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夜道を歩く猫

掲載日:2025/12/30

 ホームの反対側に立つ君と目が合う。

 夜八時で眠ろうとする街の駅は、遅くまでにぎわっていた頃の最終電車間際みたいな混み方をしている。

 帰る場所のある君は「帰りたくない」とは言わない。


 それでも次の約束をする。

 そうやってぼくたちは銀色の着物を重ねることでしか生きていけない。

 ぼくは「帰したくない」と言うべきだろうか。ホームに電車が滑り込む。

 ぼくたちの視線が遮られる。銀色の着物が銀色の電車が起こす風で煽られて銀色の翼の様に広がる。

 銀色の電車はそれぞれ別の方向に走っていく。

 ぼくたちは飛べない。電車とぼくの間にある甘い匂いはかき消された。




 夜道を猫が歩いている。

 夜中になにか甘いものが飲みたいと思って開いた冷蔵庫、その中にあるのは豆腐や納豆、または蒸したささみ肉で、飲みものと言えば豆乳と薄めたスポーツドリンクがあるだけだった。

 甘いものは何ひとつ無い。

 分かりきっていたが、それを確認したかった。ぼくは冷蔵庫を閉じて部屋を出ることにした。

 近くの自動販売機まで歩いていこう、ついでに煙草も吸いたい。



 ぼくはポケットから短い希望を取り出して火をつける。

 小さな狼煙が上がる。

 誰にも見えない小さな狼煙。それはぼくが生きているってことだ。それにショートホープは他のどんな煙草より名前がいい。

 そのぼくの目の前を、猫が悠然と横切った。



 猫に未来は無い、と言う話を聞いた事がある。

 彼らの将来が絶望的だと言うのではなく、単純に未来を予測したりすることができないのだそうだ。

 なるほど、どうりで猫は高いところに登って降りられなくなったり水瓶に落ちてしまったりするわけだ。

 古代より可愛いと認識されてきた猫は、ついに自身の野生を放棄しても許されてしまう様になった。

 それでもその可愛さ故に何をしても助けてもらえるなんて、もしかしたら猫はこの世の支配者なのかも知れない。猫になりたいとは思っていないけど、羨ましい限りだ。



 ぼくの目の前を横切る猫がどこへ行くのかは知らない。

 あの猫も高いところへ登って降りられなくなったり、水瓶に落ちたりするのだろうか。賢そうな顔をしている割に間のぬけた話だと思う。

 それとも誰かにエサやミルクを貰うのだろうか。行くところがあるのは良い。

 誰にも邪魔させない自由さには、ちょっとした気高さがある。まぁ猫はたとえ媚びたって可愛いのだけれど。



 ところでどうやらぼくも猫と大差無いらしく、これといった未来を予測できていない。

 高いところに登っておりられなくなる訳では無いが、30数年目の人生から引き返せないし、行く先も特に見えていない(絶望的と言うほどでもない、絶望的と言うことはまだ何か打つ手があると言うことだ)。

 少し歩いた先に見える自動販売機や今は滅多に見なくなった公衆電話が見えたからと言って、それが何になる?視力だって悪くない。



 でも人生の展望って言うのはそうやって見るものじゃないらしい。

 ただぼくにもそれなりの自由があり、その責任を全うしている分は誰にも邪魔されたくない。それは気高さと言うより身勝手なエゴイズムだと思うけど。例えば誰もいない夜中の道で煙草を吸ったり、甘い缶コーヒーを飲んだり、仕事をして、そのお金でそう言ったことをする。

 そこに猫ほどの気高さはないけれど、やはり人間にしかできないことだ。もっとも、やるべきでない事なのは言うまでもない。



 それでもぼくはぼくを邪悪な存在だとは思っていない。

 ぼくは偉くなりたい訳でもないし、スーパーカーに乗りたいとか思っているわけでも、ジムの付いたタワーマンションや日本庭園がある戸建てに住みたいと願っている訳でもない。

 経済的に裕福であればそんな願いを持つかもしれないけれど、いまのぼくが持つ実にささやかな、それでいて傲慢な願いがあるとすれば、死ぬまで沢山の本を読んで過ごしたいと言うことくらいだ。



 あとはできれば苦しい死に方はしたくないのと、やっぱり痴呆になったりしたくないなと言うことくらい。

 実にありきたりで、ありふれた、とても平凡な希望だ。

 誰でも持っている願いだろう。

 痛いのや苦しいの、自我の喪失を他人に見られたりするのは本当に厭だ。

 だったら煙草はやめるべきかも知れない。

 でも短い希望をいつもポケットに入れておく、そんな素敵なことはそう簡単にやめられそうにない。



 ぼくは飲み終わった缶コーヒーを灰皿に使わないように気をつけながら、二本目の短い希望に火をつける。

 誰かが言っていた、煙草を吸うことで過去の自分が灰になって消えていくのだと。そうかも知れない、チリチリと音を立てて燃える煙草を見ながらぼくは思う。

 かつて燃えるような情熱を持っていたぼく、なんていうものは存在しないけれど、現在と言う火に焼かれてぼくはどんどん灰になっていく。

 そんな事を想像していた。音もなく落ちていく灰は、ぼくの過去に見えたりしない。



 かつてのぼくは画家になりたいとか小説家になりたいとか映画監督になりたいとか、もっと言えばサラリーマンになりたくないとかを考えていた。

 でも結局はサラリーマンに落ち着いているし、別にそれを厭だとも思っていない。

 厭だとも思っていない事を厭だと思うことだってない。

 かつてのぼくがいまのぼくをみたら憤慨するだろうけど、いまのぼくはそれを恥じ入ることもない。

 相変わらず恥と愧のどちらを選ぶかで迷うくらいの鬱陶しさは当時から変わっていないよ、といまのぼくは言うだろう。

 それで当時のぼくが納得するかはわからない。



 だからぼくにとって世界や社会、なんなら会社がどうなろうと知った事ではない。

 ぼくは本を読めていればいい、できれば労働の合間に(それは賃金を得ながら読書をする、と言う”生産性の高さ”を楽しみたいからだ)。

 はっきりと言ってしまえば最近インターネットやテレビを賑わせている性的マイノリティとされる人たちや女性の権利問題などには興味が無い(何かが欲しいならその分の責任を負えばいいのにと考えている)し、地球の環境や絶滅動物たちにはもっと興味が無い(絶滅危惧種に関してはどんな味のする生き物なのか知りたいなと思う)。



 言った通り、ぼくには大した未来がないので大袈裟な変化をした後の世界なんて考えたこともないし、考えるつもりもない。

 自分勝手だなと言う自覚はある。

 だからって何だと言うのだろう?世界も社会もぼくに何もしてくれないと言うのに。



 二本目のショートホープも吸い終わってしまった。

 煙草もずいぶんと高くなった。

 たった十年で二倍の値段だ。缶コーヒーも十円高くなった。

 それでも社会はデフレーションの最中で、みんな安いものを求めてさらに酷いデフレーションが繰り返されている。色んなものを値下げして欲しいと言う願い、そのお陰でぼくの給与も下がる予定らしい。


 まぁ、生活していけるなら良いのだけれど、煙草や缶コーヒーは減らさなければならないかも知れない。

 そう言う点で資本主義は邪悪だと思う。

 でも資本主義には手を抜いて生きる余地がある。資本主義より先進的な生活は全員が頑張る前提だし、それが成功するならキューバだって今ごろはつらい思いをせずに済んでいるはずだ。

 ソビエトだって崩壊しなかったかも知れない。

 資本主義の良いところは多少の嘘をついたりしても平気なところだし、時には余裕のある人が助けてくれるところだ。



 知らない猫にエサやミルクを与える余裕だってあるだろう。

 ぼくは猫にエサもミルクもあげたことは無いけど、そうするくらいの余裕はある。



 通りの反対側を幼い娘を乗せた母親のこぐ自転車が走っていく。

 幼い娘は深夜のそれがどうやら不満らしいが、母親は「それならお前に400万返せるのかよ」と大声で言っていた。

 誰だって生活は大変だし、やはり資本主義はどこまでも邪悪なのかも知れない。

 あの親子は猫にミルクを出す余裕なんてものは無いだろう。

 そして仮にぼくがあの親子に夜食をご馳走して、多少の愚痴を聞いたところで何の救いにもならない。

 そう言う意味では、ここは決して天国たり得ないなと思う。



 地獄への道はそう言う無気力で設計されているものかも知れない。

 あの幼い娘はどんな道を歩くのだろう。

 誰の善意がその道を舗装するのだろう。

 幼い子どもの生きる道を少し想像してみるけれど、ぼくには何もわからない。



 実に反社会的だけど、ぼくは子どもを持つ予定が無い。

 それはぼくが持つ遺伝性の病気(正確に言えば遺伝する確率は五割、つまり医学的にもよくわかっていないと言うことだ)が理由でもあるし、あの大声で泣き喚くだけの未熟な状態で生まれてくる生物と何年間も過ごすなんてのは耐えられそうにないからだ。

 もしぼくの病気が遺伝しない子供が生まれたとして、その後に訪れる事を想像しただけでうんざりする。

 だからぼくはあの母親を尊敬する。



 ぼくは子どもが嫌いだ。

 だからできるだけ働いて、そうして働けなくなったら死ぬと言う義務があると考えている。

 社会倫理がそれを許すかよりも、生と死の倫理として考えれば当たり前のことだし、その頃には安楽死が選択できればいいなと思う。

 銃社会になっていてくれると助かる。

 いつでもこめかみを打ち抜けるサイズの銃さえあればいい。



 月曜日が嫌いなだけ?

 そんな事をする気は無い。少なくとも、今は。

 自分の死ですらコントロールしたいと言うのは投げやりで雑な生き方の割にはとても不遜な態度だと思うけれど、逆に言うとそれくらいは許されたい。 大きな幸せも、大きな不幸も必要としていない。小さなひとつの死が残されていれば、その小さなひとつの幸せで足りる。

 きっとそんな人間は少なくないと思う。そうでないなら、尊厳死なんて周りくどい言い方をしたりしないだろう。



 ショートホープを吸ったり缶コーヒーを飲んだりするのは緩慢な自殺と言える、なんてことは散々言われてきた。

 それも自死をコントロールすると言うことの一種だろう。逆に自分の生をコントロールするとはどう言うことだろうか?



 ショートホープを吸わない事とか缶コーヒーを飲まない事とか、ジムに行ったり自転車に乗ることじゃない。

 ぼくは知っている。

 でもそれはもしかしたらショートホープという名前かも知れない。ぼくが知っているのはそういうことだ。



 希望。

 ぼくの部屋には君の写真と君が描いた絵を飾ってある。

 ぼくはぼくのエゴイズムとして君をフォトフレームや額縁に閉じ込める事をしなかった。

 そしてぼくのエゴイズムとしてキャンバスに垂らした絵の具の上にそれらを重ねた。

 君の為ではなく、君を喜ばせる為でもなく、ぼくのエゴイズムとしての行為である事は間違いない。



 その結果として君の血を騒がせる事になったのは喜ばしい事だと思う。

 ぼくは君が好きだ。だからそうしたかった。

 いま君の血と心や精神、言ってしまえば脳みその数パーセントを占めているのはぼくだろうと思う。

 

 自惚れが過ぎるだろうか。

 でもぼくたちは毎週の様に会って話をする。

 ぼくは君と話をするのが好きだし、きっと君もそうなのだと思う。

 ぼくには大した金銭的価値も社会的地位も無いし、肉体的にも優れていない。

 だからきっと他の点、つまりぼくの本質的な部分がきみに好かれているのだろう。

 それはぼくが生きていて良いのだと言うことであり、いましばらくは死ぬのが勿体ないなと思う理由でもある。



 実のところ、ぼくの血だとか心だとか精神、つまり脳みその何パーセントかを占有しているのは君で、もし仮に恋がそう言うことを定義するのであれば、きっとこれは恋なのだろう。

 もう恋愛なんてしないと思っていたが、まるで目の前を横切る猫のように唐突に現れた君に対して、どうやらぼくは恋をしているらしい。



 君がどう考えているかは知らないけれど、ぼくは君が誰かのものである事に耐えられない。

 君がぼくのものになる保証や安心が欲しいのでは無く、ぼくがぼくのエゴイズムとしてぼくの脳みそを君に占有させ続けたいし、ぼくのエゴイズムとして君の脳みそを占有していたい。



 ぼくはぼくで生活していけるので、ぼくの生活や他のことを支えて欲しいとか応援して欲しいと言った願いはない。

 食事を作ってくれなくていいし、掃除や洗濯だってしなくていい。

 そこにいてぼくと言う存在を肯定してくれるだけで十分だ。

 つまり、ぼくの脳みを占有してくれていればいい。幼い言い方をすれば、遠くにいかないで欲しい。


 そこにいて欲しい。

 猫のように好き勝手な散歩をして、気が向いたらぼくのところに戻ってくるなんてことを想像しただけで暗い気持ちになる。

 部屋に閉じ込めたい訳じゃないし、ぼくの帰りを待っていて欲しいわけでもないけど、絵の具みたいに混ざってしまおうなんてのはきっと都合がよい寓話だろう。



 遠くで電車が走る音が聞こえる。

 ぼくと電車の間は遠すぎて甘い匂いは見えない。黒猫はいまどこにいるのだろう。

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