#9
「試験って、具体的には何をするんですか?」
私は動揺を悟られないように、ゆっくりとした調子で質問する。
「簡単よ。私と一緒に釣りをしてもらうの」
先輩は机に頬杖をつきながら言った。その目は油断なく私の反応を探っている。
「魚は何を釣れば?」
「ルアーを中心に活動する同好会にするつもりだから、試験は差し当たりトラウトにしましょ」
私の質問に、先輩はこともなげにそう答えた。
「私の父がやっている管理釣り場で」
そう付け加えて、先輩はニッコリと笑って見せる。
トラウト? トラウトって鱒のことだよね。
克之から聞いた話が思い出される。
ー先輩、お父さんがレインボーの管釣り経営してるんだってー
レインボー、ニジマス。 …ニジマスをルアーで釣るの?
「できるわよね、川原さん?」
できない…。 でもできないとは言えない。
普通の入会希望者ならともかく、私は克之の彼女で、しかも釣りが大好きだと宣言してしまっている。
「分かりました」
私は頭がクラクラしそうになるのを我慢して答えた。
「試験はいつですか?」
「そうね…」
先輩は口元に手をあてて少し考える。
「次の週末は予備校の模試があるから…、再来週の土曜日、川原さん予定空いてる?」
再来週なら、次の土日に克之に教えてもらう余裕がある。
「大丈夫です」
私は少しだけホッとして答えた。
私の返事に先輩も頷く。
「では…」
自分の教室に戻ろうと、私は椅子から立ち上がった。
「川原さん」
先輩が私を呼び止める。
私は思わず、キョトンとした顔で先輩を見下ろした。
「和泉君って、面白いコだよね」
先輩が私を上目遣いに見上げながら言う。
「面白い………、ですか?」
先輩の言葉の真意が掴みきれない。確かに克之、困った時とか面白いカオするけど…。
「ええ。目立つのがあまり好きじゃなさそうだけど、話してみるとすごく個性的。とても優しいし」
思わずドキリとする。みっちも言っていた克之の一面を言い当てられた。
「それに、自分にとって大事な物は絶対譲らない」
湖浜先輩はそう言うと、窓の外に視線を向けた。艶やかな黒髪が陽を浴びてキラキラと輝く。
「カッコイイなぁ…」
先輩がそう呟くのが確かに聞こえた。
私の部屋の真ん中に置かれたテーブルの上に、湯気のたつティーカップが2つ並んでいた。テーブルを挟んだ私の向かい側には、メールで召喚した私の彼氏が座っている。正座で。
「え、えっと… ご用件は何でしょうか? 瑞季さま」
克之が少し震えた声で言う。
プレッシャーを与えるため、すぐに返事をする代わりに細めた目で克之をじっと見つめた。
沈黙が降りる部屋の中で、枕元に置かれた目覚まし時計の秒針の音がやけに耳につく。
張り詰めた空気に堪えられなくなったのか、克之が私から視線を逸らした。
期が熟したのを感じて、私はゆっくり言葉を発する。
「命令します」
私の言葉に、克之がビクッと体を震わせた。
「私にルアーでニジマスを釣る方法を教えなさい」
克之が恐る恐る私に向き直る。
「そりゃまたどうして?」
「試験対策です」
無表情のままそう言い放った。
「試験?」
「そう。湖浜先輩の同好会に入会するための」
その言葉を聞いて、克之が身を乗り出す。
「お、お前も入るつもりなのか?」
「お、ま、え………?」
私は低い声で克之を威嚇した。
「い、いや…」
克之はビクッとして言い直す。
「…み、瑞季さまも、先輩の同好会にご入会なされるんですか?」
よろしい。今日は克之に主導権は握らせてあげない。
「当たり前でしょ?あんなイヤラシイ目で先輩の脚をジロジロ見るような男を、先輩と2人きりにさせられる?」
「い、いやあれは!!!」
克之は慌てて言い募った。
「あれは………、 何?」
私はあくまで冷酷に聞き返す。私以外の女の子に目を奪われるなんて、言語道断、不届至極。返答如何では死罪も免れぬ。
「いえ、何でもないです…」
言い逃れ不可能と悟ったらしく、克之は消え入りそうな声で答えた。
「次の土曜日、私にニジマスのルアー釣りを教えるのよ」
有無を言わせぬ私の言葉に、克之がションボリと頷く。
「それからもう一つ…」
そこまで言いかけて私は口篭った。
克之が私の話が途切れたのを不審に思ったらしく、上目遣いに私の顔を窺う。
やっぱりちょっと無理がある。こういう命令を女王様キャラで口にするとか、慣れてないから恥ずかしい。
「ば…」
恥ずかしいけど、引くわけにはいかない。私にはこの要求をする資格があるもん。
「ば、罰として、わ、私に…、き、きしゅしなしゃい!」
やった…………。やらかしちゃった。思いっっっきり噛んじゃった。
顔があっという間に火照っていくのが自分で分かる。
克之の様子を窺うと、目をまん丸にして私のことを見ていた。
もう! 克之のぐず!!! なんかリアクションしなさいよ! 黙られたら余計恥ずかしいじゃない!
「あ~、えっと」
いらない! だからって、そういう前置きとかいらない!
克之は困ったような顔をしながらも、テーブルを迂回して私ににじり寄って来る。正座の姿勢のまま。
私の前まで来ると、克之は一つ咳払いした。
もう! いちいち余計なエクスキューズ挟まないで!!!
きっと真っ赤になっているだろう顔を上げて、克之の目を見返す。気付けば克之の顔も真っ赤だ。
ゆっくり克之の顔が近付いて来る。
目を閉じた次の瞬間、唇に柔らかい物が触れた。克之、鼻が邪魔。
ああ、やっぱり幸せだ。
この瞬間だけは、克之の意識も愛情も、間違いなく私一人の物だ。克之の心を、私という存在だけが占めている。
克之が唇を離そうとする気配を感じて、素早く克之の首に腕を回す。
まだ放してあげない。散々不安な思いをさせられたんだから、ちゃんと責任取ってよね?
克之の腕が私の背中に回る。
夢のような時間の中で、突然私の耳がある微かな音を捉えた。
私は慌てて克之の体を離すと、その口に手を押しあてた。
やっぱり気のせいじゃない。
ポカンとした顔の克之をその場に残して、私はそっと音を立てずに部屋のドアに忍び寄った。
そしてノブを掴むと、息を吸い込んで一気にドアを手前に開け放つ。
ついさっきまでドアがあった場所に耳を押し当てるような姿勢で、お母さんと智也がしゃがみ込んでいた。
「ちょっと2人とも、………な、何やってるわけ?」
自分の声の震えを抑えられなかった。