2.『花見』
お花見がしたい、と最初に姉さんが言い出したのは僕がこの家に引き取られてすぐの頃だった。
麗らかな昼下がり、草木が芽吹く庭を見ながら団欒の席で彼女は言った。
「花見といえば、無礼講、よね……。」
『ハナミ』も『ブレイコー』も知らずにいた僕は自身の無知を恥じて俯いた。
けど、『教えてもらえていなくても知っていて当然』、それが以前僕のいた家の常識であり、『教えてもらっていない』、なんて言い訳が通じる世界は知らなかった。
だから、僕はそれは何ですか?なんて言えなくて、姉さんの発言にぎゅうと唇を噛む。
もしなにか聞かれたら、どう答えたらいいんだろう。
知らないって言ったら怒られる。きっと、叩かれる。
強く瞑った真っ黒な目の奥で、痛みとヒステリックな高い声が蘇り呼吸が苦しくなる。
けれど、僕が答えなくてもこの家に引き取られるときに『父様』と呼んでくれと優しい瞳で言ってくれたウェストリンド侯爵が、
「花見、とは、花を愛でるの意味の花見なのだろうか。花を愛でながらするお茶会とはなにか違うのかい?そしてブレイコーとはなんなのだ?」
そう言って、エレナ様に困ったような視線を向けた。
僕はえ?と思いながら目だけで周りを見回すと、ウェストリンド侯爵だけではなく、その奥方様も、家令もメイドたちもエレナ様を見てぽかんとしていた。どうやら分からなかったのは、僕だけではなかったらしい。
にやり、とエレナ様がいたずらっぽく笑うと、周りがざわついた。
「エレナ……?またなにか企んでいるのかい?」
ウェストリンド侯爵が皆の気持ちを代弁したようで、周りも緊張した面持ちでエレナ様を注視していた。
「あら。失礼な。いつでもなにか企んでいるみたいな言い方はやめてくださいな。せっかくできた可愛い弟に誤解されてしまうではないですか!」
「ふぅ。エレナ、『身から出た錆』!……という言葉を君に贈ろう。」
一息つき、かっと目を見開き鋭く投げつけられたウェストリンド侯爵の言葉に、エレナ様は明後日の方向を向いてこほん、と咳ばらいをする。
「……いいですか、私は生まれ変わります。今までのいたずらっ子ではありません、清く正しく美しい、ハルディンのお姉ちゃんになってみせます。というわけで、お花見です。大丈夫、もう準備は庭師のジルと料理長のセダンとメイドのメアリに手伝ってもらって出来ているのです。少々お父様の権力を使いました。メアリ!」
「はい!って、これお館様の指示だって言っていたじゃないですか、嘘だったんですか!?」
メアリと呼ばれたメイドが、扉を開けて登場するやいなや目を吊り上げてエレナ様に詰め寄る。
「嘘よ。」
だが、そんなことエレナ様は意を介した風もなく、にやありと先ほどよりもっと腹黒そうなダーティーな笑みを浮かべた。そんなエレナ様に、僕は怖くなって椅子の上で身じろいで気持ち彼女から距離を取る。すると、途端にエレナ様がこの世の終わりみたいな真っ青な顔をして、そして泣きそうに顔を歪ませた。
な、なんかごめんなさい。
「エレナ、お前、企みまくっている上に、すでに清くも正しくもないじゃないか……。」
はぁぁぁ、とウェストリンド侯爵が重たい溜息を吐く。
「とにかく、今日は絶好のお花見日和ですわ。庭でみんなでお花見しましょう。」
元気いっぱいに片手をあげたエレナ様を見て、どうするんだろうなんて思っていたけれどウェストリンド侯爵も奥方様も、他のみんなもどこか諦めた様子で彼女の言うことに従っていた。
どうやら、誰よりも偉いはずの侯爵閣下であらせられる父様はエレナ様には弱いらしい、と僕は学んだ。
エレナ様は、身分社会が根付いたこの国にあって『ブレイコー』という新たな概念を要求した。
つまりは、身分関係なく花の木を取り囲み、その下でシートを敷いて座り花を愛でながら飲み食いするというお茶会らしきもの?をしたいらしい。使用人たちも巻き込んだ身近にできるピクニックのようなもの、なのだろうか。
けれど、貴族と言っても名ばかりの僕だろうと、それが貴族の令嬢としてありえない発想のものだろうというのはわかった。
……なんか、エレナ様って、ちょっと変わった方みたいだ。
そう心の中で思った。
使用人たちは恐縮していたが、『ブレイコー』が徹底されウェストリンド侯爵も奥方様も関係なく、敷かれたシートの上に放り出されていた。
そして、次々と謀られた使用人たちが庭へと集まってきては『またエレナ様に騙された……』と呟きながらも、ちょっと嬉しそうに巻き込まれていった。
お花見という宴はいたずらっことして名を馳せていたエレナ様が考えた謎の催しだったためか、いつことが起こるのかと使用人たちは戦々恐々とし、不穏な空気の中に始まった。だが、いつまでたってもなにも起こらず、平和なものだとわかってくると皆ほっとして次第に寛いでいった。料理長さんが作ってくれた美味しい軽食やお菓子を食べお茶を飲み、いつのまにやら大人たちはお酒を傾け和やかに進んだ。
僕はその空気にすぐには馴染めず、陰から新たに家族となる彼女たちをこっそり観察していた。
怖い人たちではない、とはわかっていた。けど、僕は前の家のことがあって、すぐに心を許すことはできなかった。
その日、僕はいくつも驚いた。
見下すような笑顔をする人がいない。冷たい言葉を言う人がいない。ジュースをこぼすような失態を冒しても母様となる人から大丈夫よ、と優しく笑顔で許してもらえる。穏やかな空気が流れ、あちこちで笑顔の花が咲く。
……なんだろう、ここは。
そう思った。前の冷たく乾ききった家と違いすぎて呆然としていた。だから、
「すみっこが好きなのね、ハルは。」
そうエレナ様に、すぐ後ろから声をかけられたときは肩が跳ねた。
「エレナ様!え、え、ハル?」
「ハルディンだからハル。愛称で呼ばれるのは嫌かな?」
ぶんぶんと首を振る。
「愛称でなんて呼ばれたことがなくて驚いただけで、嫌とかじゃ、ありません。」
「よかった。ハル、一緒にお菓子食べよう。」
山盛りのお菓子の乗ったお皿を出されて、僕はおずおずと手を伸ばす。
彼女はにっこりと笑って、使用人たちの紹介や面白いエピソードをたくさん話して聞かせてくれた。
「……あの。エレナ様。」
エレナ様は、最初から変な人だった。初対面で、彼女は泣きながら、『ごめんなさい、遅くなってごめんなさい』と、そう言いながら僕を抱きしめた。
初め、僕なんかに触れることに驚いた。だって、僕は汚いし臭かったから。貴族とは思えないどころか、もっとひどい恰好をしているのは、自分でもわかっていた。
なんで泣いているのか、謝っているのか全く分からなかった。けれど、前の家でなにか口答えしたり、分からないことを聞くと打たれたので、ここでもそうだろうと僕は聞きたい言葉を飲み込んで、口を利かず彼女の成すがままになっていた。
その様子に、彼女はまた泣いた。
しばらくして『ごめん』と再度謝罪する美しい姉となる人に困惑して、『あの、エレナ様』と名前で呼んだ僕に困ったように、『お姉ちゃんと呼んで』と微笑んだ。けれど、僕は恐れ多くて姉なんて呼べずにいた。
「……なぁに、ハル。」
何度か『様』付けはやめてもらいたいな、と言っていた彼女だが、今日は何も言わずに悲し気ではあったが、ただ優しい声色で僕の名を呼ぶ。
「僕みたいなやつが急にお……、家族とか、嫌じゃないですか。」
弟とか、と言おうとしたのを濁して聞くが、それすら後悔した。そんなの嫌に決まっているじゃないか。顔を歪ませる彼女を想像して僕はぎゅうと力を入れて膝を抱える。
「……ハル。」
手を伸ばされて反射的に恐怖でびくりと体が跳ねる。
彼女の手が一瞬止まったけれど、それでも、そっと手を伸ばして彼女が僕の頭を優しく撫でる。
「ハル。」
「……はい。」
「私はハルが弟になってくれるの、すごく嬉しいよ。貴方に会えて、私は今すごく幸せなの。」
一瞬で、頭に血がのぼった。
──嘘つき。そんなの思ってもいない癖に。
なんて失礼なんだと叩かれようと鞭を振るわれようと構わない。それくらいカッとなった。
──何なんだよ、あんた!?泣いて、僕に同情したふりして。そんなに僕は可哀相なのかよ!?
手を強く握って怒りのまま顔を上げると、じっと僕を見つめる彼女の真剣な目とぶつかって勢いに任せて言おうとした彼女をなじる言葉を失う。
彼女の偽りも惑いもない、春の青空をそのまま映したかのような透き通った瞳が僕をまっすぐ見据える。まるで、僕の気持ちを見誤らないように、そして、彼女の真意が僕にちゃんと伝われと願っているかのように。
「……本当に?」
信じられないけど、信じてみたくてそう尋ねると、彼女は頬を紅潮させて、本当に嬉しそうに微笑んだ。
「本当だよ。ハルに会えて、嬉しい。こんな素敵な弟ができたことを、誇りに思う。私こそハルのお姉ちゃんに相応しくなれるか心配だよ。見ててね、立派なお姉ちゃんになってみせるよ!」
そう握りこぶしを作る。
『会えて嬉しい』とか『誇りだ』とかそんな言葉は、僕に向けられるには大層すぎてすんなりとは飲み込めなかった。
けど、彼女のまっすぐな瞳と僕に対して誠実であろうとする気持ちが、ぽっかりと空いていた心の中にすとんと入ってきて、どうしていいのかわからなくなる。
「あ、」
自然と口から零れそうになった“ありがとう”の言葉を紡ごうとして目線を上げると、エレナ様の後ろに笑顔なのに目が笑っていないメイドのメアリの姿が見えて後ずさる。
「エレナお嬢様、それはとても立派な志ですわ。ところで。このお菓子はエレナお嬢様の手作りだそうですわね。」
「あら、メアリ。ええ。ロシアンルーレットクッキーね。一個だけ激辛唐辛子入りなの。」
「ええ、ええ。激辛でしたよ。今も口の中がひりひりしていますよ。」
「まぁ、メアリ!すごいラッキーよ、大当たりだわ!きっといいことあるわよ!」
「大当たり、ではありません!こんないたずらして!」
「ハル。そのクッキーは私の手作りなの。もう激辛はないから安心して食べてね~!」
「あ!こら待ちなさい、お嬢様!」
そう言いながら、姉となる彼女はさっと身を翻して庭の中へと姿を消していきメアリもその背を追いかけていった。
「はは。お嬢様は相変わらずお転婆ですな。」
「あ、えと、」
「庭師のジルと申します。ハルディンお坊ちゃんですね。どうぞよろしくお願いします。」
大きな男の人に声をかけられてうろたえたが、その人は好い笑顔をして深々と頭を下げ、悪い人じゃないと思ってほっとする。
「こちらこそ、よろしくお願いします。」
同じように挨拶をすると、わしに敬語なんていいんですよお坊ちゃん、と彼が頭を掻く。
「エレナお嬢様、今日は一段と張り切っておいでだ。お坊ちゃんが来てくれて嬉しくて仕方がないようですな。」
「そう、かな。」
「ええ。貴方様が来られる前から、弟ができるんだってそりゃあ嬉しそうにあちこちに言って回ってましたからね。来たら一緒に遊ぶからブランコが欲しいって言われたんで庭の端に作ったんですよ。今度お二人で遊んでくださいな。そのクッキーもね、お坊ちゃんにあげたいから教えろって料理長のセダンにせがんでね。初めは真っ黒な炭になっちまっていたんですが、めげずに何度も練習されていましてね。」
僕は手に取った彼女が作ったという、他に比べて形が整っていないクッキーを眺めてから一口食べる。ほろほろとして美味しい。
……これを、わざわざエレナ様が僕のために手ずから作ってくれたの?
ジルが言う言葉に胸がざわついた。
僕は生きているだけでお荷物だって、誰からも愛されないって、ずっと言われてきたのに。
『弟になってくれて嬉しい。』
『貴方に会えて、幸せなの。』
耳に先ほど聞いた彼女の砂糖菓子のように甘い言葉たちがよみがえる。信じたいと思った彼女の言葉を、意図せずにジルが後押ししていく。
「他のお屋敷から来たら、ここは姦しくてびっくりしたんじゃありませんか。」
その質問に、どう答えたらいいのかもわからずにしばらく悩んでいたら、ジルがすいませんな、と笑って話を続けた。
「姦しいといっちまうと、語弊がありますな。ここは明るくて、いいお屋敷です。昔はもっと寂しいお屋敷でした。お館様と奥方様のお二人の仲も、お嬢様が色々手を尽くさなければもっと荒んでいたかもしれません。今はあんな仲睦まじくなられて。エレナお嬢様のおかげで、今はお屋敷全体が温かくて、いい空気が回っている。お嬢様のいたずらはたいていが人を幸せにするいたずらなんですよ。いつの間にか、笑っちまうような。はは。まだメアリが騒いでますな。」
どこからか、お嬢様、出てきなさいーとメアリの大きな声が聞こえてきて、ジルが笑う。
「……お嬢様は型破りなお方だ。わしの手がけた庭をいつも褒めてくださる。わしだけじゃあありやせん。使用人皆に、ありがとうなんて、花が咲くように笑って言ってくださる。ありゃあ、嬉しいもんですな。仕事ですからね、手は抜いたりはしやせんが、小さな工夫も見てくださってお礼も言ってくださると心があったかくなる。あの方のためならもっともっと頑張ろうなんて思っちまう。おや、こんなことお坊ちゃまにお話するようなお話ではなかったですな。すいません。お館様から一杯いただいたのが、きいちまってますね。失礼をいたしました。」
頭を掻いてジルが水をいただいてきます、と言いながら立ち上がる。
「ああ、そうだ。今日のこの突然のいたずらはね、お坊ちゃんが新しい家に緊張しているようだから、きれいな花を見て少しでも心を解してもらいたいってお嬢様の心配りなんですよ。」
去り際にジルがそう言い、ぺこりと頭を下げてから春の光の下へと歩いていく。
僕は視線を落とし、エレナ様が持ってきたお菓子の山から不格好なクッキーをもう一つ取り、齧る。
ほろり、ほろり。口の中で、溶けていく。
甘くて、優しい、味。
もう一口、齧る。
初めは焦げていたなんて思えないし、形はともかく、料理長が作ったと言われても信じるくらいに美味しかった。齧っていると、鼻の奥がつんとしてきてなんだか甘くておいしいのに、どこか苦くて胸が詰まる、不思議な味になった。
……きっと、僕は一生この味を覚えているんだろうな。
そう、思った。
それは、僕の期待とか希望ではなくて、なんだかわからないけど絶対のことだった。
昼に太陽があり夜には月があるように。
季節が一年を巡り、必ず花がまた咲くように。
僕の中で当たり前に残り続ける、記憶となるんだと、なんでか確信があった。
皿の片隅に添えられたいくつかの不格好なクッキーが愛おしいと思った。僕はその不格好なクッキーだけは全部食べたくて、お皿から自分の手の中に集めた。
ふと陽の光が目を刺して、空を見上げた。
薄い水色の世界に、ひらりひらりと白い花びらが舞う。
周りの目が僕に向いていないことを確認しながら、躊躇いがちにすうと大きく息を吸い込む。
手に納めたクッキーのバニラの香りと、立ち昇る草木の緑の香りがした。
目を閉じると、耳にみんなの楽しそうな笑い声が響いた。
僕は自分の顔より小さな窓から見える閉ざされた世界がすべてだった。その与えられた部屋の中で、身を縮めて息を潜めてじっとしているしかなかった。
僕が見ていた世界は暗くて、重たくてじめじてしていた。
こんな風に大きく息を吸うことなんてできなかった。
細々吸った空気はいつだって黴臭かった。
僕のことを気にかけてくれる人なんていなかった。
「……ハル、」
まして、こんな風に優しく僕の名を呼んでくれる人なんていなかったんだ。
「ハル、疲れた?大丈夫?」
目を開くと、僕の見える世界が広がり光と優しい色がついていく。
黴の匂いは取り払われ、庭木の爽やかな香りと貴方のつけた甘い香りが僕を包み込む。
「ううん、大丈夫。エレナ……姉さん」
目を開けて、上を向くとエレナ様、いや、姉さんが微笑んでいた。
姉さん、と呼ぶと彼女が一瞬息を吸い込んだ。けど、すぐに破顔したのを見て、姉さんと呼んでしまい本当は怒られたり、怪訝な顔をされるんじゃないかな?なんて思っていた僕は、ほっとする。
あのね、ハル。そう呼ぶ姉さんの、はにかむ顔が可愛い。
「ブランコのりに行かない?ジルがね、あ、ジルって庭師のムキムキマッチョなダンディーなおじさんでね。」
手を取られて、立ち上がる。ムキムキマッチョってなんだろう?聞いても怒らず教えてくれるかなぁ、そんなことを思いながらも、繋いだ手の温もりが嬉しかった。
伸ばした手を取ってくれる人が現れるなんて、少し前の僕には想像もできなかった。少し泣きそうになりながら、僕は彼女の手を握り返す。
駆けていく僕らを、父様も、母様も、使用人たちも皆、眦を下げて微笑ましそうに見ていた。
優しい、人たち。
緊張から解けた僕は、ようやく新たな家族たちの顔をまっすぐに見られた。
ウェストリンド侯爵家は、優しく温かかった。
それは、そこに住む誰もが優しくありたいと願っていたからだ。
優しさや悪意は、いつだって連鎖していく。
そして、感情はオセロのようにひっくり返るときは一瞬で、悪意の方が伝染力が強く、簡単に、早く伝わってしまうことを僕は知っていた。
……でも、いつだってこの家の中心に立つ姉さんは引っくり返せないほど明るくて眩しい、幸せをくれる光だった。
その強い優しさが、この家の宝だった。
僕は誰より身近で、彼女の守る幸せの国にいたのだ。
8年経った今でもすべてが夢なのではないかと、目を閉じるのが怖いときがある。
お読みいただきありがとうございます!