らぬ思い出の中へと放り投げた。
──だから。
──だけど。
貴方が幸せの匂いだと言ったパンの香り、一緒に木苺を摘んで作ってもらった甘酸っぱいジャム、街中で買ったお揃いのカップでいただく貴方の好きな紅茶。
寄り添って昼寝したふかふかのソファ、かけっこした長い廊下、滑り台にした階段の手すり。
いたずらをしてメアリから逃げ回った庭、どちらが早く登れるか競走した楠の大木、お腹を空かせて蜜を吸った花。
雨上がりに必ず空を見上げて探した七色の虹、転寝した若葉の隙間から差し込む木漏れ日、朝露の中で誘われた沈丁花の香り。
今日一日、思い知った。
どこを見ても聞いても、触れたものも嗅いだ香りも、すべて姉さんとの優しい思い出へとつながっていた。
記憶だけではない。感情だって。
お花見をした庭で、姉さんが僕の姉さんになってくれて喜びを知った。
蒲公英の綿毛を飛ばす姉さんが約束だと言ってくれて、僕は貴方に淡い恋心を抱いた。
殿下と並んで歩くその伸びる影に、初めて姉さんを遠い人のように感じて寂しかった。
昏い過去を見なくていいと言ってくれ、空を流れた星に一緒にいたいと願い貴方とともに歩く未来を夢みた。
戻らぬ日々の思い出が、いくつもいくつもよみがえり、かけたはずの鍵は次々と開いていった。
少しずつ開いていくそれは、暗闇に光る星のようにキラキラとして、胸が痛くなるほど甘くて、目を逸らしたいくらいに美しくて、僕は息苦しくなった。
──ワァァァァァ
歓声がまた響く。恐らく、姉さんと殿下のファーストダンスが終わったのだろう。
ぎゅうと手を握って、歯をくいしばる。
──我儘を言ってもいい。
──ハル。愛しているなら、愛していると言って伝えないと。
──それが例え、空に浮かぶ星だろうと、手を伸ばして、声に出して欲しんだって言わないと誰にも伝わらないよ。
ユリウス殿下の、いや、ユーリ兄さんの手のかかる弟へと向けるような、呆れていてそれでも温もりのある声を思い出す。
ユーリ兄さん、僕は姉さんとユーリ兄さんはお似合いだと思った。けど。
いやだ。
姉さんが、僕じゃない誰か別の人と一緒になるなんて、絶対にいやなんです。
深呼吸すると、頭がはっきりとした。
足を、踏み出せ。
お読みいただきありがとうございます!