【閑話】メンフィスの歪んだ初恋その3
アニエスはオールを任され文句も言わずに、舟を漕いだ。
それを対面からメンフィスは腕を組み足を伸ばし眺める。
もちろん、そこまで広くない舟のこと、足を伸ばしたらアニエスが座っているところまで足は届いてしまう。
なのでアニエスは自分のお尻の横にあるメンフィスの足を気にしつつ、やりにくい形で舟を漕ぐしかなかった。
(……こいつ、ここまでやられて今まで一度も文句を言ってこないな?)
メンフィスは、アニエスにここまで自分がとる態度にどう出るのかを観察していた。
いつ怒るのか、いつ怒るのか? と思っていたが、一向に怒ってくる気配はない。
普通なら舟の漕ぎ手を貴族令嬢が任されようものなら、舟に乗る前に怒ってどこかに行ってしまうはずだ。
なのに素直に応じて自分の言うことを何でも聞くその態度に、メンフィスは内心二ヤリとする。
(……案外、こいつとの婚約は悪くないかもしれないぞ?)
こんな風にもともと何をされても文句を言わない相手だ。
ここで、メンフィスが自分の方が圧倒的に上の立場なんだと植え付けておけば、この少女は自分の言いなりになるだろう。
婚約者の立場になれば、おそらくここにもよく通うことになる。
まるでおとぎの国の様な贅沢も権力も美しい住人達も、ほぼ自分の意のままに利用できるに違いない。
(魔力無しだと、子孫にうつる疾患を言い訳に子供が作れないからと、堂々と側室は持ち放題。浮気もし放題。おまけにこの家の子なら持参金も驚愕するような額だろう。それを元に結婚してからも相当の贅沢ができるぞ?)
正直、この時のメンフィスの性根は腐りきっていた……。まさにクズ。
「ふう、恐れ入ります。少しだけ休憩を……」
アニエスがそう言い、オールを漕ぐのをいったん止め、額に流れる自分の汗をハンカチで押さえた。
額、頬、鼻、首筋と徐々に押さえる位置は下がっていく……。
「………………」
目を伏せるとアニエスの上下の蜜色の睫毛がいかに長いかがよくわかる。
真っ白な象牙色の肌は熱くなり、薄っすらとピンクに染まり、唇は血が滲んだように赤い。それに、全体的に細いが少女らしいしなやかさがあり、ほんのりだが胸も膨らみだしていた。
(…………一石二鳥のいいことを思いついたぞ?)
メンフィスはこれは絶対に上手くいくに違いないとほくそ笑む。
「……アニエス様は趣味はございますか?」
アニエスはメンフィスがようやく自分から話し掛けてくれたことに反応し、弾けるように顔を上げた。
「え、あ、はい………ございます。けれど、あまり一般的ではないかも……」
「そうなんですね。でも、聞いてみたいな!! ……どうかお教えください」
「は、はい!! そうですね。まずは薬の調合が好きです」
「へえ、それはまたすごいですね!!」
「いえいえ…………私の先生はそれこそ権威といってよい実力ですが、私などはまだまだでして……」
「そういえば、聞かせていただいたフルートも素晴らしかったなあ。音楽もお好きなのですか……?」
「嫌いではありません。ただ、音痴なので歌はちょっと……」
「フルートがプロ並みの腕前なので、逆にそちらの方が親近感が湧きます!」
アニエスは急に相手が饒舌になったのが嬉しくて、どんどんと話す。それをメンフィスはうんうん頷いて聞いた。
「私のことばかりでなく……メンフィス様のご趣味こそ伺いたいです!」
「えー……僕の趣味ですか?」
そこで、メンフィスはようやく来たその時に微笑んだ。
「……僕は、女の子をぶったり押したり首を絞めたり、ナイフをちらつかせるのが好きですね?」
「え………………」
アニエスは思ってもみない言葉に固まった。
「ご、ご冗談ですよね?」
「ええ、まあ…………」
すると、メンフィスがおもむろに何事か唱え、つむじ風の様な突風がアニエスに何度も襲い掛かる。
「きゃっ……!!」
(……えっ? 今のって)
アニエスが驚いてメンフィスを見ると、メンフィスは笑っているだけで黙っていた。
もう一度メンフィスが何事か呟いた次の瞬間。シュルシュルと今度はアニエスの服が下から捲れあがって、ドロワーズは逆に下に下にと下がろうとする。
「!!?」
アニエスは、必死に自分の手で抵抗するも、おさえた場所以外の衣服がまるで言うことをきかない。
さらに、アニエスの身体がわずかに宙に浮き、半分以上が湖に乗り出した。
「これで、僕の話を信じてくれますか?」
「!!」
メンフィスは本当は普段から女子を痛めつける趣味があるわけではない。
……しかし、その願望は密かにあった。
そこで得意の虚言を吐きつつ、魔法が使えず抵抗が出来ないアニエスを、実際に丸裸にして湖にいったん落とし、それで恐怖を植え付け弱ったところで……「自分の言うことを聞かなかったり、あるいは周りに訴えでもすれば、もっともっと酷い目に合わせてやる!」と言って完全に己の支配下に下そうとメンフィスは考える。
とはいえ、メンフィスの魔法は少年のそれであり、いまだ安定的なものではない。
それゆえ、まるで弄ぶのを楽しんでいるかのようなフリをしながら、魔法をかけ直すためにいったん元の位置にアニエスを戻した。
アニエスは元の位置に戻され、そのまま小さくうずくまる。
「ふふふ、怖かったんですか?」
メンフィスはわざと煽るように言った。
「………………っ」
「……え、聞こえないですよ? 魔力無し」
メンフィスはアニエスが恐怖で震え、「止めて」と訴えているのだとてっきり勘違いする。
だが、それは全く違った。
「なるほど……貴方は本当にそうゆう方ということですか……」
はっ? と、メンフィスはそのアニエスのあまりに静かで冷めた話しぶりに、一瞬聞き間違いかと考える。
けれど次の瞬間、首の横をあまりに強い衝撃で打たれ、メンフィスは脳を揺すられた。
(………………っえ?)
アニエスはゆっくりと立ち上がり、メンフィスを見下ろす。
「もう、我慢の限界です」
その瞳に映る凍えるような冷たい怒りに、メンフィスは短くヒュッと息を吸った。
刹那、アニエスがずぶりと自分の指をメンフィスの身体へと刺す。
「…………?」
とはいえ、針や刃物で刺されたわけでないこれ自体に痛みはなく……。いったいこれで何がしたいのかはわからなかった。
アニエスは静かに言う。
「貴方は人の気持ちがどうやらお分かりではないようです。でしたらーーー」
アニエスがキッと睨んだ。
「一度、なってご覧なさい?」
「???」
メンフィスはアニエスの言葉の真意がわからず、混乱した。
一方アニエスは舟のオールを舟のオールクラッチから両方手際よく外すと、脳が揺すられまだ動けないメンフィスのその目の前で、自分の膝を使ってバキリとへし折った。
それを、そのままボチャボチャボちゃーーんと湖遠くへと放り投げる。
「!! え………………な…………っ!?」
「……どうされたんですかメンフィス様? どうせメンフィス様は最初からオールを使わないのだから関係などないでしょう?」
次いでアニエスは靴を脱ぎだした。
舟に元々備えてある浮き袋を湖に投げ、確認を終えると体重が無いかのように舟の先端のへりにスッと立つ。
「……申し訳ありませんが浮き袋はあの一つだけなのですよ。でも、今が初夏で良かった! ………例え着衣水泳が難しくとも、全裸になって泳げばいいだけですものね?」
アニエスは妖艶ににっこりと微笑む。
それは先ほどまでのオドオドとした実に素朴で素直な少女と同一人物とは信じ難いほど、ゾッとするほど美しく冷酷だった……。
「さようなら」
アニエスはそう言って、立ったまま真っすぐと綺麗な形で湖に飛び込み、投げた浮き袋を掴むと着衣のまま、すいーっとあっという間に泳いで舟から離れて岸側へと行ってしまった。
メンフィスは湖の真ん中。オールの無い舟にポツンと残され呆然とする。
こうしてアニエスからここまでの悪事の報復を受け、メンフィスは取り残されたのだった。
これはそれから後の話である。
案の定、こんなことがあったのでこの婚約話の件はあっけなく破談となった。
しかも、泣く泣く裸で湖を泳ぎ切ったメンフィスは、そこで何故か犬にまで噛まれるという不幸に合う。
それにロナ家の人々は……。
「まあ、犬も知らない人物が裸で湖を泳いでいて、不審のあまり、怖くて噛んだんでしょう……。普通に怪しすぎるもの」
と言ったが、エースはそれににっこりと微笑み。
犬……ジャスティスの頭を撫でながらうんうんと同意した。
「そうだね? ジャスティスは番犬としてあまりに優秀だから……」
とはいえ、アニエスもさすがにメンフィスを『魔力無し』にまですることは無かったと、その日のうちに大いに反省して何度も何度も……それこそ最初のひと月余りは、毎日、手紙を出し続けたが返事は一向に返ってこなかった。
だが、これにも実は裏の事情が関与していて……。
「エべンさんが、あのままメンフィスさんを放置して裸で泳がせたのにもびっくりしたけど、お嬢様から来た手紙をメンフィスさんより先にチェックして九割を捨てた上、特にお嬢様のアノ特技について書かれた手紙を念入りに処分したらしい……。どうやら、あのことをエベンさんは誰にも一生言わないと判断したみたいだ」
「……なんでアレクサンダーがそんなことを知っているんだ?」
「エベンさんが僕に手紙で丁寧に報告してきてくれたんだよ。……あの人、本当に優秀だ」
「……鬼畜ともいえるけど。将来の伯爵家跡取りなんだろう?」
「うん、『坊ちゃまの根性を叩き直すきっかけをどうもありがとうございます』って書かれてたよ」
「ああ、そう言えばその件なんだけど……お義父様にも聞いたよ。なんで、相談されて逆にアニエスとの縁談を持ちかけたのかって」
「…………旦那様はなんて?」
「うん。『だって年下の女の子に死ぬほど恥をかかされるほど、トラウマになる経験もそうは無いだろう?』だって」
「……旦那様もいろんな意味で鬼畜だよ」
一方、そんな恥をかかされ、『魔力無し』にされたメンフィスはもちろん当初、相当アニエスを恨みに恨んでいた。
それこそ、アニエスに対する呪いは何度行ったかわからない。
しかし、こと残念なことに、あらゆる呪いはロナ家の敷地内に入った時点で、強力な呪詛返しや無効化されるため意味をなさなかった。
メンフィスはそんな風に二年は毎日、毎時間、毎分アニエスのことを考え、悶え、夢に見て……ふとそんなある日、もはや彼女を忘れられなくなっている自分に気付く。
しかも『魔力無し』になったことで、メンフィスは周りからの扱いが今までとはガラリと変わり、『魔力無し』は普段こんな目に合っているのか……と骨身に染みるようになって初めて、こんな苦しみを共有できるのは彼女だけなのではないか? ということにも気付いた。
あの、舟で最後に彼女……アニエスが見せたあの表情。
彼女はあの日、卑屈なまでに謙虚で素直だったが、最後に見せたあの表情の中に……普段は隠されている並大抵ではない本来の彼女の誇り高さが伺えた。
そう、彼女はその誇り高さを胸に秘めながらも、現状の不遇や辱めに静かに耐え忍んでいる……。
そう思うと、どうしようもない想いがメンフィスの中に溢れた。
「彼女には……僕しかいない!」
そうして、メンフィスはアニエスをいつの間にか本気で愛してしまっていたのである。
………だというのに、数年後。
叔父が招待してやっと彼女に会えると思ったその日。婚約者と来ていると聞いた時のメンフィスの衝撃は如何ばかりだったか。
しかもなんか、めちゃくちゃとんでもなく綺麗になっているし……楽しそうに踊っているし……嫉妬やら憎しみやら愛やら肉体的欲望やら……彼の胸中はそれこそもう、すんごいことになったのである。
――そして、いま現在に至る。
メンフィスはにやにやとしていた。
これから頻繁に彼女に会えることを想像して……。
もはやその日、婚約者役だった人間の顔すら覚えてなくて、脳内でその顔をへのへのもへじのように適当に変換している。
「やっぱり、彼女こそ僕の運命の相手だ!」
そう思い、頬を赤らめうっとりとした。
その運命の相手というのがいったいどういう想いであの日、その婚約者役にその依頼を打診していたのか、しかもどんな条件で出していたのかも知らずに……。
そうしてメンフィスはいまだ運命の女神に弄られているとも知らず、アニエスにさっそくデートの申し込みの手紙を書き始めるのであった……。
【閑話・その頃、守護者たちは……】
「「あいつ……!?」」
アニエスがメンフィスに魔法で好きなようにされているのに、エース、アレクサンダーはぶちキレ。今にも飛び出さん勢いだった! だが……。
「お待ち下さい!!」
「何だよ!?」
「やつぱり身内を庇うんですか!?」
止めるエベンに噛みつく二人。しかし、エベンが止めたのはそういう意味ではない。
「お待ち下さい。坊ちゃまの魔法レベルじゃどうせすぐに息切れを起こします。それよりも、そのすぐ後、また第二陣を放つはず。その魔法に集中する隙の出来た瞬間に、双方畳み掛けるように攻撃し、圧倒的、身心的なダメージを与えたほうが宜しいかと……」
「「…………!!」」
((エゲツな……!?))
「クズにはわからせないといけませんからね?」
「あれ、想像より怖いぞこの人……?」
「ん? ちょっと待って……あれを見てください!」
だが、この三人が手を下す前にアニエスの三段テーブル返しをお見舞いされ、メンフィスはそのまま湖の真ん中に放置プレイとなった。
「「「………………」」」
「まさかこう来るとは……さすが、ロナの旦那様は慧眼でらっしゃいますね!」
エベンはとてもいい笑顔になる。
「……あの、このままだとあの人、裸で湖泳がないといけないですけど?」
「そうですね。私共も戻りましょうか? なーに方法が無いわけで無し。平気でしょう!」
「……うん。メンショー家だけは敵に回さないようにしよう」
こうして、三人は出るまでもなく……メンフィスを置き去りにする結論でまとまり、エースだけはちゃっかりジャスティス(※犬)の罠を放って、その場を後にするのだった……。