『専制君主』は私が躾けます
私のデスクに、アポホテルのペットボトルが並んでいる。
仕事が遅くなって終電が無くなると、会社の裏にあるアポホテルに泊まる。そのホテルでもらえる水のペットボトルが並んでいるのだ。
私は咲風深雪三十六歳。
同期で最も早く課長に昇進した。
仕事は楽しい。課長になって、より自分が事業を動かしている感じがする。
しかし年賀状で送られてくる、同い年の友人が結婚して子供と映っている幸せそうな写真を見ると、一抹の焦りも感じる。
でも今は、そんなことを考えている場合ではない。
今の仕事が佳境を迎えている最中、部下がメンタルで病休になった。目が回るような忙しさだ。明日の会議のために、部長のおじさん達にも噛んで含めるように説明し、余計なことを言わせないようにしなければならない。
今日もアポホテル泊りだろうか。
部下どうしのいざこざや仕事の向き不向きを調整する。今の若い部下はプライベート重視で休みもきちんと取らせなくてはならない。私が若い頃と違い、噛んで含めるように教え、褒め、フォローしないといとも簡単に辞めてしまう。それにもかかわらず、偉いおじさん達の頭は古いまま。私の仕事は増える一方だ。
ようやく仕事がひと段落した或る日、私は久々に自分のアパートへと帰った。
風呂上がりに缶ビールを飲み、自分のベッドで眠る。最高に幸せだ。私はすぐに深い眠りについた。
そして目覚めた。
男の声で。
「おい女。お前は何者だ」
びっくりした私は、思わず部屋の中を見回す。
まだ薄暗い中、当然誰もいない。いるはずもない。
「我が命じる! ここはどこだ! 答えよ女!」
頭の中から聞こえる声は、とても偉そうだった。
「うるさい! 黙れ! 人の頭の中で勝手にしゃべるな!」
私がそう一喝すると、その声は聞こえなくなった。
いったい今のは何だったのだろう。
息をひそめて静かにしても、何も聞こえない。夢でも見ていたのだろうか。
いつもより早い時間に起きてしまったが、私は簡単な朝食をとり、出勤した。
早い時間の駅のホームは空いている。
電車が来た。
乗ろうとした。
「おい! 何だこれは! こんなものの中に入って大丈夫なのか!」
私の頭の中から確かに声がした。
電車に乗ってからもうるさい。
「おいおいおい、何だこれは! もの凄く速いではないか!」
偉そうなおっさんの声のくせに、話す内容がガキっぽい。
どうやら周りの乗客には聞こえていないらしい。
私の頭の中だけで聞こえているようだ。
「おい女! もっと外が見たい! 外を見せてくれ!」
私は周りに聞こえないような小声で言う。
(黙れ! 殺すぞ!)
そう言うと、声は聞こえなくなった。
それからは頭の中の声はしなくなったが、残業中のことだった。
ずっとパソコンとにらめっこで仕事をしている最中だった。
「おい女……これはいったい何なのだ……よくこんなもの、ずっと見ていられるな……」
無視して仕事を続けていると、大変なことになった。
「ううう……気持ち悪い……は、吐く……ウゲヘロ、ロパー〇×△■……」
頭にきた。何で私の頭の中で吐いているのだ。
私は誰もいないトイレに駆け込むと、怒鳴った。
「てめえっ、私の頭の中で吐くとは何事だ! ぶっ殺してやる!」
「すまぬ……すまぬ……女よ。あの不思議な箱は何なのだ……もう無理」
はっと気づくと若い女子社員が、見てはいけないものを見てしまったかのような怯えた表情で私を見ていた。
頭の中から声が聞こえるなんてどうかしている。
今日はもう帰ろう。
きっと疲れがたまっているのだ。
私の怒りが爆発したのは、アパートの風呂で体を洗っている時だった。
「ほう、女とはこのように体を洗うものなのか」
ブチ切れた。
私の唯一のリラックスタイムをぶち壊した、この偉そうなおっさんを殺そうと思った。
「すまぬすまぬ! 本当にすまぬ! 許してくれ女よ!」
「女ってなんだ! 私は咲風深雪だ!」
「すまぬ深雪! 俺にも何が何だか分からないのだ」
いきなり下の名前で呼び捨てにするおっさんにムカついたが、私はおっさんが話し始めた事情を聞くことにした。
「俺は殺されたのだ」
そう言って、私の頭の中のおっさんは話し始めた。
おっさんは、ベルクレーベン王国と言う国の王様で、エルフリート大帝だと名乗った。周囲の五か国連合を相手に戦争に勝ち続け、史上最大の領土にした偉い王様(自称)だそうだ。国民からも絶大な支持を得ていたらしい。
それが、マルセル・ゴートモリアという、信頼していた大臣に裏切られ、殺されたらしい。
死ぬ間際に王家の指輪を呪文とともに投げたところ、何故か私の頭の中に住み着くことになったらしい。
「深雪! 俺を元の世界に戻してくれたら王妃にしてやるぞ!」
「王妃っておっさんと結婚するってこと? どんだけ上から目線なの」
「おっさんって……エルフリート大帝の王妃だぞ! なりたくないのか!」
「そもそもベルクレーベンってどこなの? 知らないんですけど」
「……ベルクレーベン王国を知らんだと? 大きな国だ。美しい国だ。その国の王妃にと言っているのだ!」
「おっさんの世迷言につき合っていられないんですけど」
「何でも言うことを聞く。王妃を大切にする。逆らわない。俺は約束は必ず守る男だ。だから俺をここから元の世界に戻してくれ!」
私は頭の中で哀願するおっさんの声を聞きながら、仕事のストレスも来るところまで来たかと思った。
翌日、私は午後半休を取り、職場の健康相談室に紹介された精神科の診療所を受診することにした。
『大藪医院』
ヤブって……診療所の名前としてどうなんだろうかと思ったが、健康相談室が紹介したくらいだから、ちゃんとした診療所なのだろう。
受付を済ますと、すぐに診察室に通された。
大藪先生は、三十代くらいの小太りで背の低い医者だった。
「頭の中で、声が聞こえるんです」
「一人? 二人? 男? 女?」
「男の人が、一人です」
「統合失調症だね。治療法は二つあるよ」
大藪先生は、目をキラキラさせながら私に言った。
「ひとつはデンパチだよ。これがボキのおススメです!」
そう言って大藪先生は、机の中から古びた木箱をとり出した。
「この装置で体を痙攣させるんだよ。咲風さんみたいな美しい女性が痙攣する姿……ボキは興奮しちゃうなあ」
おぞましさを堪えながら私は聞いた。
「もうひとつの治療法って何ですか」
大藪先生は机から金色のカプセルを出した。
「これがボキの開発した治療薬。一粒五十万円」
「五十万円!? そんなお金、払えません」
「お客さ……いや、患者さんは運がいい。今ならモニター価格で千円ポッキリ!」
「……モニターって何をするんですか?」
「簡単簡単! 飲んだ後で、どうなったのか教えてくれるだけでいいよ!」
「……じゃあ、そちらでお願いします」
私はアパートに帰ると、早速そのカプセルを飲んだ。
やけに眠い。
帰宅時間がいつも遅い上に、最近はおっさんの声でよく眠れていなかったな……そう思いながらベッドに横になると、私はすぐに寝てしまった。
目が覚めると私は十歳若返り、二十六歳になっていた。
「やった~! 帰って来た~! 復活したぞ~! ウワハハハハハ!」
隣を見ると、背の高い若いイケメンが立っていた。
「深雪! 礼を言うぞ! ウワハハハハ! しかも若返っている。どうやら十年前の世界のようだな!」
「ちょっと、あなたはエルフリートなの?」
「いかにも、我はエルフリート大帝だ」
そう言って、エルフリートは私を見つめた。年は二十代後半だろうか。黒髪が肩までかかり、吸い込まれるような碧眼が美しい。
うっとりするようなイケメンだった。
あまりのイケメン度に私がひるんでいた隙に、エルフリートは喜び勇んで丘を駆け下りてしまった。
「ねえ、ちょっと待ってよ!」
途方に暮れて周りを見ると、ここは丘の上の草原だった。遠くに街並みと、その中心に何本もの尖塔を持つ城が見える。きっとあれが王宮だろう。まるで中世の都市だ。ここがエルフリートのいた世界だとすると、私は異世界に来てしまったのだろうか。
独りになると、だんだん腹が立ってきた。私を王妃にして大切にするとまで言っておきながら、この置いてきぼり。殴らずにはすまされない。
エルフリートの後を追って、私は王宮へと向かうことにした。
丘を降りると街に出た。
街の人々の顔は暗かった。
失業者? 乞食? 路地裏で寝ている人もいる。
きちんとした身なりの人が、炊き出しをしていたので私は事情を聞いてみた。
「五年前から、エルフリート様が戦争を始められたのです。それ以来増税に注ぐ増税。周りの国々からの物資が届かなくなって、民は困窮しているのです」
その言葉を聞いた住民が言う。
「ここはまだいい方だ。領主のマルセル様がこうやって炊き出ししてくださるからな。ほかの所はもっと悲惨だよ」
どうやら私が事情を聞いた人は、ここの領主様だったようだ。
「ひょっとして、あなたはマルセル・ゴートモリア様ですか?」
「そうです。おや、あなたは靴をどうされたのです」
私はアパートの部屋にいた時の姿、部屋着と靴下のままだった。
親切にもマルセル様は、私にサンダルのような履物をくれた。
私が王宮に近づくにつれ、浮浪者が増えた。店には品物も少ない。エルフリートは自分が偉い王様みたいなことを言っていた。しかしあのガキっぽい発言内容からすると、あまりよく考えて政治をしていないのではないだろうか。
突然トランペットのような楽器の音がした。
振り向くと、ちょうど王宮の門から大勢の兵士を従え、得意満面のエルフリートが馬に乗って出てくるところだった。
周囲の民衆が平伏している。
みんな怯えている。
みんなわがままな専制君主を恐れているのだ。
いろいろと腹が立ってきた。
周りの民衆が頭を地にこすりつけて平伏するなか、私はつかつかと兵士の列に近寄った。
「おい、エルフリート! この世界に連れてきてやった恩を忘れたのか!」
私の怒鳴り声で兵士達の行進が止まる。
エルフリートが、鳩が豆鉄砲を喰らったような顔で私を見る。
「おいこら! 私を王妃にして何でも言うことを聞くんじゃなかったのか! バカ大帝!」
怒鳴る私を、青ざめた顔の兵士達が抑えようとする。
「や、やめよ」
エルフリートが兵士達を制止する。
「てめえ、まず馬から降りろ! エルフリート!」
私の怒鳴り声に、慌ててエルフリートが馬を降りる。
私はエルフリートの前まで行くと、思いっきり平手打ちを喰らわせた。
静まり返った王宮の門の前で、パーンという大きな音が響き渡った。
☆ ☆ ☆
あまり期待はしていなかったが、エルフリートは本当に私を王妃にしてくれた。
しかもやたら懐かれた。
私の歩く後にずっとついてきたりする。鬱陶しいからどこかへ行けと言うと、とても悲しそうな顔をする。イケメンの悲しそうな顔は、私をうろたえさせる。
「ねえ、今晩もくっついて寝て良い?」
「ダメです。あなたがいると、落ち着いて寝られません」
私がいくら拒否しても、エルフリートは私の寝室にやって来てはベッドにもぐりこんでくる。まるで子供のようだ。でも、朝日で照らされた寝顔を見ていると、美形ってどれだけ眺めていても飽きないものだとつくづく思ってしまう。
或る日、大臣達に自慢したいからと言って、エルフリートが私に会議に出てくれと言った。
私は仕事で散々会議をやっていたので、異世界の会議がどういうものか興味があった。私が出席した会議は、王国の予算を決める重要なものだった。
出席している大臣に、その後ろに控える官僚達。みな刃物の上を歩いているかのように緊張した顔をしている。
事務官が予算案を読み上げる。
めちゃくちゃな予算案だった。
国費の八割が戦費で、残りの二割が私との結婚式典費用だそうだ。
大臣達は何か言いたそうにしていたが、何も言わない。
年老いた大臣の一人が、ようやく口を開いた。
「恐れながら大帝陛下。このような莫大な戦費の使い道について、教えていただいてもよろしいでしょうか」
「おお、モリソン大臣! よくぞ聞いてくれた! 最新式の戦車を買うのだ! 草原をパーッと走る様は壮観だぞ! ウワハハハハ」
「……さ、左様ですか。恐れ入りました……」
モリソン大臣はそう言って引き下がった。他の誰も発言しない。みんな下を向いている。
このバカ大帝は、空気というものが読めないらしい。
私は街に溢れる浮浪者や、困窮している民衆を思い出して腹が立った。
「却下です」
そう言い放った私の顔を、大臣や官僚達が青ざめ、引き攣った顔で見る。
「陛下は困窮している民衆をご存じないのですか。結婚式典の費用など要りません」
「何を言っているのだ! お前のために最高の結婚式をしたいのだ! 三カ月も続く結婚式だぞ!」
エルフリートは、私の言うことが納得できないらしい。
「私のためというのなら、なおのこと却下です」
私は一歩前に出てさらに言った。
「戦費もかかり過ぎです。せめて五割に削減し、私の結婚式典費用と合わせて国費の半分は、民のために使いなさい」
大臣達からどよめきが上がる。
エルフリートが慌てて私に力説する。
「例え愛する深雪の願いでもそれはダメだ。敵がいつ攻めて来るか分からない。それに備えなければ民を救えない」
「じゃあ停戦しなさい」
「停戦などに応じる相手ではない」
「では、私が停戦交渉に行きます」
つい勢いでそう言ってしまったが、言った以上はやるしかない。
私は大帝から全権を委任された王妃、ミユキ・ベルクレーベンとして、隣国ダーバン王国に赴いた。
停戦交渉にあたって、大臣や官僚達からいろいろと話を聞いた。このベルクレーベン王国は、国土は広く、鉱物資源には恵まれているものの、農業生産力は弱く、工業も発達していなかった。武具すら満足に自国では生産できず、輸入に頼っているそうだ。
装備が旧式の軍隊にもかかわらず、勝ち続けているのはエルフリートの能力によるものだった。どうやら彼は戦いの天才らしい。
しかし、経済については全く無知なようで、勝ちはしても自国の経済は困窮し、十年後に民衆のことを想ったマルセル様に殺されたのだろう。自業自得だ。
ただ、現状ではベルクレーベン王国が勝ちまくって優勢な状態だ。自分が有利な状況で臨む交渉は、優位に進められることを私は知っている。今が戦争のやめ時だ。
交渉は大成功だった。
あの暴君エルフリートを平手打ちした王妃、という名声? はダーバン王国にも知れ渡っていて、国王以下ビビりまくっていた。
国境は、現在ベルクレーベン王国が占領しているところまで認めさせた。
これはエルフリートを納得させる最低条件だ。
そのかわり、賠償金の要求は放棄した。
何年かにわたる分割払いにしたとしても、賠償金の支払いは国民を困窮させ、遺恨が残る。
それよりも経済交流を活発化し、ウィンウィンの関係を作ることを提案した。具体的には、こちらから通常より安く石炭を輸出し、ダーバン王国からの農作物の輸入には関税をかけないことにした。鉱物資源に乏しく、農業生産国であるダーバン王国にとってこれは悪い話ではない。我々にとっても、農作物の輸入は民の困窮を救うことになる。
そして何より、ダーバン王国はエルフリートを恐れていた。
そのエルフリートを唯一止めることの出来る私は、彼らにとって願ってもない交渉相手だったのだ。ほぼ終戦と言っていい内容で、交渉はまとまった。
私がダーバン王国から帰ると、民衆は熱狂して迎えてくれた。
あの元気のなかった民衆は、誰もが笑顔で私を迎え入れてくれた。
私は『平和の王妃』と呼ばれた。
王宮に入ると、大臣や官僚達が大勢出迎えてくれた。
私が初めて王宮に来た頃は、どこの馬の骨だとばかりに怪しまれていた。しかし大臣達からは握手攻めにされ、泣いて喜んでいる者もいる。王妃様に絶対の忠誠を誓うと言う者までいた。
大臣達はエルフリートに粛清されるのが恐ろしくて、良くないとは思っていても、今まで何も言い出せなかったらしい。
私に対する民衆や大臣達の反応を見て、ショックを受けていたのがエルフリートだった。
「みんな、俺のすることをそんなに嫌がっていたのか……」
私は気落ちするエルフリートを、王宮のテラスに引っ張っていった。
窓を開けると、王宮広場は民衆で埋め尽くされていた。
「王妃様万歳!」
「平和の王妃様万歳!」
民衆が私を讃えているのを、エルフリートが呆然と眺めている。
「ほら、陛下。ちゃんと民衆に応えてあげなさい」
私がそう言うと、エルフリートが右手を民衆に向かって小さく挙げた。
その途端、王宮広場が大歓声に包まれた。
「エルフリート大帝万歳!」
「王国万歳!」
民衆が口々に叫ぶ。
「ほら、陛下は人気者ですね」
「……この歓声は、ミユキのものではないのか……」
「私と、陛下のものですよ」
私はあまりにもエルフリートが気弱になっているので、キスをしてあげた。
王宮広場の歓声がさらに大きくなった。
「エルフリート大帝万歳!」
「ミユキ王妃万歳!」
「王国に幸あれ!」
ベルクレーベン王国と交戦中だった、残りの四か国との交渉は容易なものだった。盟主的な存在であったダーバン王国が停戦したことによって、他の国々は次々と停戦に応じた。
これにより、戦費は国家予算の二割以下まで削減し、残りを産業振興や教育、福祉などに回した。
いまでは大帝参加の会議を開催する前に、大臣達は私の所に議案を持ってくるようになった。
相変わらずエルフリートは、私に飽きもせずにくっついてくる。
私は二人の王子と三人の王女を生んだ。
ベルクレーベン王国は栄えた。
いつの間にかエルフリート大帝は、名君と呼ばれ、民衆から愛されるようになった。
それを喜ぶエルフリートを見て、私も嬉しかった。
やがて皇子が即位した。
ダーバン王国から素敵な王女を王妃に迎えた。
まだまだ心配なところはあるが、息子は王として頑張っている。
あとは彼らに任せよう。
退位した私とエルフリートは静かな生活を送っていたが、三年前にエルフリートが亡くなった。
彼がいなくなって分かったことは、私はいつの間にか本気で彼を愛していたということだった。
今、私は死の床で、ベッドの周りを息子や娘、孫達、曾孫達に囲まれていた。
こんなにもかわいい子達に囲まれているというのに、私はエルフリートのことを考えていた。
あの世でエルフリートに会えることを、心待ちにしている自分がいる。
エルフリートと出会った頃のことを最近思い出す。
家臣達の見ている中で、平手打ちしたのはちょっと悪かったかも。私に怒鳴られて、馬から降りた時の慌てようったらなかった。
静かに思い出し笑いしてしまう。
子供みたいな人だったけれど、とても優しい人だった。
約束どおり、私をとても大切にしてくれた。
そう言えば、結婚式をしなかったことをずっとエルフリートは残念がっていた。
でも、エルフリートが結婚の証だと言って、王家の指輪を私の指にはめてくれたことが、とても嬉しかった。
私は左手の薬指の指輪に、親指でなぞるように触れてみる。
そう言えば、王家に伝わる呪文も教えてもらったっけ。
私は薄れゆく意識の中で、愛するエルフリートとともに、呪文を唱える。
息子達が私を呼んでいる声が聞こえる。
静かに私の意識が消える。
目覚めると、私は自分のアパートのベッドの中にいた。
薄ぼんやりと、部屋の中に夜明けの光が差し込んでいる。
私は呆然としてしまった。
夢と言うにはあまりにも長く、多くのことを経験し、気持ちの整理がつかなかった。
もう頭の中から声も聞こえない。
さあ、仕事に行く時間だ。
私はいつものように電車に乗り、出社し、仕事をした。
デスクの上の内線が鳴る。
「咲風課長にお客様です。外国の方のようなのですが……」
私はすぐさま一階の受付へと、階段を駆け下った。
そこには、美しい黒髪に、やさしい碧眼の愛する人が立っていた。
初めて見た時よりおっさんになってはいたが、私の愛する夫だ。
「ミユキ、ずっと待っていたよ」
私は思わず抱き着いた。
驚いたことに、エルフリートは三年も前にこちらの世界に来て、今では会社を経営しているらしい。
「ミユキに組織の、人の動かし方を学んだからね」
私達はもう一度結婚した。
今回はささやかながら、きちんと結婚式を挙げた。
エルフリートがとても喜んでいて可笑しかった。
男の子と、女の子を私は生んだ。異世界とあわせて七人もの子供を産んだことになる。自分がそんなに子供を産むことになるとはびっくりだ。
そう言えば、『大藪医院』に行ってみた。モニターとして結果を報告するためだ。
「妄想を治すにはデンパチしかない! 折角ネットで買ったんだ! タダでいいからやらせて!」
木箱を持ちながら追いすがる大藪先生を振りほどき、私は医院を後にした。
不思議な経験をしたい方は、『大藪医院』を受診してはいかがだろうか。
私は二度と行きたくない。




