火のない場所で、燃えていた
リュミエールの東区、魔導局管理棟の最上階。
天才魔導士アイリーン・ヴィステルは、椅子に浅く腰掛け、磨かれた指先でペンをくるくると回していた。
「……あんな凡庸な奴が《聖堂任務》?」
彼女の机には、正式任命の辞令書の写しが置かれている。
そこには、かつて魔導学院で彼女よりも劣るとされていた同期の名前が、誇らしげに刻まれていた。
「“実績”も“能力”も、私の方が上だったはずよ。なのに……“上層部との信頼関係”?“協調性”? 笑わせないで」
ペンを止め、机を強く叩いた。薄い震動が書類の山を震わせる。
アイリーンは、生粋の才人だった。
入局試験は歴代最年少で合格。元素精製理論と多重詠唱制御においては、数十年に一人の逸材とさえ言われた。
だが、彼女は今、インフラ部門に所属していた。
任務内容は、都市内の魔導水路や気候調整機構の定期管理。
派手な戦闘もなければ、政治的交渉もない。誰にも称賛されることのない地味な仕事。
才能をもてあましながら、アイリーンはこの任務を“島流し”と受け取っていた。
「コネと愛想が物を言う世界ね。天才が評価される時代は、もう終わったのかしら」
彼女はいつもどおり冷たい笑みを浮かべ、次の監査指令を片手に起き上がった。
それが、あの事件の始まりだった。
* * *
それは、小さな“魔力滞留”から始まった。
南部の住宅区で、魔導水路の一部が過負荷を起こし、水流制御魔術の不安定化が発生。
本来なら自動調整機構が働き、被害は防げるはずだった。
だが、その日は違った。
数時間後、地下水路が破裂。
水と共に蓄積された魔素が噴出し、周辺の住宅十数棟に被害が出た。
「……私の配線指示に、問題があった……?」
アイリーンは監査室でデータを確認していた。記録映像、魔素流量図、異常値ログ。
避けられたはずの事故だった。
事故原因が正式に“人的ミス”と断定されると、街の空気が変わった。
新聞には《魔導局の怠慢》《無責任な管理体制》と見出しが踊る。
そして、何より――街の人々の“視線”が、彼女を刺した。
「あんた、魔術師なんだろ? どうして防げなかったんだよ」
「俺たちの暮らしなんて、どうでもいいのか?」
「天才様は、汚い仕事なんて興味ないもんな!」
アイリーンは黙ってそれを受けた。言い返す気力もなかった。
彼女は今、初めて“責任の重み”に向き合っていた。
* * *
そんなある夜。
魔導水路の現場を自ら視察に訪れた帰り道。
彼女は、ひとりの老婆に呼び止められた。
「……あんたが、管理の魔術師さんかい?」
「……ええ、そうですが」
「このあいだの事故、大変だったね。でも、水、すぐ戻ったよ。風呂にも入れたし、炊事もできた。ありがとねぇ」
老婆の皺だらけの手が、アイリーンの手を包むように握った。
「皆が文句言うのも、わかるさ。怖かったもの。でもね、あんたが黙ってても、あの日からずっと水路の修理してくれてるって、皆、知ってるよ。わかる人は、ちゃんと見てるからね」
その瞬間――
アイリーンの胸の奥に、何か熱いものが込み上げた。
誇りでも、涙でも、赦しでもない。
それは、理解されたことの喜びだった。
自分の仕事が、誰かの暮らしに繋がっていた。
それは舞台の表ではない。光を浴びる場所でもない。
けれど、確かに――この街を支えていた。
彼女ははじめて気づいた。
自分が重要任務につけなかった理由は、コネではなかった。
それは、彼女の“才能”が、もっと別の場所――都市そのものの命を守る場所に必要とされていたからだった。
* * *
その翌日、アイリーンは魔導局の廊下を歩いていた。
その表情は変わらず冷静で、どこか気高い。
だが、背筋はいつになく真っ直ぐに伸びていた。
「さて……配線図、もう一度見直しましょうか。今度は、無駄のない設計にする」
才ある者は、必ずしも前線に立つ必要はない。
街の背骨となり、静かに支えることもまた――英雄の姿のひとつなのだ。