初めてのデート
この日、リニの仕事が休みだった。
それなのに、ウィルもどうやら仕事が休みらしい。
さっきまで居間で分厚くて小難しそうな本を読んでいたのに、いつの間にか姿が見えなくなっていた。
一方で、リニは川で自分の洗濯物を洗っていた。
毎日仕事で大量の布巾を洗っているリニにとって、今や洗濯物を洗うのは手慣れたものだった。
「よし、後はこれを絞るだけね。でもこれがまた力がいるから大変なのよね。仕事場には脱水機があるからラクなんだけど。…全くこんな時にいないなんてウィルはどこにいったのよ。美しくて健気な妻が手荒れで大変だっていうのに」
ぶつぶつと文句を言っていると、川の向こうでバシャバシャと水の音が聞こえた。
「ごめんごめん。今、水浴びしてたとこなんだ」
水をかき分けながら、ウィルがリニの方へとやってきたのだった。
そして彼はリニから洗濯物を取り上げると、それを力一杯絞った。
「ウィル⁉なな、何で素っ裸なのよ!」
リニは大きな目をさらに見開いて声を上げた。
「何でって言われても、水浴びをしてたから…」
「だっ、だったら色々隠しなさいよ!特に下の方!」
「まあ落ち着いて。良かったらリニも一緒に水浴びするかい?」
そう言うと、ウィルは手で水をすくって顔につけた。
「するわけ無いでしょ!変態!」
とか言いつつも、リニの視線はしっかりと夫の裸体へと向いている。特に下半身の方に。
「夫婦なんだから遠慮しなくてもいいのに」
そんなことを言いながら夫は水から上がると、木の枝に掛けていたタオルで体を拭いていた。
彼はとても背が高くてすらりとしているのに、適度に筋肉がついていて、なかなかに良い体をしている。
と、リニは思っていた。
「まあ、そう言うのって全然興味ないけど…」
ボソリと呟きながらリニが洗濯物を干していると、そのうち服を着た夫がやって来て、手伝いを始めた。
「リニ、これから一緒に出掛けないか?」
「えっ?お出かけ?…うーん、別にあとは何もやることないし…。いいわよ。どうしてもって言うなら仕方無いから付き合ってあげる」
ぶっきらぼうにそう言ってみたのだが、いざ街の市場へと繰り出すと、リニの気分は上々だった。
普段は仕事に行くために街を通るのだが、市場には来たことがなかった。
あちこちが色とりどりで、驚くほどたくさんの人で賑やかだ。
しかも、城ではなかなかお目にかかれない小さな子供達もいる。
ちまちましていて人形のようだとリニは思った。
夫に連れられて、リニは初めて買い食いというものを経験した。
それを食べながら、二人は市場を見て回った。
子供のようにはしゃぐリニを見て、ウィルは優しく微笑んでいる。
そして何よりも彼は驚くほど物知りで、リニの「あれは何?これは何?」という止むことのない質問に逐一丁寧に答えてくれるのだ。
とにかく、リニが興味を示す物や場所には足を運んだ。
やがて二人は、年季の入ったとある建物に入っていった。
「ねえウィル。ここには何があるの?」
リニがあたりを見渡しながら訊ねる。
「ここは図書館だよ。色んな本がたくさん置いてあるんだ。絵本から小説、伝記や、外国の言葉で書かれたものとか。僕は本が好きだから、仕事の帰りに寄って行ったりするんだ」
ウィルは家でよく本を読んでいた。
思えば、彼は料理も掃除も洗濯もできる。そして、何でも知っていて、物腰柔らかくいつも優しくて穏やかだ。
おまけに、リニの辛辣な態度や言動にもどこ吹く風。
今まで寄ってくる男達とは、何かが違った。
リニにとっては、それが不思議でたまらなかった。
そんな不思議な存在の彼を、リニはまじまじと見つめてみた。
すると、夫は本棚から一冊の本を取り出した。
可愛らしい絵が書いてある。
「ここには、とても心に残る絵本がたくさんあるんだよ。昔、僕の両親は、幼かった僕に毎日絵本を読んでくれたんだ。だから、いつも思うんだ。いつか僕に子供が生まれたら、たくさん絵本を読んであげようって」
穏やかにそう話す彼の横顔を見た瞬間、リニの心臓が締め付けられたような感覚を覚えた。
一瞬だけ、リニの知っているウィルでは無いように思えたのだ。
とっさに胸に手を当てる。
なぜか胸の鼓動が早くなっていた。
「…リニ?どうかしたのか?」
夫はリニの様子を訊ねるが、彼女は首を横に振った。
「何でもない!…ほら、ウィルなら良いお父さんになれるんじゃない?洗濯物とか絞るの上手だし!」
とっさにおかしなことを言ってみた。
「そうかな?ありがとう」
ウィルは嬉しそうに笑っている。
…何だろうこの感じ。
そう思っていると、夫はリニに向き直った。
「そういえば、リニは何か欲しいものある?君に何も買ってあげたことなかったなって思ったんだ」
「…欲しいもの?別に欲しいものなんて…。こういう時、女の子って宝石とかアクセサリーとか言うんだろうけど、欲しいって思ったこと無いのよね。ほら、私って宝石みたいに美しいじゃない?」
「うん、そうだね」
夫の素早い返事に、リニは拍子抜けした。
「あ、でも、強いて言うなら下着が欲しいかも」
「それじゃあ、今から買いに行こう」
そうして、二人は下着が売っている可愛らしい色合いのお店へとやってきたのだった。
店内は若い女性客で賑わっている。
「何でも好きなもの選んでいいよ」
夫のその言葉に、リニは嬉しそうに下着のパンツを見て回った。
「あ、可愛い!これ欲しい!」
そう言って彼女が手に取ったのは、可愛らしいフリルが控えめにあしらわれた華奢な紐付きのパンツだった。
「へえ、リニってこういうのが趣味なんだね」
リニが選んだ紐パンを、じっと見つめてそう言う夫に、リニは気恥ずかしくなった。
「ちょ、ちょっとそんなにじろじろ見なくてもいいでしょ!何ならあと三枚くらい買ってくれてもいいのよ」
冗談のつもりで言ったはずだったのに、夫は優しくにこりと微笑んだ。
「欲しいの選んでいいよ」
「えっ、いいの⁉でも、お金は?」
「気にしなくていいんだよ。今日は君に何か買ってあげたくて、こうして街に来たんだから」
「本当?やったぁ!」
リニは再び子供のようにはしゃぎながらそう言って、パンツを選び始めるのだった。
フードを目深に被り、みすぼらしいボロを着た背の高い男と、幼い子のようにはしゃぐ美女。
そんな彼らを遠巻きから見る客たち。
店内は割と異様な光景だった。
しかし、リニは気付いていないのだ。
あんなにも夫の隣を歩くのを嫌がっていた彼女が、今では少しの嫌悪感を抱くことなく彼のすぐ隣を歩いていることを。
新しく何枚かのパンツを買ってもらい、家に帰ってもリニはとてもご機嫌だった。
夕食が質素でおかわりができなくても、文句を言うことはなかった。
それでも、食べた後の食器を片付けることはまだ先の話なのだが。