とある悪役令嬢の話 皇国の皇子視点
月光のような銀髪を持つ皇国の王子――アレクシス=ヴェルンハルト。
世間は、俺のことを「優秀」「将来有望」「欠点がない」「文武両道」「完璧な美貌」などと、好き勝手に評している。だが、俺はただ、皇子としてすべきことを淡々とこなしているだけだ。美貌に関しては、親譲りだからどうしようもない。
「無学な皇子」「頭脳だけの皇子」――そう呼ばれるのは絶対に嫌だった。だからこそ、剣術も学問も礼儀も、最低限以上の水準で身につけてきた。
だが、最近は少々面倒になってきた。自国では貴族の令嬢たちの視線がやたらと痛いし、親もそろそろ婚約者を決めようと動き始めているらしい。
……やれやれ、厄介ごとから逃げるにはちょうどいい頃合いだ。社会勉強と称して国外を巡ることにしよう。幸い、五か国の言語は不自由なく話せるし、優秀な部下もいる。護衛を二人ほど連れていけば問題はないだろう。
そう考えた俺は、両親に「他国を見ることも皇子としての学びになる」と申し出た。結果、拍子抜けするほどあっさりと許可が下りた。
――そして今、俺はとある王国の図書館にいる。
そこで出会ったのが、一人の女性だった。
彼女は山のように本を積み上げ、次々とページをめくっていく。
その熱心な姿を見て、最初に浮かんだ感想はただひとつ――「本好きだな」。
彼女は毎日、同じ時間に現れては同じ席に座る常連らしい。
だが、当時の俺は別の目的でこの図書館に通っていた。
――転移陣に関する文献を探すためだ。
我が皇国にも転移陣は存在する。だが、どうしてもその陣は巨大になり、実用性に欠ける。
一方、この王国では“小型転移陣”が発明されたという噂を聞いた。
それを確かめ、できれば手に入れたかった――それが、俺の真の目的だった。
……結局、独力での探索は諦めて、司書に尋ねることにした。
すると、ちょうど探している転移陣の本を、あの女性が手にしているという。
――仕方ないな、直接借りてみるか。
俺は軽く息を整え、完璧に作られた笑顔を浮かべて、彼女に声をかけた。
「すみません。転移陣に関する本を探しているのですが」
その瞬間、彼女ははじめて顔を上げた。
目が合う。――赤い瞳だった。
情熱の色、と一瞬思った。
黒髪との対比が見事で、思わず見とれてしまう。
「転移陣の、どんなことを調べたいのですか?」
透き通るような声だった。穏やかで、けれど芯のある響き。
「転移陣の……実用化、というか、簡略化というか……」
言葉が途中で途切れた。なぜか、上手く言葉が出てこなかった。
「小型転移陣ですね」
彼女はすぐに察したように微笑むと、手元の本を開いて数ページを示した。
「それなら、この本のここからここが最適だと思いますよ。
あ、もし既存の陣式を改編するおつもりなら、こちらの本をおすすめします」
そう言って、彼女は棚からもう二冊を取り出し、合計三冊の専門書を俺に差し出した。
「……借りてもいいのですか?」と尋ねると、彼女は小さく首を振った。
「必要なことは、もう全て覚えました。今は確認していただけですから」
そう言って柔らかく微笑み、積み上げていた他の本を静かに片づけ始める。
「それでは、予定がありますので――失礼しますね」
その一言を残して、彼女は本の山を抱え、ゆるやかに去っていった。
残されたのは、三冊の本と、胸の奥に妙な余韻だけだった。
彼女の選んだ本は、驚くほど的確だった。
気になったので、彼女について護衛に調べさせた。
――そして報告を聞いた瞬間、俺は思わず息を呑んだ。
「……王子の、婚約者だと?」
思いもよらぬ言葉が告げられ、胸の奥にちりりと小さな痛みが走った。
そんなはずはない、と理性は言い聞かせる。だが、その痛みは確かに存在した。
気のせいだ――そう思いたかった。
調査の結果で得られた転移陣の情報は、すぐに整理して速達で皇国へ送っておいた。
実りある成果を得たのだ、彼女に感謝の一つくらい伝えるべきだろう。
……とはいえ、いきなり待ち伏せるのは、どう考えても不審者の行動だ。
結局、あの図書館しかない。
彼女がいつもの時間に現れるのを待つしかなかった。
そしてその日、彼女はいつも通りに現れた。
俺は席を立ち、できるだけ自然に近づいて小声で話しかける。
「先日はありがとうございました。とても助かりました」
彼女は穏やかに微笑んで答えた。
「いいえ、どういたしまして」
その笑顔に、一瞬だけ時間が止まったように感じた。
……微笑む姿も、悪くない。いや、むしろ――。
「何か、お礼でも――」
言いかけた瞬間、彼女は周囲を見回し、声を少し落とした。
「……少し、話せる場所に行きませんか?……アレクシス皇子?」
――心臓が止まるかと思った。
「何故、それを……」
俺は、平常を装うのに精一杯だった。
「その美貌は、一目見たら忘れられませんわ」
どうやら、彼女は俺を知っていたらしい。少し、親に感謝した。
「もう、すでにお調べになっているとは思いますが――」
彼女は周囲を気にしながら、声をひそめて言った。
「現王子、レオンハルト殿下には問題があります。彼が王となり、そしてあの生徒が王妃になったら……きっとこの国は傾きます。だから、その前に――皇国の属国として保護していただくのが、最善だと私は考えています」
淡々とした口調の中に、確かな覚悟があった。
俺は思わず息をのむ。
この小柄な女性が、国の命運を冷静に見据え、進言している――。
彼女はさらに続けた。
「もし、私が婚約を破棄されたなら……その時は、この国を滅ぼしてください」
「……」
「けれど、もし婚約が続くのなら、その時は――皇国と、この国の友好を深めましょう」
俺は思わず口を開いた。
「……君のように優秀な人を、婚約破棄するなんて――あり得ない」
彼女はふっと目を伏せ、悲しそうに、けれどどこか諦めたように笑った。
「ありがとうございます。……では、今回のお礼は“もしもの時の保険”にさせてください」
その声は静かで、美しく、妙に胸に残る響きだった。
「何も起きなければ、今の話は――どうか、忘れてくださいませ」
そう言って、彼女はそっと立ち上がる。
その横顔を見送りながら、俺は何も言えなかった。
――短い時間だった。けれど、あの会話は確かに、濃密だった。
そして、なぜか胸の奥に、消えない余韻が残った。
彼女と数度のやり取りの後、俺はその王国を去った。やるべきことが一つ増えたのだ──彼女の転移陣が起動した瞬間を捉え、奇襲をかけること。親や周囲に話を通し、根回しを済ませ、兵を用意せねばならない。すべてを万全にしてから動くつもりだった。
だが、もう一つ気がかりなことがあった。もし婚約破棄が現実になったら、彼女はどうするのか――。聡い彼女だ。きっと考えているだろう。
結果、まさか俺の目の前で消えるとはな。嘘だろ。
俺は最も魔力に長けた部下を呼び、至急命じた。
「彼女の魔力を拾え。急げ」
人それぞれ魔力には特徴がある。たとえ僅かでも、その痕跡があれば辿ることができる。皇国では常識だ。彼女は、知らなかったのか……?
部下は装置を操作し、転移陣の残滓を探った。やがて、報告が来る。
「……拾えました」
「辿れるか?」と俺は問う。
「……遠いので、ぎりぎりです。もし彼女が移動したら、追跡は難しくなります」
「ならば追え。位置を確保し、動きがあれば直ちに報告しろ」
俺は命じた。……俺は、今この場を収める必要があった。
今の俺には、解決すべき事柄がある——皇国の利益と、そして、あの女性の行方。
しばらくは、君を風のように自由に遊ばせておこう――夜露に濡れる花のように、束の間のやすらぎを。
その間に、俺は密やかに備えを整える。月明かりの下で練った策も、剣も、言葉も、すべて君と出会うための糧にして。
必ず君を見つけ出してみせる。巡り合うその瞬間、身も心も――覚悟しておけ。
今度は逃がさない。君を抱きしめるために、俺は世界ごと手繰り寄せるだろう。
 




