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西洋史学科皮肉屋二人

作者: 天口 洋平

コル・ロジエの昼食は常に目新しいものと決まっていた。だから冬の寒い日に大学の学食に新メニューが出たのを彼の鋭い眼が見逃すはずはなかった。ただし一言申しておかねばなるまいのは、彼が定食コーナーに並ぶのは非常にまれだということである。

「おやッ、ロジエじゃないか」

後ろからその彼を呼ぶ声がする。別段深く考えもせず振り向くと、すぐ後ろに同じ専攻のクリストフが並んでいた。こげ茶色のジャケットがよく似合う、年の割に老けた学生であった。髪の毛などほんの少しだが白いものが見えるほどである。

「よう、クリストフも定食か」

「そう、最近の丼ものはキノコやもやしを使ったものばかりだろう。そろそろ飽きがきたところなんだ」

「まったく同感だね、そしてそこに定食の新メニューだ。食べずにはいられない」

「どうだロジエ、せっかくだからのんびり話でもしないか。どうせ次の時間は暇なんだろう」

彼らの学部では月曜日はどの学年でも暇を持て余す日だったのだ。よってロジエに断る理由があろうはずもなかった。

「じゃあ適当に席を探すか」


学食のメニューは二人をたいへん満足させた。どちらも食べながら話すという非効率なタイプではなかったので、他の学部生がいそいそと昼からの講義に向かう頃、彼らはのんびり世間話を始めるということになった。

「さて、課題の調子は? 進んでるか」

こういうとき、まず口火を切るのはクリストフから、というのが彼らの専攻学科仲間の間での一種の慣例になっていた。今日彼が選択した話題は最近地理学の講義で出された課題についてである。

「さっぱりさね。あの講義、そもそも毎週まともに聞いてたかどうか、その記憶が僕にはないんだ。参考書から抜き取ってほどほどにでっちあげとくよ。どっちにしたって僕らの専攻には関係ないんだし」

このロジエという学生、真面目ということで周囲の評判を勝ち得ていたわけではなかった。

「どっこい、それでロジエ先生毎回『優』を取るんだから尊敬に値するわけだ」

「そりゃクリストフこそ同じだろう」

この二人、その辺の要領はきっちり心得ていたのである。

「そうそう、地理学と言えばロジエ、もちろんプラジェトワ君を知ってるね?」

「そりゃあ同じ専攻だからね。あまり話したことはないが顔くらいはサッと浮かぶぜ」

「なら、俺は君よりプラジェトワのことをよく知ってると言えるな。君は彼にどんな印象を持ってる?」

ロジエは少し難しい顔をしたがやがて答えた。

「いつも眉間に皺を寄せてるなんとも近づき難いやつだと思う。あとはあの黒縁眼鏡の奥でキョロキョロ動く眼がコガネムシみたいに見えるときがあるな」

「率直だね、いつもと変わらず」

クリストフが苦笑する。クリストフからすれば、コル・ロジエに友人が少ないのはそれが最大の理由だろうと思えるのであった。

「まあおおまか他のやつらもそんな感じに思ってるだろうよ。だがね、やっこさんがいつも悩んでるのにはれっきとした理由があるのさ」

「それと地理学がどう関係あるんだ」

「まあ待て。こないだ君はその地理学の講義を欠席したね」

「ああ、絵を描いてて時計を見忘れたんだ」

「別に言い訳まで聞いちゃいないよ。それで俺はあの時間、講義が始まるまでちょいと暇してた。すると、隣になんとくだんのプラジェトワが座ったのさ」

「しかめ面で」

「まさしく。で、俺はこれは好機だと思った。やっこさんと話す機会なんてほとんどなかったからね」

「その好奇心だけでも賞賛されるべきだな」

「茶々を入れなさんな。それで俺は聞いたのさ。『ようプラジェトワ、いったい何を悩んでるんだい』、とね」

「なんて答えたよ」

「まず話しかけられたことに相当ビックリしてたね。それから講義が始まるまでポツポツと目下の悩み、すなわち地理学のレポートの出来はどうだったろうか、ということを話してくれたよ」

ロジエがフンと鼻を鳴らした。彼がそのレポートに重きを置いていなかったことは明白だった。

「真面目なやつだな。レポートのどの部分を心配してたんだ」

「それが全体だというのさ。彼曰く、四時間かけてレポートを仕上げたらしいが不安で夜も眠れなかったそうだ。『地理はずっと苦手なんだ』とね」

「おやおや!」

「だが、レポートが返却されてみたらなんてことはない、彼のレポートの右上に『優』の文字と教授からの長いコメントだ。他にコメントをもらったやつなんかいなかった。それで結果は分かるというもんだ」

ロジエは眉を顰めて見せた。

「それで結局、何の話だ? プラジェトワがよく出来るというだけの話か?」

クリストフはニヤッと笑って首を振った。

「いやいや、話はまだ終わらんさ。『優』をもらったてのに講義が終わっても彼はまだしかめ面をしてた。俺はもっかい何を悩んでるのか聞いたんだ」

「こんどはなんだ」

「彼が言うには、だ。『クリストフ君、さっきの時間後ろでヒソヒソ言ってた連中をどう思う』」

クリストフがプラジェトワの甲高い声をまねた。

「ヒソヒソ言ってた連中がいたのかい」

「ああ。返却されたレポートの点数でどうこう言ってるやつらはいたさ。例にもれず、だれの点数が一番低かったかという、どうでもいいようなやつだ」

「それで君はプラジェトワに何て答えた」

「気にすることはない、君の点数は良かったんだから別にかまわないだろう、と言ったんだがね。プラジェトワはそれでさらに悩んでしまった」

ここにきて、ロジエにもプラジェトワの正体が判りはじめていた。どうにも、めんどくさい。クリストフが続ける。彼の笑顔は広がるばかりであった。

「プラジェトワは言ったよ、『うるさいな。講義中にペチャクチャおしゃべりするようなやつらは結局何も学んじゃいないんだろう』」

「哲学者だな!」

ロジエはため息を吐いた。彼の声には彼一流の軽蔑が込められていた。クリストフもプラジェトワのことばを思い出して憐みの表情を浮かべていた。プラジェトワの抱いた疑念は間違っていないはずなのに二人の皮肉屋にかかると嘲笑の対象になってしまうのだった。

「それでねえ、俺は彼に聞いたんだ、『じゃあ君は大学で何のために学んでる? 確かにいままでのところ、ゼウスが浮気したとか、アレキサンダーは親父と仲が悪かったとかいうのは俺たち教えてもらったさ。この講義でもインドネシアの気候だとかなんだとか教えてもらった。が、それが社会に出て何の役に立つんだ。自分の好きなことだけやって、自己満足に陥ってやいないかい』と、ほとんど今の俺たち自身を否定するような質問をしてやったんだ」

「そいつは確かに極端だな」

「ところが冗談だと笑って過ごせばいいのにプラジェトワはその質問に愕然としちまってね。どうもクソ真面目な性格なもんで今度は自分が何を求めて勉強するのか、という疑問に取りつかれちまったらしいんだ」

「それをきちんと整理して自分の言葉ですぐに説明しろというのは難題だろうよ」 

「しかし俺が彼にその質問をしたのは二週間前なんだ」

「まさかまだ…」

「そう、プラジェトワはまだその問題に答えを出せないでいる。別にこっちが答えを要求してるわけでもないのに会うたび会うたび『クリストフ君、しばらく、いましばらく』と繰り返すんだ。面白いから適当にウンウンと言って放っておいてあるがね」

「クリストフ、君も残酷なやつだなあ」

が、ロジエの顔は明らかににやついていた。クリストフがクックッと笑う。そしてロジエを見て

「だがロジエ、君は大学で何のために学ぶ」

と聞いた。

「おやおや僕まで標的にされたか」

「そんな素晴らしい答えは期待してないさ。でも君のことだ、しょうもない考えの一つや二つ、あるだろう」

「まあね。だがこいつは深遠にして複雑怪奇な問題で…」

「なんだっていいさ。そいつを聞かせてくれよ」

「じゃあ言うがな、大学ってのは好きなことを勉強して自己満足できればそれでいいところなんだ。無理に理由づけしようとするから困っちまう。小さい頃から真面目に人に言われた通りにしてテストで良い点を取ってきただけのような奴は自分は拘束され続けているものと思い込んでるから、意外と自分が与えられた自由の大きさに気づかないものだと僕は思うがな」

「なるほど」

「大学に入ったってことはしばらく好きなように学ぶ権利を得たと思えばいいんだ。与えられたものごとではなく、な。それで何らかの結果が出ようが出るまいがだれが知るものか」

「言うねえ」

「じゃあクリストフ、君はどう思うんだ。親愛なるプラジェトワを悩ませ、僕に文句をつけときながら自分の意見を言わないのはずるいんじゃないか?」

「だがねえ、俺の意見を聞いたら君は怒るぜ」

「いいから言えよ」

「俺の答えは、『我々青年のすべきことはただ三語に尽きる。遊べ、もっと遊べ、あくまで遊べ』、だ」

かのビスマルクを尊敬するクリストフにとって、鉄血宰相の言葉を引用・改変するということはある意味彼らしい返事といえばそうである。違いと言えばビスマルクが述べたのが『働け、もっと働け、あくまで働け』であったということだけであって。

そして、彼の予想に反してロジエは無表情になり、以下のように述べただけであった。


「まあ、そういうことにしとこうか。さしあたり」





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