火を持たぬ者たちの灯を、見逃さないために
翌朝、リュミエール魔導局・インフラ管理課は、騒然としていた。
南西区の温度制御装置――通称〈風の心臓〉が突如停止し、広域の冷却機能が遮断されたのだ。
「このままだと、昼にはあの区画が四十度近くまで上がります!」
「商店街の氷室はすでに機能停止。魚介も乳製品も全部腐るぞ!」
怒号と悲鳴が飛び交う中、指令室の片隅で、アイリーンは一人の若い技術官と向き合っていた。
「魔導管のどこで詰まりが発生したの?」
「い、今のところ不明です。ただ、術式反応の履歴が不自然に……」
「いいわ。手順は飛ばす。制御中枢のルーン構造に直接アクセスするわ。下手すれば焼き切れるけど……今の私なら、やれる」
目を伏せる若者に、彼女はかすかに笑った。
「大丈夫。もう“失敗してはいけない”って怯えるの、やめたの。だから、手を貸して。あなたの情報が必要」
* * *
制御塔へと通じる細い階段を駆け上がるアイリーンの姿は、どこかかつての彼女とは違っていた。
自信に満ちた歩幅。だが、そこには傲慢さはなかった。
「……完璧でなきゃ意味がないと、思ってた」
塔の中枢部へ入り、魔導盤を睨む。
ルーンは複雑に絡み合い、誰が手を加えたのか一目で分かるような雑な改変があった。
「これ、あいつの仕事ね……」と呟いたのは、かつて任務を争った同期の名を思い出したからだ。
“上”に選ばれたあの男。凡庸な術師。けれど、信頼と組織運営には長けていた。
(……まさか、あの任務がうまく行っていない?)
「……後回し。今はこっちが先」
アイリーンは魔力を流し始める。
彼女の得意な〈三重詠唱〉――火・風・水の魔素を同時に操る、高難度の術式だ。
全身から汗が噴き出す。魔導盤が震え、制御盤の奥で光が脈打った。
――あと少し。あと……
「ここ、追加ルーンが干渉してる! でも解除手順がない……!」
後ろから、青年技術官の声。
「私がやる。……術式を切らずに、この状態のまま導管接続を切り替える。失敗すれば、心臓部が燃え尽きるけど」
アイリーンは口元を引き結び、腕を伸ばした。
「……火を持たぬ者にはできない。けど、私はそれを“持っている”。誇りでもなく、プライドでもなく、責任として」
魔導盤が青く光った。
その瞬間――制御塔の全体が、光の網に包まれる。
* * *
「制御系、安定! 温度下降が始まったぞ!」
「よっしゃあああ! 生鮮市場、守った!」
魔導局内に、歓声が湧く。
だが、その中心にいたアイリーンは、冷たい床に座り込んでいた。
魔力を使い果たし、意識が遠のきかけている。
「……ふ、不器用なんだから。もっと分担してくれていいのに」
技術官の青年が、タオルを差し出す。
アイリーンは、疲労に滲む笑みを浮かべて、それを受け取った。
「ありがと。助かったわ。……本当に、火を持ってるのは、私だけじゃなかった」
* * *
その日の夕方、彼女は再び配線図の前にいた。
事故後、自ら設計していた新型の安定魔導網――それが、今日の再起動を可能にした。
だが、それは彼女一人で完成したものではない。
若い技術者たちとの協力。現場の声。過去の失敗。
すべてが、彼女の“才能”に血を通わせた。
「私が選ばれなかった理由……少しだけ、分かった気がする」
彼女の“炎”は、目立たない場所で静かに燃えている。
それは、都市を支える者たちの共通の炎――
火を持たぬ者たちの灯を、見逃さないために。