#8
普段あまり行かない所へ行くというのは緊張する。まして2年生の教室が並ぶ2階に1人で行くとなればなおさらだ。
翌日の昼休み、私は1人で湖浜先輩のもとに向かっていた。
廊下で擦れ違う2年生達の視線に曝されながら、私は湖浜先輩のいる2組の教室の前にたどり着く。
教室の扉は開いていた。
中からは昼休み独特の和やかなざわめきが漏れて来ているが、さすがに上級生の教室にいきなり足を踏み入れる勇気はない。
私は開いた扉からひょいと教室を覗き込んだ。
いた、湖浜先輩。他の女子達と一線を画すそのオーラのせいで、何の苦労もなくすぐにその人と分かる。
湖浜先輩は窓際の自分の席に座り、何か雑誌のようなものを読んでいた。
「湖浜先輩」
私は先輩に呼び掛けたが、教室のざわめきに掻き消されて先輩に声が届かない。
「どうしたの?」
私の声に気付いたらしい男子の先輩が声を掛けてきた。私はオドオドと事情を説明する。
「あ…、あの、ちょっと湖浜先輩にお話が…」
その先輩はニッコリ笑って頷くと、振り返って湖浜先輩に呼び掛けた。
「おーい、湖浜!」
その声に湖浜先輩が雑誌から目を上げて振り返る。そして私に気付くと、こちらに向かって手招きしてきた。
「あ、ありがとうございました」
私がお礼を言うと、湖浜先輩に声を掛けてくれた男子の先輩は、軽く手を上げて自分の席の方へと戻って行く。
私は居心地の悪さを感じながらも、湖浜先輩の席の方に歩いて行った。
「こんにちは、川原さん」
湖浜先輩が優しい微笑みを浮かべて言った。
ホントに綺麗な人だ。この笑顔の裏にあるものがクセモノだけど。
「こんにちは先輩」
先輩のオーラと上級生の教室の雰囲気に気圧されながらも、私は先輩に挨拶を返す。
「座って」
先輩は前の席の椅子を自分の方に向けながら言った。
「え?でも…」
話の途中で席の主が帰って来たらと考えると、そう簡単には座れない。ましてここは2年生の教室だ。
「大丈夫。その席の人、今日は休みだから」
私の逡巡を見透かしたように、先輩は笑って言った。
「じゃあ…、失礼します」
私は先輩と向かい合って椅子に腰掛ける。
「ごめんなさいね。執事もいないので、お茶も出せなくて」
「は、はぁ…」
何だろう、今の冗談だったのかな? 私、根本的にこの人と波長が合ってない気がする。
「それで? 今日はどんなご用件?」
私の方に身を乗り出しながら先輩は言った。
私は昨夜、ベットの中で1人悶々と考えた末に出した結論を口にする。
「私も、先輩が作る同好会に入れて下さい」
結論を言えば、これしか方法は無かった。
天の邪鬼で「先輩を手伝えばいい」と言ってしまったのを、克之だけならまだしも先輩自身にも聞かれてしまっている。もうここから同好会の設立自体に反対するのは無理だ。
それならば残された手段は一つ。私も同好会に参加する。
もしそうしなければ、同好会のメンバーは先輩と克之の2人だけ。しかも先輩は克之に変な執着を見せているし。
とてもじゃないが、そんな状況では不安で夜も眠れない。
「なるほど。そう言えば川原さんも釣りをするって、池中君も言ってたわね」
私の言葉を聞いた先輩の反応はまったく冷静そのものだった。まるで私がそう言い出すのを100%予想してでもいたかのように。
「でもあなたが釣りを始めたのって、つい最近なんでしょう? しかもどちらかって言うと、和泉君の後について行ってるだけという感じのようだけど…」
彼氏の後について行っちゃいけないんですか!? と思わず反論しそうになったが、これは同好会の活動の話でプライベートのことではない。恋人同志のイチャイチャなら他所でやってくれ、と言われたら反論できない。
「そ、そうですけど、私だって釣りは好きです!」
ムキになってそう言ったものの、こちらの心の中を見透かすような先輩の目に見つめられると思わず俯いてしまう。
そして先輩が、低く囁くような声で核心に迫る質問を投げ掛けてくる。
「川原さんって、釣りが好きなの? それとも和泉君が好きなの?」
心臓がドクン、っと高鳴った。
ストレートに言ってしまえば、私が好きなのは「克之」だ。
それでも私には、釣りを好きじゃない克之なんて想像もできないし、克之に釣りを止めて欲しいとも思わない。それどころか、克之は釣りの勝負によって私が抱えていた問題を少しだけにしろ進展させてくれたのだ。
今や私にとっても、釣りという要素は重要な位置を占めている。
「どっちも大好きです」
自分の声のどっしりした響きに、私自身がびっくりした。
湖浜先輩も私の答えに少したじろいだ様子を見せる。だがすぐに動揺を微笑の下に押し隠し、私に対して宣告した。
「分かったわ。なら昨日も言った通りだけど、入会試験を受けてちょうだい」
入会試験。
そう言えば昨日先輩、そんなことを言っていた。本来の活動目的以外の入会希望者を選別するため、実技試験をするって。
湖浜先輩目的の入会希望者が多発する可能性を揶揄した私自身が、入会試験の振るいにかけられようとしている。