3.『蒲公英占い』
「ハルディン様、」
そう声をかけられて意識をメアリに移すと、彼女はまっすぐに僕を見据えていた。
「本日は、お嬢様をお願いいたします。」
深く頭を垂れる。
「……もちろん。」
そう答えると、なにか含むような視線を寄こしたもののメアリは軽く微笑んだだけでその後はなにも言わなかった
「アラン様、今日は皆さまお忙しいので行きましょうね。」
「ええー!ぼくもパーティー行きたい!だって姉さまの大切な日なんでしょう?お祝いしたい!」
駄々をこねるアランを可愛く思いながら、僕は膝をついて彼の目線に合わせていたずらっぽく笑う。そして、周りを気にした風を装い、彼の耳元に口を寄せて、こっそり話す。
「あのね、お祝いは、今度アランと僕で一緒にしよう。姉さんには内緒で、色々考えて驚かせてあげないかい?」
ひそひそと話した僕に合わせて、彼はさも特別なことのように、こっそりと声を落として話す。
「姉さまを、驚かせるの?」
「そう、こっそり準備して、びっくりさせて喜んでもらうのは、どう?きっと姉さんはすごく喜んでくれる。そういうのが、お好きだもの。でも、これは絶対にばれちゃいけない。計画が重要なんだ。その、計画をたてるのをお願いしてもいい?姉さんはどんなケーキがお好きか、どんなお花をあげたら喜ぶか、考えられる?家令のオーウェンや庭師のジルやメアリと相談しながらね。これは責任ある重要な役目だよ。一つのパーティーを取り仕切るんだもの。アランに、できるかな?」
そう言うと彼は目を輝かせてこくこくと頷いた。
「できる!こっそり、だね。姉さまに喜んでもらえるパーティー、考える!」
こっそりと言うには、姉さんの部屋の前で大きな声になってしまったけど、それでもアランが嬉しそうなのを見て僕はほのぼのする。
「うん。じゃあ任せる。姉さんには、内緒だよ。絶対にばれてはだめ。」
「わかった!ぜったい、ないしょ!どうしよう、どうしよう。なにからやろう。」
「まずはオーウェンに姉様の日程を聞いて、スケジュールを立てようか。」
「わかった。ぼく、忙しいから、兄さま、またね!」
そう言って彼が廊下を駆けていくのを、メアリが一礼した後で追いかけていく。
微笑ましくて走っていくアランの背を目で追いかけていたが、廊下を曲がり姿が見えなくなったところで懐中時計で時間を確かめ、窓を閉める。
あのお花見からずっと、その扉の前に立つと、覗かせる彼女の朗らかな笑顔を思い描きワクワクした。
ノックして姉さん準備はできた?そう声をかける、それだけのことだ。
いつものように、顔を覗かせるだろう姉さんを想像する。
『──ハル、』
甘やかに僕の名を呼ぶ彼女は、殿下と揃いのドレスをそのしなやかな肢体に纏って、微笑んでいる。
脳裏に浮かんだ姉の姿に、ちり、と胸に熱い痛みが走り、喉元にせり上がった灰色の感情を押さえつけるように手で自分の首を軽く押さえる。
顔を覗かせる要らない感情を飲み込み、平静を装って今度こそ、姉さんの部屋の扉の前に立つ。
すると、こちらが手を上げるタイミングでその扉が勢いよく開かれて、思い切り手を打った。
「え?ハル!?ちょっと、大丈夫?」
じんじんと痛む手の甲を左手で押さえて、大丈夫、そう言おうとして息を飲む。
ここに来た当初は見上げていた姉さんの顔が、眼下に見えた。
その少しつり上がった大きな瞳に映しだされた僕が、目を見開いて姉さんを凝視しているのが見えた。
見慣れているはずなのに、美しさに心奪われてしばらく呆然としてしまう。
「「……。」」
そんな僕をきょとんとして姉さんも見ていた。互いに向き合い無言のまま、時間が過ぎていく。
はっ、としたのはほとんど同時だった。二人してふいと視線を互いから外すと、気まずさを誤魔化すために小さく咳をする。
「姉さん、」
「はい!」
そうびしっと敬礼の姿勢で勢いよく返事されて、僕は思わずなぜなんだろうなとちょっとだけ、困ってしまう。
「エレナ姉さん?大丈夫?」
「……あ、うん、大丈夫だよ、ハル。」
もう一度、声をかけると姉さんは我に返ったように敬礼していた手を下ろして後ろに回す。
僕の耳に入る彼女の僕を呼ぶ声は、いつだって優しくて、甘い。
「お迎えにあがりましたよ。」
そう言ってやや大袈裟な動作で恭しく礼をすると彼女がふふと笑う。
「きれいですよ、姉さん。」
そう言うと、彼女は一拍置いた後でその白い頬を桃花色に染めていく。
昔から褒め言葉に弱い彼女は言われ慣れているだろうそんな言葉にすぐに照れてしまうのだ。こんなに簡単だと、弟としては心配でならないんだけど。
「ハルも、すごくかっこいい。素敵よ。」
落ち着いた声音が、本心からの褒め言葉だとわかる。姉さんからの賛辞が嬉しくて、でも照れくさくて視線を彷徨わせる。
「でも、最近、寝られている?ここのところ、やつれて、顔も険しいけど。」
姉さんの手が僕の頬をするりと撫ぜる。
「大丈夫ですよ。必要な時間は寝ています。……怖がらせてしまいましたか?」
顔が険しくなっているのは、自分でも気がついていた。横になっても眠れずにいる。眠りを妨げている感情を焦燥と呼ぶのは気がついていた。けれど、なぜそんな感情に振り回されているのかは、わからないふりをする。
「ううん、怖くなんてないよ。かっこいいよ。つい最近まで男の子だなぁって感じだったのに、いつの間にか男の人になっちゃったね。背が伸びたりしただけじゃないわ。逞しくなったし、洗練された振る舞いも細やかな気遣いも、ここに来たときから天使のように可愛かったけど、最近はなんだか色気が増したというか。うん、ますます素敵になったわ。姉として本当に鼻が高い。」
かっこいい……?
男の人……?
色気……?
素敵……?
姉さんから見ても、僕は、そう見えるってこと?
別に、僕は姉さんと違って褒め言葉に弱いわけではない。けど、ずっと可愛いと言われ続けた姉さんにそう言われたのがひどく嬉しくて、思わず赤面してしまう。
天使というならむしろ貴方の方だろう、なんて甘く浮ついた気持ちのままいつもの調子で彼女へと手を伸ばす。
「……シルビアへの」
俯き零すその声がひどく冷たくて、伸ばしかけた手をぴたり、と宙で留める。
「……恋心が、貴方をより魅力的にしているのかしらね。」
ぽつりと零すような言葉を耳にして、ぎゅうと手を握り、下ろす。
シルビア嬢は、同じ学園に通うご令嬢だ。殿下が気にされていると噂になった人。別に、僕は彼女のことなんてなんとも思っていない。けど、貴方のために……。
冷たくなった心の中で紡ごうとした言葉をぐっと堪える
聞こえなかったふりをして、僕は姉さんに作り笑顔をする。
「僕も、姉さんのことが誇らしいです。賢く、美しくて、本当に……殿下とお似合いだ。」
感情が乗らないよう気を付けそう言うと、姉さんの肩が小さく揺れた気がした。
けれど、顔を上げた彼女はいつも通りに優しく微笑んでいて思わず僕は視線を逸らす。
「時間もいいですし、そろそろ出ましょうか。」
「ええ。上着を羽織ってくるわ。先に下に下りていて。」
いつも通りに美しく微笑んだ彼女は部屋の中へと戻っていく。
ぱたり、と閉じられた扉へと手を伸ばして、そっと触れてみたけれど手は滑って落ちていった。
その場に漂う姉さんの甘い残り香。
それが、ただただ、ほろ苦い。
**********
「湿った土の匂い、と沈丁花かしら。そうか、もう、春なのね。」
馬車に乗る前に、姉さんがにわか雨に振られてキラキラと輝く美しい庭を見回してそう呟く。雨上がりに、湿った土の香りに混じり目に見える範囲にはないはずの沈丁花の香りがひと際強く庭に漂う。
姉さんは色鮮やかになった庭を見てから僕に視線を移して微笑んで、
「私、」
──春が好きよ、
そう、優しく呟く。
……季節の、話だ。
「……いい季節ですものね。」
「……ええ。ん、」
「どうされました?」
「なにか、目についた。」
「見せてください。本当だ。だめですよ、こすっては。ほら、目を瞑ってください。」
こすりそうになる姉さんの手をとどめて、目を瞑るよう促す。
睫毛に、風に飛ばされてきた蒲公英の綿毛がくっついてふわふわと揺れていた。身じろぎする彼女の頬を両手で挟み込んで、
「じっとして。」
と咎め、揺れる綿毛に、そっと手を伸ばした。
あれはいつだったか、蒲公英の綿毛を吹き飛ばす姉さんを思い出す。
心地の良い風が吹くちょうど今時期だったはずだ。
黄色いくちばしをした小鳥が淡い青空を滑空して、木の枝へと止まり高い声で鳴いていた。
メアリに黙って、こっそりお気に入りの木の根元で僕らは遊んでいた。
姉さんはその頃、蒲公英占いをよくしていた。すき、きらい、を唱えながら蒲公英の綿毛を飛ばしていき、最後にどちらになるのかという恋占いだ。一度で吹き飛ばせれば『とても愛されている』らしい。
何度も、必死で綿毛を吹き飛ばしては一喜一憂していた。
僕はと言えば、貴方の側にくっついて持ってきた本もそっちのけで、その様子をぼんやりと見ていた。飛んでいく綿毛は、頼りなく、けれど木陰から風の力を借りて遠くへと運ばれていった。
ひっついた背中から伝わる温かさに眠たくなると、貴方は僕の頭を膝に乗せてくれた。
見上げた貴方は、木漏れ日の中で愛おしそうに僕を見つめていた。春の柔らかな光がまるで、天使の羽のように見えて僕はああ、やっぱり姉さんは天使なんだ、なんて思った。
姉さんが、小さく子守歌を歌う。
記憶の奥底の、本当の母様がそうして歌ってくれたときの、温かな気持ちが体の底をたゆたう。
その小さな手でぽん、ぽん、とゆっくりと背を叩いてくれたのが心地よくて、うつらうつらと微睡んだ。
ただ幸せだった。
貴方が傍にいてくれて、僕に向けて微笑んでくれる。
それはまるで夢のように完璧な幸福で、ふと怖くなった。
僕は実際にはまだあの前の家にいるんじゃないだろうか。
あの冷たく凍える暗闇の中で、義母や義兄弟たちの悪意に押し負けて目を閉じ作り上げた理想と願望の夢を見ているのではないか。
そう考えたら急に怖くなって、姉さんの膝に縋りついて泣いた。
『どうしたの、嫌な夢でも見たの?』
そう言って、貴方は急に泣きだした僕をぎゅうと抱きしめてくれた。その温かな体温が、夢ではないと教えてくれる。
泣きじゃくる理由を尋ねる彼女に、僕は何も言わずに首を振る。
『幸せすぎて夢みたいだ。』
そう言葉にしたら、きっとこの夢から覚めてしまう。
聞くのを諦めた彼女は、ただ腕の中に僕を抱き、落ち着くのを待ってくれた。僕は彼女の腕の温もりの中でいつまでもこうしていたいと願った。
泣いて汗ばんだ、髪を切ったばかりの首元をなぞる柔らかい風、その風に揺られた木々がざわつき、木漏れ日がさす。姉さんの体は少し熱くて、でも撫でた手先はひんやりとしていて気持ちよかった。
小さく甘やかすように歌う子守歌、漂う花と草木の淡く清々しい香り、髪をすく優しい手の動き、そして蕩けるような笑顔。すべてが宝物となり、僕は心の中に大切にしまった。
そして、泣きじゃくった僕が言う戯言に、貴方は小指を絡ませ安心させるように約束だと言ってくれた。
『ずっと、一緒にいて。』
『ええ、ずっと一緒にいるわ。約束する。』
その言葉に安心して泣き止んだ僕に、貴方はシロツメ草を使って王冠を編んでそっと頭に乗せてくれた。王子様ね、そう微笑んで。
僕は蒲公英で作った歪な指輪を貴方の薬指に嵌めて、じゃあ姉さんはお姫様だね、と言った。
**********
瞑ったままの姉さんの、キスをせがむような顔を見ながら無意識にその艶やかな唇に指を伸ばす。
「……とれた?」
触れそうになった唇が小さく動いて、はっとした。
「……とれましたよ。蒲公英の綿毛でした。」
とったその綿毛をふっと吹き飛ばす。
「ありがとう、ハル。」
その屈託のない笑顔が、一生懸命に蒲公英の綿毛を飛ばし、うまくいったときに笑った小さな姉が重なった。
ふと、あの日絡めた小指を見る。
いつか姉さん、貴方が教えてくれた運命の赤い糸とやらがあるなら、それはどこへとつながるのだろう。
目を凝らしてみたけどそんなものはなくて、見ようとした自分に苦笑する。
ふわふわとゆっくり飛んでいく、頼りない綿毛を眺める。
──ねぇ、姉さん。
──あの日、貴方は誰を想って綿毛を飛ばしていたんですか?
──今でも、あの時の約束を、覚えていますか……?
お読みいただきありがとうございます!