倫理的にタクシー
カラスの時報が鳴って、午後五時を過ぎたあとのことだった。近所の住宅街がいっせいに換気扇を回し始め、外には甘い醤油の匂いが漂っていた。僕は日課の散歩で公園にいた。夕飯時で、遊びに夢中だった小学生も優等生から段々帰りだし、僕は最後の悪ガキたちと入れ替わるようだった。いつもなら気にも留めない砂場が、この日はやけに目に付いた。あまりに気になってそこを掘ると、すぐに埋まっているものが出てきた。水晶だった。水晶は片手に収まるほどの大きさだった。覗くと中には裸の女が死んだように眠っていた。
天井に監視カメラを取り付けたような斜め上からのアングル。仰向け。ベッドの上、毛布も布団もかけず露わに眠っている。寝返りは打たない。けれど静かに胸が上下しているため死体ではない。髪は肩に届くくらいで乱れている。どうやら寝入ったばかりではないらしい。ベッドの周囲の様子については棚の足と、フローリングの床が少し見切れているだけ。拾った水晶による覗き行為、その圧倒的優位も助けて、この女の素性は知らないが、何だかすごくエロかった。
きっとエロいから捨てもせず持ち帰ったのだろう。それからというもの僕の生活の中心は水晶の女に置き換わった。生活の流れやすること自体に変わりはないが、結局すべての行動が水晶を目的とするようになった。食事は水晶のためにとるし、一ヶ月後も水晶と睨めっこしているために出社するし、また明日健やかに水晶を眺めるため布団に入る。布団に入っても、水晶を覗きたくて眠れず、夢うつつに水晶が見たくて、やっと眠ったと思えば水晶を夢にみて、水晶を見たいがためワクワクして早朝に目が覚め、さっそく水晶を覗いて、そうかこの人は僕の代わりに眠ってくれているんだと彼女に感謝して、朝ごはんを食べながら水晶を見て、別れを惜しみつつ会社へ行って、終業までずっと水晶のことを考えて帰ればやっと水晶を見て生きている実感を得る。これらはすべて性欲に基づくことだろう。だが性欲にしても、これだけ特別な想いで特別な相手に対してなら、よっぽど崇高な時間を送っているみたいで、僕にとってはこの水晶を覗くだけの生活が楽しくて仕方なかった。
水晶を拾ってから一週間ほど経った夜、いつものように水晶を覗き込んでいると、中で眠っていた女が突然目を覚ました。平和な朝に起きるみたいで欠伸を一つ、瞼の上を右腕で擦り、それから彼女は明らかに水晶の向こう側にいる僕のことを見た。そして僕らは硬直したまま十数秒間見つめ合うと、先に彼女の方が崩れるようにして状態をベッドへ落とし、再び眠りについてしまった。
僕はショックだった。安全な覗きで遊んでいたはずが、もしかしたら向こうがこちらの存在に気づいたのかもしれない。一週間あぐらを掻いていた覗きの優位を、たった一度の覗き返しで破壊されてしまったのだ……まさか。本当にこちらが見えているはずはない。水晶はPCと違ってマイクもウェブカメラも付いていない。完全に受信専用。こちらから送信する映像などありはしない。しばらく見つめ合ったのも単なる偶然が引き起こした僕の勘違いで、彼女自身、何事もないから安心したのだろう。この通りまた寝てしまったじゃないか……彼女はこれまでとは違った、右半身を下にする体勢で眠っていた。
過ぎてみれば、このバレるかもしれない緊張感がスパイスに、加えて定期的に変わる体勢、僕は更なる時間を水晶に費やすのだった。
しかしあるときこの水晶の種を見破ってしまうと、途端に週を跨ぐにつれ、以前のような熱は冷めていった。つまり水晶の女は、毎週月曜の夜九時ピッタリに目を覚ますのである。そして七秒間ほどこちらへ顔を向け、睡眠状態へと遷移する。このときの寝る体勢はランダムであるが、それ以外の動きは寸分の狂いもなく、ただただ毎週再現されているだけで、この女は実際に生きている人間でない可能性が極めて高いのだった。
とはいえ、すでに生活の中心となっていた水晶をいきなり手放すことなど僕にはできなかった。むしろ僅かに残っている可能性のことを思うと、それを知らないまま捨てるのが怖くなり、今に本物の人間らしい行動をとるんじゃないかと、その結末を確認するためにまたしても水晶を覗き続けた。集中力はなく、至って作業的な覗きだった。
熱中しないでも、その作業が嫌でないなら勝手に時間が過ぎるもので、そうやってぼぉっとすることが日々への安堵を得る方法らしい。そんな作業哲学を見出すくらいには時間が経った頃だった。ある面識のない男の訪問があったのである。しかも無断で、ある月曜、会社から帰って玄関を開けるとすぐにその男が目に入った。チノパン水色シャツ。床に胡坐をかいてノイズの鳴っているラジオを膝の横に置き、僕の水晶を目線上に掲げて室内ライトで透かすように眺めていた。
「……誰ですか。ここは僕の部屋ですよ。水晶を放してください。」
「待ってください。勘違いしないでください。ボクは、怪しい者じゃないんです。その……アナタなら分かってくれると信じて言わせてください。」
「何のことですか。早く出て行ってください。警察呼びますよ。」
「待ってください。証明しますから。きっとこれを聞いてもらった方が早いです。このラジオです。こちらに来てもらうのは……難しそうですね。ほら、水晶と一緒にここに置きますから。取ってください。」
男は数歩こちらへ近寄り、宣言通りにラジオと水晶を床に置くと、元のいた位置よりもさらに後ろへ、壁に突き当たるまで戻った。
「その二つを手に取ってよく比べてみてください。どうぞ。ボクはこの通り、部屋の中でアナタと最大限距離を取りますし、気休めでしょうが両手も挙げます。膝も付きます。お願いです。きっとボクらは仲間なんです。だからどうか待ってください。」
その男があんまり懇願するものだから、僕は責め立てる気も失せ、指示されるままラジオと水晶の関係を探ることにした。さすがに相手を信用しきったわけではなく、男が反撃を仕掛けてこないか、向こうに目配せつつ動いたが、男は本当に何かを証明したいだけの様子で、僕がラジオと水晶を取りにいく間ずっと無防備なポーズを維持していた。
ラジオのスピーカー部分を耳に当て、同時に水晶を覗いてみる。
「どうですか。分かっていただけましたか。」
「……なるほどね。これはなんと言うか……。」
ラジオからは微かな寝息と、静か過ぎる空間の軋みがノイズの上に流れていた。それと水晶の中の景色とを見比べてみれば、確かに同じ場所で録った音らしい。ラジオ電波の遅延があるにしろ、ぐっすり眠る女の寝息はペースを保っている。映像と音は容易く合致した。
「分かっていただけたようでよかった。そうです。ボクはそれについて話をしに来たんです。」
「話ですか……。このラジオはあなたのものですか。」
「はいボクのです。」
「なるほど。仲間って言ってましたね。確かに、ラジオでは音だけが情報ですから、僕と違って嫌というほど想像力が働いたでしょうね。気持ちは分かります。けど残念ですが、これは本当に大したことじゃなかったんです。」
「どういうことですか。」
「つまりですね、この水晶にいる女の人は本物じゃないんですよ。もちろん僕も最初は本物だと思っていましたよ。でも彼女、毎週月曜の夜に決まって目を覚ますんです。」
「やっぱり目を覚ましてたんですね。ラジオで呼吸の仕方が変わるのを聞いてました。」
「はい。しかも起きる時間、そのときの体の動きからもう一度寝付くまでの秒数までまったく同じなんです。毎週狂わずです。きっとあなたのラジオでもそうだったでしょう。こんなの、3Dモデルを使ってるのか、いくつかの録画をループさせているのか知らないが、おまけに音声を別分けなんかして、本当にたちの悪いいたずらですよ。」
「怒ってらっしゃいます?」
「いや、大丈夫です。怒ってませんよ。」
「そうですか。なら良かった。」
二人の会話がだいたい落ち着くと、改めてこの場の異常性を意識させられた。時計に目をやると夜九時。狭い自宅で不法侵入者と意外にも打ち解け合って、それぞれラジオと水晶を持ち寄り、それぞれがそれらに振り回されている。急速落下で終わった夢のような現実感。呼吸音ばかりだったラジオの内容に変化があった。
~~~~~~♪。
知らない女性シンガーの歌だった。なんだかとても平成の夕方のにおいで、歌詞は純喫茶でのあの頃の思い出について歌っていた。
「ん、なんの歌だろう。」
「何って、いつもこのくらいに流れる音楽ですよ。毎回これなんです。」
「へえ、これが目覚ましだったわけだ。そうだ。せっかくだから彼女が目を覚ますところ見てみたらどうですか。ずっと音だけだったんでしょうし。見たいでしょう。」
「マジですか! じゃあせっかくなんで一緒に見ましょうよ。」
男二人で水晶を覗き、起きるところ、十数秒間見つめ合うところ、最後に倒れ込むように寝るところまで鑑賞した。僕にとって新たに音ありだったとはいえ、特に予想外の出来事はなく、強いて言えば、ベッドの柔らかさが映像だけよりも際立っていたくらいだった。
「やっぱり動いてるのを見ると尚更ステキですね。ボクなんて寝息を聞くだけでこの人に夢中だったんですから。多分、ボクこの人のこと好きなんですよ。こんな変な出会い方ではありましたけどね。」
真横でこんなことを不法侵入者の分際で語るので、ラジオから漏れるノイズまじりの平成ポップが余計にむず痒かった。
「今日は勝手にお邪魔したのに、こんなにおもてなしして頂いて本当にありがとうございます。でもこれ、本当に貰っちゃっていいんですか。」
「いやいいですよ。僕はもう必要ないですし。」
「ありがとうございます。こんなこと言うのも変ですけど、今日は勇気出してよかったと思います。じゃあこれ頂いますね。それじゃあ!」
「はい。気を付けて。」
男を玄関で見送った後、外に救急車のサイレンが近づいていた。それからしばらく停まってまたどこかへ走りはじめると、普段よりドップラー効果が少しだけ緩和して聞こえた。