5.『流星群(前)』
金色の光が弱まり、淡い赤黄色の空のもとで、歩く人々の影が細長く伸びる。
ぼうっとそれを眺めていると、あのね、と姉さんの声がした。
「はい。」
微笑むと、先ほどまで険しかった顔が解れて、彼女も笑う。
「今朝、メアリに起こされる前に、起きられたの。」
「はい。」
「それでね、朝焼けがとても綺麗だったの。」
「はい。」
「窓を開けたら貴方が剣の訓練をしていた。かっこよかった。」
「えと、ありがとうございます。」
「でも、突然すごく険しい顔をして、どうしたんだろうって思ったらおもむろに蒲公英をむしり取って綿毛を吹き飛ばしていた。」
……見られていたのか。
「すごく一生懸命に吹き飛ばしていたの、可愛かった。」
「そう、ですか。」
可愛いと言われても複雑だ。可愛いと言われるよりかっこいいと言われたいのだと、散々言ってきたのだが、結局彼女は聞いてくれなかった。
「それでね、ハルがきれいだって褒めてくれたの。」
「はい。お綺麗です。えーっと、なんの、お話ですか?」
訳が分からなくてそう尋ねると、『んー』と言いながら彼女が馬車の中で背を伸ばして大きく息を吸い込む。
「今日は良い日だなぁ、ってこと。貴方が優しくて、アランもみんなも元気で、空はきれいで。」
良い日だという彼女の言葉に、息が詰まった。
ユリウス殿下の婚約者である姉さんは、今日の卒業パーティーが済めばじきに王城へとあがり、一年以内に彼と婚姻を結び王太子妃となるだろう。
大切な姉にとってのこの節目の日を、僕も祝いたい。貴方が良い日だと喜ぶなら、僕にとっても良い日だと思うのに、なぜか素直に飲み込めずに作り笑顔で濁す。
「今日は、きっと迷惑をかけるわ。」
「え?」
「ごめんなさい、先に謝っておくわ。」
「いえ、迷惑がかかるくらいはいいんですけど。なにを、企んでおいでですか?」
「な・い・しょ♡」
「……ほどほどでお願いします。」
止められないことはわかっているので、そう懇願する。
「どうかな。……私もちょっと怖いんだ。」
「怖い?なにか危険なことがあるんですか?」
暗い影が差す表情に、いつものような陽気ないたずらではなさそうで、彼女に問いかける。
「死ぬまでは、ないと思うんだけ。」
「やめてください。」
姉さんのくぐもった声に、言葉を被せる。
「なにをしたいのか知りませんが、そのような危険があることは絶対にしないでください。」
そう言って、彼女の手を取る。その手はいつものように温かなものではなくて、冷たくなっていた。ぎゅうとその手を包み込む。
「……ねぇ。」
「はい。」
「今朝の蒲公英占い、」
「え?」
「うまくいくって?」
「今はそんな話、」
「教えて。」
真剣な声で言われて、僕は躊躇う。
今朝、らしくもないと思いながら蒲公英の綿毛を飛ばしてみた。姉さんが昔していたように。
心に浮かべるべきではない人を思いながら息を吹きかけたそれは、一つ残さずにきれいに空へと舞い上がっていった。全部飛ばせたら、『とても愛されている』。
一瞬だけ夢を見て、すぐにありえないと苦笑いした。
「……そうですね。一度で全部飛んでいきましたよ。」
「……そう。きっとあなたの恋は上手くいくわね。」
貴方に、そんなことを言われたくなくて僕は顔を歪める。
けど、僕以上に貴方が泣きそうに顔を歪めて、取り繕うに微笑むから何も言えなくなって俯く。
「……姉さん、そんなことより危険な真似はしないでください。」
「大丈夫だよ。」
「大丈夫じゃありません。いつもどれだけ心配をかけるんですか。」
「単なる冗談よ。さ、もう、このお話はお終い。」
半ば無理矢理に話を切り上げられ、包んでいた手をそっと離される。
「姉さん、」
もっとちゃんと話を聞こうと呼ぶが、ガタン、と馬車が止まった。
「着いたようね。ハル、行こうか。」
「……はい。」
**********
上着を脱いだ姉さんをエスコートして歩く。
隣を歩く姉さんは学園中のたくさんの羨望や好奇の目を気にもせずに、堂々と美しく歩いていく。
そのうなじから肩へと続くなだらかな曲線に無意識に視線を這わせて、ふと自分が化け物の吸血鬼だとしたら、なんて馬鹿なことを考える。
そうだったらきっと、僕は誰よりも真っ先に姉さんの白く細い首元に魅せられるだろう。
ぷつり、とその桃のような柔肌に牙をたてる。流れ出る血はきっと熟れた桃のようにじっとりと甘くて、肌から立ち昇る甘い姉さんの香りが化け物となった僕の食欲を更に刺激するんだろうな。
『……ハル、痛いよ。』
噛まれて血を吸われても、なお僕を許すように優しく甘やかすように僕の名を呼ぶ姉さんが浮かぶ。
想像の中の恥辱に耐えるような表情が、いつだかの姉さんの顔と重なった。
「ハル、」
その声で我に返って、なにを考えていたんだと自分を恥じる。
「はい。」
「パーティーの時間まで少し時間があるから、少し中庭を歩こうか。」
「……ええ。」
学園で人気者の姉さんに声をかけようと集まった人だかりから逃れて、出入りを制限された静かな回廊を過ぎ、中庭へと出る。
「んんー!今日は温かいね。」
そう言って、背を伸ばす彼女に自分の上着を羽織らせる。
「ですが、まだ肌寒いですから。これを羽織っていてください。」
「ありがとう、ハル。ハルの、匂いがする。」
嬉しそうに、その上着を抱き寄せ姉さんが呟く。
やめてほしい。そんなことをされたら、僕は思い違いをしてしまうから。
いたたまれず視線を彷徨わせる。
そよりと姉さんの一すじ垂らした髪を掬う風に誘われ、風のやってきた方向へと目を向けると端に少しだけ白い光を残した瑠璃色の空に細い糸のような下弦の月と、無数の星が瞬いていた。
一筋の、光が流れていく。
あっ、と姉さんが小さく声を上げた。
「流れ星。」
──あ、流れ星。
あの日にも、同じセリフを聞いたな、と思い出す。
いくつもの星が、次々と流れていくのを二人で見上げた夜。
流星群ね、と姉さんは言った。
『願い事、かけ放題だね。』
そう言われて、僕はいくつも流れていく星にたった一つの願いごとを繰り返し繰り返し、馬鹿の一つ覚えのように唱えた。
数十、数百と流れた星にかけたたった一つの願い。
……それは、どうにも叶いそうにない。
**********
その日は僕の13歳の誕生日前日だった。
「ハルディン様。」
入ったばかりの使用人に声をかけられて僕は足を止める。
「お客様なんです、少しよろしいですか。」
よく知りもしないのにこんなことを言うのは失礼だろうが、なんとなく僕は彼が好きになれなそうだった。乱雑な所作と、声色にもどこか馬鹿にするような悪意が混じる。僕が悪意に敏感すぎるのかもしれない。
「僕にですか?」
「そうですよ。」
言いながら、ぷいっと踵を返していく。
偉そうにするつもりは決してないが、それでも彼の行動はさすがに失礼だと少しむっとする。
だが、大人しくその彼の後をついていく。応接室にたどり着くと、彼はノックして自身が先にその部屋へと入って、そのお客だという相手に声をかける。
なんなんだ、こいつ。
彼の失礼すぎる態度に、呆気にとられつつも僕はドアを閉じてそのお客という方の元へと向かう。若い使用人の影に隠れて相手の姿が見えずにいたが、一先ず挨拶をする。
「こんにちは。ハルディン=ウェストリンドと申します。」
軽く下げた視線を上げたその先は、僕が一生涯思い出したくないと思っていた悪夢の姿だった。
「久しぶりね、ハルディン。」
枯れ木のように細い女がそこに立っていた。体が記憶した痛みに、反射的にびくりと跳ねた。
その見下すような笑みに、黴の匂いと、背を鞭で打たれて流れた血の錆び臭い匂いが、立ち昇る。
真っ暗な牢屋のような部屋で、ただただ身を縮めたあの頃へと、返ってしまう。
「……なんで、貴方が、」
声が震えて、膜の向こうのように遠くに聞こえた。
「ふふ。ちょっとお願いがあってきたのよ。ありがと、もういいわ、下がって。はい、お駄賃ね。」
そう言って、あの使用人に数枚のお札を渡して彼は卑しい笑顔を浮かべた後でさっとその札を手に取って下がっていく。
僕はそこから動けなかった。頭も回らず足の力が抜けて、ただ茫然と突っ立っていた。
「ねぇ、ハルディン。お金を都合してくれないかしら。うちの子がちょっと投資に失敗しちゃって。」
コツリ、と高いヒールを鳴らして僕の義母だった人間が近寄る。
毒花のように気持ちが悪くなるほど強い化粧の匂いが、鼻をさす。
「貴方、この侯爵家を継ぐんでしょう?すごいわ。ね、ちょっとでいいのよ?500万ギリーくらい。それくらいなら、お金回せるでしょう?」
それはとてもちょっとと言える額ではなかった。
「……無理、です。それに、この家を継ぐのは、僕ではありません……。」
「まぁ、そんないけずなことを言わないで。育て親に、それはないでしょう?それに知っているのよ?ウェストリンド侯爵が貴方を大切にしていること。貴方が言えば、それくらいぽんと出してくれるでしょう?」
……なにを、言っているんだろうかこの人は?
ふらついて、一歩後退る。
「ねぇ。」
手を伸ばされて、更に一歩後退る。
「あら?まぁ、貴方、かっこよくなったわね。」
壁に追いつめられた僕に、彼女が体を寄せる。目線が僕と同じ高さにあって、目を逸らしたいのに恐怖でできなかった。
身体が、震えている。
するり、とその手が僕の腕を上から下へと撫ぜる。
ざぁっと血の気が一気に引いていく音がした。
手をぎゅっと握られて、振り払いたいのに身体が言うことをきかない。
鳥肌が立って、かちかちと歯が鳴る音が耳に大きく響く。
「ふふ。ねぇ。本当にちょっとでいいのよ?」
僕の手の指に自身のそれ絡ませて、その女が媚びた声で言う。
女の枝のような指が、胸元撫で、その後に首筋、髪、額、頬、そして唇へと這っていく。
「お父様の若い頃にそっくりね。今の貴方なら、私可愛がれそうだわ。」
耳元で、そう囁かれて僕は気持ち悪さに吐きそうになった。
いやだいやだいやだ!
気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い……!
心の中で拒絶しているのに、侯爵家に引き取られる前のあの義母や義兄弟たちの悪意に晒され、おどけながら冗談めかして行われた、死にたいと願いたくなる数々の加虐が脳裏に蘇ってきて、僕は呼吸ができずに目の前が真っ暗になっていく。
バタンッ!!
勢いよく開かれる扉の音がして、僕の目は吸い寄せられるようにその音の方へと向いた。
そこに在る姉さんの姿が、まるで救いの女神のように見えた。
姉の凛とした姿に意識が戻っていき、はっ、と止めていた息を意図せず吐き出されて、それに次いで弱々しく空気が肺に入っていく。
つかつかつか、と足音をたて近寄り、姉さんは憤怒の形相で僕から目の前の女をはぎ取り、女の体をどんと突き飛ばした。
「な、なんなの、貴方!?なんの分際で、」
「黙りなさい、」
姉さんは、女から僕を隠すようにその背に庇う。その目には、どこにそんな激情が隠されていたんだろうというほど、強い憎悪の色が宿っていた。一瞬、気圧されたけれど女は立ち上がって、醜くはっと鼻で嗤って声を荒げる。
「小娘っ!私がだれかわかっていて!?ガーナード伯爵夫人で、」
「私は『黙れ』、と言ったのよ。」
女がヒステリックに喚くのを、姉さんが小さいが鋭い口調で一喝する。その声は怒りをなんとか抑え込むように震え、静かなのに抗うことのできない響きだった。
姉さんは、僕の手首を掴んだ左手と背に回された右手に力を込めて僕を離さないように背中に納める。僕は気がつくと、その温かな背にひしりと縋りついて、はっ、はっと荒い息を繰り返す。
姉さん、姉さん、姉さん。
ぎゅうとその背を握りしめると、姉さんのドレスにくしゃくしゃに皺が寄った。大きく震える僕を、強く強く姉さんが力を入れて背に抱き寄せる。
「……分際?このウェストリンド侯爵家が嫡女、エレナ=ウェストリンドの分際で、よ。わかったら、お下がりなさい……」
その言葉で人を刺せるんじゃないか、と思うほど冷たい姉さんの声が聞こえた。数秒の後に、姉さんがもう一度叩きつけるように言葉を連ねる。
「……聞こえなかったのかしら、ガーナード、伯爵夫人?」
普段は階級をちらつかせるような真似をしない彼女が、自身の侯爵家を強く意識させるように強調して言葉を吐く。
「ねぇ、この私が、『下がれ』と言っているのよ……?もしかして、貴方、このウェストリンド侯爵家を馬鹿にしていらっしゃるのかしら……?」
威圧的なその声に押されたのか、カツカツカン、ドスン、と女が下がって座り込むような音がした。
「ガーナード伯爵夫人。私ね、貴方を罰するために神様がここに転生させてくれたんじゃないかしらって思うのよ。よくも、私の大切なハルにあんな真似してくれたわね……?」
声に感情が乗っていないのが、余計に怖かった。
「ねぇ、どうしたい?どう死にたい?毒杯を煽る?首を吊る?そんな簡単ではハルへの贖罪にはならないよね?貴方の手足の指を一本ずつ切る?それとも、剣でめった刺しかしら……?本当なら、貴方の大切にする子供たちもろとも死……」
姉さんが、無感情に呪いの言葉を吐くのに、僕は怖くなってぎゅっと後ろから彼女を抱きしめる。
「姉さんっ!!」
「……ハル。」
優しくて甘い声が僕へと向けられる。いつもの、その声に安堵の涙が浮かんだ。
「ハル……、ハル……!ごめんね……!」
姉さんが僕に柔らかな声色でそう伝え、数秒だけ、ぎゅうと力強く抱きしめてから離し、くしゃりと髪を撫でる。
「オーウェン!」
いつの間にか、家令のオーウェンが側に来て控えていた。
「ハルをここから連れて出てて。」
「ですが……、」
言い澱むオーウェンに、姉さんが厳しい目を向けた。
「オーウェン、私は貴方にも腹を立てているのよ。私の許可なく、ガーナード伯爵家の者をハルに近づけるな、と言わなかったかしら。貴方、いつの間にそんな仕事もまともにできない子になったの?」
「っ、申し訳ございません!」
底冷えのする声と刺々しい言葉に、僕は口をはさむ。
「違うんだよ、姉さん。ここに案内したのは、オーウェンじゃない。」
「いえ、ハルディン様、使用人への徹底、それも含めて私の責任です。ハルディン様、大変申し訳ございませんでした。」
深々とオーウェンが頭を下げる。オーウェンに怒られることはあっても、こんな謝られたのは初めてでどうしていいのかわからずオロオロとして姉さんを見ると、彼女は眉を下げてはぁ、とため息を吐く。
「……ごめんなさい、オーウェン。ちょっと気が立っていたわ。」
「いえ、当然の叱責です。」
「ひとまず、すぐにハルを休ませてあげて。そうね、今ならアランが母様とお茶をしている頃よ。そこで一緒に温かいお茶と甘いものをハルに。お茶はリラックスできるものよ、お菓子はなるべくハルが好きなもの。いい、一人にはさせないで。温かいものが今のハルには必要なの。」
念を押されて、オーウェンが畏まりましたと深々と頭を下げる。
「ハル。アランとお茶してあげて。今日はまだ兄さまと会ってないなんて寂しがっていたんだから。」
オーウェンに向かって見せた厳しい顔を綻ばせたが、上辺ばかりの笑顔だとわかる取り繕った顔で姉さんがそう言う。
「でも、姉さん、」
ちらり、と姉さんの後ろにいるだろう女を見ようとしたが、彼女が僕の目をそっと手で覆う。そんなもの、見なくていいのよ、ハル、と小さく彼女が呟く。
「大丈夫よ。オーウェン、お願いね。」
「はい。さぁ、ハルディン様。どうぞごちらへ。」
後ろ髪をひかれる思いで、姉さんを見るが彼女はにっこりといつものように優しく笑う。
けれど、扉が閉まる一瞬、隙間から覗いたのは、目を吊り上げ、冷たく鋭利な目をして女の方を振り向く見たことのない姉さんだった。優しい姉さんの面影はなく、まるで異国のひどく美しい鬼神と聞く、夜叉のようだと思った。
──バタン
「オーウェン、姉さんとあの人を二人にするなんて……」
「心配は要りません、ハルディン様。一応、護衛に控えさせていますが。……エレナお嬢様は大丈夫です。あのお方こそ、ウェストリンド侯爵家の至宝、私たちのお仕えする唯一無二のお嬢様。」
そう、心酔した瞳でオーウェンが言う。
「清く正しく美しいだけではない。鋼のようにお強く、柳のように嫋やか、春の日差しのように温かく、烈火のごとき愛を内に秘める、不可侵なお方。その、エレナお嬢様の大切な宝物を壊してしまうところでした。貴方を案内した使用人は今拘束しています。素行が悪いとは思ってはいたのですが、紹介先が王家に繋がる家系の方でしたので、すぐに辞めさせることができずに、ハルディン様には大変なご迷惑をお掛けしました。改めて、謝罪を。大変、申し訳ございませんでした。」
「そんな!大丈夫だから!頭をあげて!」
そうお願いするが、たっぷり1分以上オーウェンは頭を下げ続けた。
「……オーウェン、大丈夫だよ。だって、姉さんが助けてくれたもの。」
そう言うと、そうっとオーウェンが頭を上げ静かに微笑む。
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