呼吸
胸を貫かれて今まで意識せずとも出来ていた呼吸が出来なくなっていることに気付いた私は、「とにかくこいつの腕をどうにかしないと」と考えた。すると、私の胸から生えていた男の腕は溶けてなくなった。
それに応じて、男は数回、バックステップを踏んだ。右の肘から下がなくなっているにも拘らず、余裕の表情を浮かべていた。
「やるじゃない、コインちゃん」
そう言って男は口笛を吹いた。
「……私は、そんな名前じゃない」
「へえ、親にコインロッカーに入れられたコインちゃんに名前があるってんだ?」
私にはお兄ちゃんからもらった名前がある。わざとイライラさせてくるような口調の男に向かって、私は自分の名前を叫んだ。
「く、くくく」
1、2回ほどこらえるように息を噴出した後、
「はーっははははははあは! こいつは傑作だ!」
男は盛大に笑い出した。
「皮肉、ってやつもここまでくると爆笑モンだな!」
「何がそんなにおかしいの!」
お兄ちゃんからもらった名前を馬鹿にされた私は、生まれて初めて、声を荒げて怒りを表した。
「だってさ、親からもらえなくて、変態野郎からもらったって言うお名前を大切にしてるってこと自体もそうだけどさ、その名前の意味も君が持っていなくて、そして最もほっしているものじゃないか!」
笑い続ける男。回りくどくて意味のわからない言い回しも、声のトーンも腹立たしい。
「さて、ひとしきり笑ったところで、仕事続けますか」
そういうと、なくなったはずの男の右肘から、新しいそれが生えてきた。今まで見たことのない光景に私は驚いた。
「なんだ? ぼーっとして? 手が生えてくんのが珍しいってのか? バケモノのお嬢ちゃんでも? ……じゃあ、もっと驚かせてやろうか?」
男は少し前に屈むと、その背中から、ばさり、ばさりと、一対の白く輝く翼を生やし、中空に飛翔していった。その男の身体はきらきらと輝いていたが、綺麗だとは思わなかった。
その光景を仰ぎ見てた私の身体に、鋭い痛みが走った。頭に、胴に、腕に、脚に、地面に、カッターナイフのような形をした無数の羽が突き刺さっていた。
「どうだ、嬢ちゃん」
ニヤニヤと笑いながら男は私を見下した。傷口からたらたらと血が流れていき、体が冷たくなっていく感覚があった。
とても不快だった。
体の傷もそうだが、男の態度がより不快だ。
あの自信過剰な顔を歪ませてやりたい。
そう願うと、私の身体に刺さっていた羽は、私の体から飛び出て、男のほうへ向かっていた。
男は背中の翼で頭と胴をガードしたが、羽ばたくことができなくなり、羽の刺さっている地面へと墜落した。
「……久しぶりだよ、落とされたのは」
しかし、男はまだ、楽しそうに笑みを浮かべていた。
「お前はすげえよ。本当に面白い奴だ。眼に見える攻撃なら、全て返しちまう。でもさ……」
私の体の内部から、絶え間なくばちん、ばちんと弾かれるような痛みが走った。
「お嬢ちゃんには、この仕組みが理解できないだろう?」
確かに理解できなかった。だけど、この痛みは倒れたままの男が生じさせていることは明らかだった。
だから、痺れる足を持ち上げて、男の身体に落とした。
男の胴に、私の足の形そのままに穴が開いた。まるで雪についた足跡みたいだな、なんて思った。
その穴を塞げようと、周囲の肉が蠢いていった。だから同じことをした。踏んでも踏んでも再生するけど、痛みが止まるまで、何度も何度も繰り返した。
壊しても壊しても男の体は再生するためにうごめいていったが、それが追いつかなくなっていくにつれ、徐々に男に焦りが表れる事に気付いた。
それでも私は、男を踏み続けた。
ついに男は動かなくなった。私の身体の痛みも引いていった。
胸に穴が開いた男を見下して思った。
ああ、こいつは食べたくないな。と。
私は大きく息を吸い込んだ。
一切の痛みなく、酸素を身体に取り込める感覚があった。今まで幾度となくくりかえしてきたはずだったけど、心地よかった。