7.『宿題』
尾を引いて流れていった星が、瑠璃色の空の中へ吸い込まれるようにして静かに消えていった。
僕はその星と同様に一瞬で浮かびあがり、消えていった思い出の余韻に目を瞑りふっと息を吐く。
「やっぱり、いい日だわ。うん、大丈夫。」
流れ星を見た姉さんは、嬉しそうにそう言って大きく息を吸う。
例えば初めてのお花見の席で百のクッキーの内でたった一つの激辛クッキーを引いたメイドのメアリにラッキーだと言ったように、どこにでも幸せを見出そうとする姉さんの前向きな考えに、僕もそうありたいと願い微笑む。
「よう、エレナ、ハル。」
今日馬車の中で思い出した子供の頃より逞しく成長したライナス様が、回廊からそう声をかけて僕らの元へと走り寄ってくる。
「ごきげんよう、ライナス。」
「こんばんは、ライナス様。」
「堅苦しいなぁ。様なんかいいっていつも言っているのに。」
せっかくセットした髪を、ぐしゃりと撫ぜられて僕は苦笑いしながら、
「いえ、そう言うわけにはいきませんよ。今日はライ兄さんは封印です。」
とおどけて言うと、にかっと明るくライナス様が笑う。
「ライナスも先に言っておくわ。今日は迷惑をかける、ごめんなさい。」
そう声をかけ頭を下げる姉さんに、ライナス様が表情を崩す。
「なんだ?今日もなにか企んでいるのか、エレナは。」
「そうね。人生をかけて、やらかすつもりよ。」
「おお。なんだかすごそうだな。まぁ、俺たちはいつだって味方だよ。な、ハル。」
「ええ、もちろん。」
なんの企みか結局聞くことができなかったが、姉さんはよし、やるぞーと片手をあげてやる気を漲らせている。
ライナス様は、その様子をにやにやと笑って見ていたが、なにをやらかすんだ?なんてことは聞いてくれなかった。
ライ兄さんは、いつだって不測の事態を面白がる。
「ところで、ハル。お前、ユリウスからの宿題は解けたのか?」
そう言われて、殿下のゆっくりとしたやる気のない声が、耳元によみがえった。
──ハル、君。
──いい加減、認めたらどうなの?
**********
ユリウス殿下が国務と学園の仕事に忙殺され、目の下の隈を更に黒くした顔色の悪い顔を傾げる。虚ろなアメジストの双眸が、僕をまっすぐに見つめる。
「なにを、ですか?」
意味が分からず、そう尋ねると彼ははぁとため息をついた。
「気がついているのに、気がつかないふりなのかな。」
「いや、お前に気遣っているんじゃないか。優しい奴だからなぁ。」
ユリウス殿下が言った言葉に、隣で立つライナス様がそう答える。
「いつまでも、自分の心を誤魔化して大事なものから目を逸らしていると、後悔するよ、ハル。」
「……。」
その言葉にようやく何のことを言っているのか察しがついたが、なにも言えずに俯く。
「君、本当に、あのエレナの弟とは思えないよね。」
せめて姉さんに誇ってもらえる弟となろうとしてきたのに、そう言われて僕はぎゅうと手を握る。
「……殿下に、姉さんのなにがわかるというのですか。」
「知っているよ。悪いけど、出会ってからの時間は君よりずっと僕の方が長いし、深く語り合っている。だからこそ、言える。彼女なら君みたいに気持ちを誤魔化したりしないし、幸せに貪欲だし、欲しいものに向かってまっすぐに手を伸ばす。」
「……まっすぐに、手を伸ばしたのが殿下、だったんですよね。殿下の想い人と噂になっただけで、相手の女性を嫉妬して虐めてしまうほど、貴方に恋い焦がれているんですものね。」
あの優しい姉が、殿下の想い人と噂になったシルビア嬢へと辛く当たる。
嫉妬の炎に身をやつすほど、殿下への想いが深いの?
心が、ひんやりとした。
それでも、僕は姉さんに幸せになってもらいたかった。
だから、姉さんが殿下とともに幸せになることを望み、そのためにシルビア嬢が障壁になるというのなら……。
それなら、僕が貴方の憂いを取り除こう。
そう考えて、シルビア嬢を殿下から離すために、培った笑顔を繕い彼女に近づいた。
思わせぶりに、まるで恋をしている風を装い、『嫉妬してしまうから、殿下には近づかないでよ、ね?』とそう甘く囁いた。
姉さんは、僕が彼女に恋をしていると思っているようだったけど、シルビア嬢の明朗でのびのびとした性格は好ましいとは思うけど、それは恋なんて感情ではない。
「話にならない。」
ふい、とユリウス殿下が背を向けた。
「今日はもう下がっていいよ。」
そう言われて、僕は一礼して去る。その背に、ぼそりとした声が聞こえた。
「これは独り言だけど。」
ぴたり、と足を止める。
「君は良い子だ。昔からずっと。でも、いつまでもいい子に徹する必要はないんだ。人の顔色ばかり窺う必要はないし、我儘を言ってもいい。欲しいものは、ちゃんと欲しいと言っていいんだよ、ハル。愛しているなら、愛していると言って伝えないと。欲しいものは自分から手を伸ばさないと。それが例え、空に浮かぶ星だろうと、手を伸ばして、声に出して欲しんだって言わないと誰にも伝わらないよ。」
「……。」
「あれが欲しい、それをくれって駄々を捏ねたらいい。願いを叶えるために考えて手を尽くして、行動しなきゃあ。どうにもならないことは世の中にはたくさんあるよ。けど、どうにもならないと決めつけて、何もする前から諦めるのはやめなよ。君はもう、昔の記憶に縛られ怯えるだけの子供じゃあない。やろうと思えばなんだってできるし、行こうと思えばどこにだっていける。欲しいと思うものに手を伸ばすことを、恐れなくていいんだ。この世界はハルが知っている通り、決して優しいだけじゃないよ。でも、暗闇だけでもないとエレナが教えてくれていただろう……?」
その言葉に、姉さんがくれる優しい光が浮かんだ。
「よく、考えたらいいよ。」
「……失礼します。」
……毎日、疲れ果てベッドへ倒れこむ。
以前ならそれで気を失うように眠れていたのに、殿下が言った言葉が頭をぐるぐると回り眠れない日々が続いた。
それでも、殿下の言葉の内容も真意も考えることもせず、僕はただ目を瞑って朝が来るのを待った。
**********
宿題は解けたのか、と問われて答えられずに無言でいると、ライナス様がくしゃりと頭を撫ぜる。
「お前は、甘え下手だったよなぁ。もっと兄ちゃんたちに甘えて頼ってくれてよかったのにさ。」
ライ兄さんの慈しむような赤い瞳と温かくて大きな手に、その背に負われたくすぐったい気持ちを思い出す。
「でもなぁ、ユリウスも甘やかされた記憶がないから、甘やかし方を知らないんだよなぁ。仕事はできるんだけど、どうにもお前のことになると……、」
「ライナス、要らないことは言わなくていいよ。」
半ば呆れたようなその声がした方向を振り向くと、ユリウス殿下が中庭の奥から歩いてきた。
いつも通り、なにを考えているのかわからない、死んだ魚のような虚ろな目で、僕らを見つめる。
「こんばんは、エレナ、ハル。」
かくん、と首を傾げたユリウス殿下が無感情にそう言う。
「……ごきげんよう、ユリウス。」
少しだけ返事を躊躇った姉さんがにっこりと、貴族令嬢として鍛えられた仮面の方の笑顔で殿下に挨拶を返した。
「こんばんは、ユリウス殿下。」
その顔を尻目に、僕も殿下に対し頭を下げて挨拶をする。その上から、ぼそりと夜の薄闇の中に溶けてしまいそうなほど小さな、けれど優しい声が落ちてきた。
「それで?心は決まったの、ハル。」
その答えを持たない僕はゆっくりと顔を上げる。
どう応えようか考えあぐねたが、殿下はすでに会場となる大広間へと視線をまっすぐに向けていた。すらりと立つ彼の姿勢はとても美しくて、ただそうしているだけなのに気品が漂う。
殿下は、真っ暗な目の下の隈と、仄暗い瞳、生気のない青白い顔をしていてうっかり夜の闇に紛れていきそうに思うのに、実際には彼の体の中からは信じられないほどの強い生命力が光となって漏れ出ているようだった。今も、中庭の草木が生い茂り色濃くなった闇の中で、彼の周りだけ、微かな白い光が取り囲んでいるように見える。
彼のそのまっすぐに伸びた背の後ろに、刻一刻と深まっていく藍色の空と僕を嗤うような細い三日月が浮かんでいた。
髪色に合わせ銀糸の刺繍を贅沢に施した白いマントを翻し、ユリウス殿下が僕らの方を振り向く。
「エレナ、おいで。」
そういって、殿下は姉さんに手を差し伸べエスコートし、姉は当然のようにその手を取る。揃いの衣装を身に着けた二人が、美しい春宵の中を凛然と歩いていく。
僕は、その一枚の完成した絵画のような二人からそっと視線を落とし、彼らの踏みしめた靴跡だけを見て歩いていった。
「……時間だね。さぁ、終わりのパーティーを始めようか。」
会場となる大広間前の暗闇で、ユリウス殿下がアメジストの瞳に閃く光を反射させてそう頬を少しだけ上げて言うとすぐに、卒業パーティーの始まりを告げる荘厳な鐘の音が響いた。
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