夏目雛小
「夏目雛小が気になるんだけど」
友人の葉木実が突然そんなことを言うので、俺は驚いて一瞬固まった。
「…………春が来た?」
少し考えてそうリアクションすると、実は照れも恥も出すことなく、俺に対して呆れた様に「違う違う」と言って首を振った。
「そうじゃなくて。ほら、彼女って常にポシェット持ってるだろ。あれが気になっててさ」
「だったらポシェットが気になるって言えよ」
紛らわしい。
「いや、彼女と言えばポシェット、ポシェットと言えば彼女だろ? オレの中じゃもうセットなのよ」
「セットって、お前。せめてトレードマークと言えないのか」
そうたしなめたものの、言い得て妙だとも思った。
入学してまだ一ヶ月だが、登校から下校まで常にポシェットを提げている彼女のイメージは、全校生徒に共通の印象を定着させた。
「…………で?」
俺は話の先を促した。
こんな話題を出すからには何かあるんだろう。「うん。オレさ、噂を聞いたんだよね」
「噂?」
「彼女、あのポシェットにお菓子を詰め込んでるらしいって」
真面目な顔で言う実。
……………………。
だからなんだよ。
と、思ったがそれは言わなかった。
「ふぅん、そんな噂があるんだ」
とだけ言って、俺は曖昧に頷いた。
「でもこの噂、本当なのかどうか分からないんだよ」
「いや、だからこその噂なんじゃないのか?」
~らしいよ、とか、~みたいよ、とか、そんな不確定な言葉尻はそうだろう。
あれ? こいつ、そういうの分かってるヤツだったけどな。
どうした?
「そこでだ」
実が一層真剣な顔で言う。
「オレ、彼女をストーキングしてみようと思う 」
「いきなりの犯罪敢行宣言はやめてくれないか」
何言ってんだコイツ。
「オレ、尾行には自信があるんだよね」
「そういう問題じゃないことに気付け」
え? なに? コイツ、バカだったの?
中学からの付き合いだけれど、それなりにコイツのことを知ってるつもりだったのに、俺の中のコイツに対する認識がひっくり返りそうなんだが?
「因みにだけど。その、彼女の噂、確かめてどうするんだ?」
実のことだから、何が目的があるはず。
「オレがお菓子を食べたくなった時、もらいに行く」
ふん、と鼻息一つ噴きドヤ顔で宣う実。
「はい、お前バカ決定」
「なんで!?」
呆れて言った俺に、ぎゃあぎゃあとうるさく言い返す実。
今後、同じ事を話してくるようなら全力で阻止しようと俺は決意した。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
友人の犯罪敢行宣言を聞いてから数日後。
期せずして俺は彼女──夏目雛小がポシェットを持つ理由を知ることになった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
本日最後の授業(化学)を終え、帰宅しようと四階の実験教室を出て外階段に向かったところ。
「うわっ」
その外階段に座り込んでいる生徒がいた。
急に視界に入り込んだその姿に驚いて、一歩後ろに引いた。
その後ろ姿は女子生徒で、踊り場の角に肩から凭れるようにして蹲っていた。
あれ? コイツ…………。
女子生徒が肩から提がっているポシェットに見覚えがあった。
「夏目か?」
そう声を掛けると、ゆるゆるとした動きで彼女は顔を上げる。
「ん……? だ、れ……?」
その顔は真っ青だった。
「え、お前、どうしたんだよ」
駆け寄って、近くで夏目を見る。
「あー……うん、ちょっ、と、きぶ、わるく、て」
唇が、というか顎が震えている。
直感的に危ないと思った。
「おい、保健室行くぞ」
再び項垂れそうになる夏目の頬をぺちぺちと叩いた。
「ほ……け……?」
認識力が落ちてる。
意識がギリギリあるかどうかって感じだ。
ヤバい。
「悪い」
一言だけ詫びて、俺は彼女の脇の下と膝の裏に腕を滑り込ませた。
「よっ……!」
所謂お姫様抱っこだが。
うん? 軽い……?
抱えて走るにはいいけど……ちゃんと食ってんのかコイツ。
そんなことを思いながら保健室に向かって急ぐ。
途中、他の生徒や先生方に見られていたが、緊急事態だ。構ってられない。
保健室に着くと、先生は慌てている俺を見て驚いた。
「先生……っ、おねっ、お願い、します……っ」
「えっ、なに、どうしたの!?」
「なん、か、こい、つ、気分、が、悪い、らしくて」
息を切らしながら伝えると、先生はすぐに対応してくれた。
「ゆっくりベッドに寝かせて」
言われたようにゆっくりと足からベッドに降ろし、頭はそれ以上に気を使って枕にのせた。
「ここは僕がやるから、君は棚にある経口補水液を取ってきて」
指示を受け、先生が指で示した棚から経口補水液とその隣にあったコップを持ってベッドに戻った。
「ありがとう」
そこで礼を言われたものの、経口補水液をコップに注ぐまではやっておく。
「夏目さん、ちょっと身体を起こすよ」
言って先生が彼女の身体をゆっくりと支え起こす。彼女は「ん……」と小さく呻いて少し目を開けた。
「これ、少しずつでいいから飲んで」
先生がコップを手にして、それを彼女の口に近付ける。最初は唇を濡らす程度から始め、次第に彼女が求めるような反応を示すと、先生はコップを彼女に渡した。コップはすぐに空になり、その縁から口を離した彼女はふぅ、と息を吐いた。
「しばらく寝ていなさい。ポシェットは先生が預かっておくから」
「はい……」
おずおずと夏目はポシェットを先生に渡し、それからベッドに身体を沈めて、すぐに寝息を立て始めた。
「…………彼女、熱中症だったんですか?」
彼女を起こさないように小声で先生に訊く。
「ん? あぁ、いや、違うよ」
先生も声量を抑えて応じる。
「え、でもこれ、熱中症の時とかに飲むヤツですよね」
俺は経口補水液を見た。
「それ、熱中症以外にも使えるんだよ。夏目さんの──低血糖症状にもね」
低血糖……症状?
「彼女、病気なんですか?」
「病気というか、その一歩手前というか、うーん、なんというか、まぁ、そういう体質なんだよ」
低血糖を起こしやすい体質っていうのかな──そう言いながら、先生は夏目のポシェットを開ける。
「え、ちょっ──」
俺が止めるのも間に合わず、先生はポシェットの中身をベッドの上にぶちまけた。
真っ白なシーツの上に散らばったのは──大量のお菓子。棒付きキャンディ、スティックキャンディ、コアラの○ーチ、チョコプレッツェル、さくさくパ○ダ、ポケットオレ○…………その他。
ジャンル見境なく甘いものがそこに現れた。
…………噂は本当だったのか…………。
それにしても、チョコプレッツェルとさくさくパ○ダはこの季節、持ち歩くには厳しくないか?
夏だぞ?
「一応、言いつけは守ってたか」
ふむ、と頷いて菓子を眺める先生。
「?」
言いつけ?
「甘いものを携帯しとけって言ってあったんだよ」
俺から疑問の気配を察したのか、先生はそう言った。
「そうだったんだ…………」
だからポシェットを持ち歩いて──
ん?
待てよ?
じゃあなんで低血糖起こしたんだ?
手元に甘いものがあったのに。
「あぁ──これか」
お菓子を眺めて(検品して)いた先生が声を上げた。
見ると一つのお菓子を手にしている。
「スティックキャンディ?」
一粒ずつ包装され、スティック状にパッケージされたキャンディだ。
「これがやらかしたんだな」
はぁ、と溜め息を吐く先生。
どういうこと?
「シュガーレスキャンディ。砂糖を使っていない甘味料の飴だ」
うん?
「低血糖はブドウ糖の不足で起きる。甘味料はブドウ糖じゃない」
「あ」
そういうことか。
合点がいった。
つまり。
低血糖を起こしかけた彼女はこれを食べたが、シュガーレス──甘味料の飴だったのでブドウ糖は補給されず症状が出てしまった、と。
夏目の顔を見る。
さっきよりもその顔色は良くなっている様子に、少し安心した。
「……………………」
にしても。
彼女がポシェット──お菓子を持ち歩いていたのは自分の為だったのか。
己の、体調管理の為。
「君、すまないが少しそこにいてくれるか?」
お菓子をポシェットに入れ直しながら、先生が俺に声を掛ける。
「いいですけど…………先生はどちらに?」
「彼女の親御さんに連絡してくるからその間だけ」
あ、そっか。
「わかりました」
「じゃ、頼むよ。連絡したらすぐに戻るから」
先生は彼女のポシェットをベッドの脇にあるサイドボードに置いてから、保健室を出ていった。
「……………………」
………………………………。
…………………………。
……………………。
……暇だな。
んー…………保健室、物色するか。
何があるのか知ってても損はないだろうし。
そっ、と夏目の傍を離れ、なるべく音が立たないようゆっくりと仕切りのカーテンを引いた。
歩き回ると足音が立つのでその場から室内を見回す。
すぐ目につくのは掲示物。人体のなんやかんや、薬の正しい飲み方、生活習慣病予防などのポスターに、視力検査で使う「C」の羅列(ランドルト環というらしい)。壁に付けるように置かれた低い書棚にはフラットファイルがいくつかと書籍、血圧計などが収められている。
あ。
そういや保健室利用記録、書いてないな。
フラットファイルのひとつにその背表紙を見つけて気付いた。
……書いておくか。
そう思って足を踏み出しかけたとき。
ぴよぴよぴよぴよぴよ。
ヒヨコが鳴いた。
思わずギクリと足が止まる。
な、なに?
ヒヨコ?
耳を澄まして、辺りの気配を探る。
ぴよぴよぴよぴよぴよ。
再び鳴いた。
…………?
鳴いたっていうか……鳴った?
微妙に電子音の感じがする。
もしかしてこれ……。
ぴよぴよぴよぴよぴよ。
「ん……うん……? うー……」
ベッドの上の夏目が動く気配。
探るような衣擦れの音がして、
ぴよぴよぴッ。
「…………もしもし?」
『あっ、もしもし!? ひな!? アンタ今どこにいるのッ!』
「へ?」
『だから! アンタ今どこにいんのよ!』
わぁお。
会話筒抜けでっせ。
「ど、どこって──あ、保健室みたい」
回りを見て察したのかそう答える夏目。
おぅ。
もしかしなくても運ばれた記憶、ない?
…………ってことは。
「あ、待って、誰かいる──」
!?
シャッ
「ひゃあ!?」
俺の姿を認めて、彼女は短く悲鳴を上げる。
「…………………」
まぁ、そうなるわなー。
俺は黙って視線をあらぬ方向へ向けるしかなかった。
「だ、だれ」
「キミを運んだヤツだよ」
そう言うしかなかろうて。
「あっ、そうだ……アタシ、階段で…………」
お。
一応、思い出してくれたか。
「あなたが助けてくれたの?」
「助けたっていうか、運んだだけだよ」
「そ……なん、だ……。ありがとう」
「…………電話、途中みたいだけど、いいの?」
「え? あっ…………」
夏目が慌ててスマホを耳にあてる。
が。
「切れちゃった…………」
困り顔でスマホを見つめる夏目。
「まぁ、また掛かってくるんじゃないか?」
「その前に来ちゃうかも」
ん?
来ちゃう?
「えっと、どうしよ、逃げた方が……」
逃げる?
…………俺、この子がなにをいっているのかわからない。
「逃げるって何から」
と、俺が夏目に説明を求めようとしたとき、遠くからバタバタと荒い足音が聞こえてきて──
バンッ!
勢いよく保健室の引き戸が開けられ、一人の女子生徒かわ飛び込んできた。
「ひなッ!」
その女子生徒は夏目に目掛けて駆け寄ってきた。
そしてそのまま彼女の肩をつかんで詰め寄る。
「さっきの悲鳴なに!? 何があったの!? もしかしてコイツ!? コイツがなにかしたんだね!」
女子生徒は俺を睨んだ。
え?
「ろくちゃん、ちょっと落ち着いて……ッ」
「油断しちゃダメだよ、ひなッ。こんなヤツ、私がなんとかするから!」
んん?
なんとかするって…………なに?
俺が疑問に思ってハテナを頭上に浮かべていると、夏目の友人らしい“ろくちゃん”は夏目から離れて俺に向き直り、構えた。
ひょっとしてこれは…………。
「せっ!」
短い気合いと共に繰り出されたのは正拳突き。
「おぅっ」
反射的に避ける俺。
これは明らかな敵意ですな!
って、逃げるって、このことか!
「ちょっ、ろくちゃん、止めてよ」
夏目が“ろくちゃん”にしがみつくように止めに入った。
「なんで止めるの!? ひな、コイツになんかされたんでしょ!?」
「さっ、されてないされてない! むしろ助けてもらったの!」
夏目がそう叫ぶと、“ろくちゃん”の動きが止まった。
「…………え」
「彼がアタシをここまで運んでくれたらしいの」
夏目が言いながらこちらに視線を寄越すと“ろくちゃん”もこちらを見たので、俺は頷きを返した。
「じゃあ、さっきの悲鳴は?」
「あ……うん、アタシさっき起きたばかりで……カーテン開けたらすぐ傍に彼がいたからびっくりしちゃって」
「そ、そうだったの…………」
「……………………」
「……………………」
沈黙。
…………ふむ、これぞ、気まずい空気。
俺、こういう空気苦手なんだよなー。
無意味な言葉で無為に壊したくなる。
「おいおいおい、ドアは開けたら閉めてくれよなー」
そんな先生の言葉で気まずい空気が壊れた。
開け放されたままの入り口に、いつのまにか先生が立っていた。
先越された…………。
「蜂ヶ谷、お前だろ」
ドアを後ろ手に閉めながら先生が言う。
「だったらなんなの」
「開き直るな、ドアかお前は。次から気を付けろ」
「覚えてたらね」
「かわいくねぇなぁ」
………………………。
なんか、馴れ合いを感じるやりとりだな。
「あ、君、留守番ありがと。夏目さんの親御さんが迎えに来ることになったから帰っても大丈夫だよ」
先生はデスクに就きながら、手に持っていた書類に目を通し始めた。
「わかりました。それじゃ──あ」
帰りかけて、思い出した。
「夏目」
「ん?」
「それ、さ」
俺はポシェットを指し示した。
「賞味期限が迫ったヤツってどうしてんの?」
あれだけの量だ。
一人では消費出来まい。
「あ……えと、ろくちゃんと一緒に放課後に食べてるけど…………」
怪訝そうな顔をしながらも夏目は答えてくれた。
「そっか、ならいいや」
まぁ、二人なら消費しきれるか。
「それがどうかしたの?」
強い口調で訊いてきたのは、ろくちゃん──蜂ヶ谷だ。
「あぁ、いや、ちょっとな──」
うやむやにして帰ろうとも思ったが、蜂ヶ谷の顔が怖かったので、菓子を欲しがってる(実際は狙ってる)友人の話をした。…………もちろん、ストーキングしかけたことは伏せて。
「…………アタシ、いいこと思いついた」
話を聞いて夏目が言う。
「いいことって?」
蜂ヶ谷が夏目を見る。
「うん、あのね、そのお友達──実くんも一緒にお菓子を食べるのはどうかな」
夏目はそう提案した。
「あっ、それいいね! そしたら一人あたりのノルマ、軽くなるし!」
意外にも、蜂ヶ谷は提案に乗ってきた。
「ノルマって…………二人なら食べきれるだろ」
なんでノルマが発生するんだ。
「これだから男子は」
蜂ヶ谷が呆れたように溜め息を吐いた。
言外にバカにされたようだ。
…………解せぬ。
「えーっとね、アタシが持ってるのって、甘い系のお菓子でしょ? その、甘いものって……食べ過ぎちゃうと…………ね?」
あー…………なるほどね。言わんとしてることが分かったわ。
「つまりは太る、と」
「デリカシー!」
ずどすっ
「ごはっ」
脇腹を蜂ヶ谷にやられた。
コイツ…………っ、女子じゃなきゃ殴り返してるとこだぞ……っ。
「ろくちゃんっ! 暴力はダメだよっ。──まぁ、その、そういうことなの」
夏目が蜂ヶ谷をたしなめながら、俺の言葉を肯定した。
「あぁ、うん、分かった…………」
要は一人あたりのノルマ──カロリーを減らしたいわけね。
見たところ二人とも細いし、気にすることないと思うんだけどな。
「それじゃ、菓子食べるときは声かけてな。よし、今度こそ帰るわ。じゃーな」
「うん、バイバイ」
夏目は愛想よく手を振ってくれたが、蜂ヶ谷は俺が保健室を出てドアを閉めるまで、無愛想のままだった。
……ありゃ嫌われたな。