これからよろしく
さっきまで、勢い良く夫の先を歩いていたリニは、ぜぇぜぇと息を切らし、今や夫のだいぶ後ろを、のろのろと歩いていた。
「…そんなに遅く歩いたら夜になっても家に着かないよ」
夫は、老婆みたいな歩き方になりつつあるリニに声をかける。
すると、リニは眉間にひどいシワを寄せて声を上げた。
「こっち見ないでよ!それに、お姫様を長時間歩かせるなんて前代未聞よ!はあ、もう無理!絶対無理!疲れて歩けないし歩きたくない!それにのどが渇いたわ。冷たいお水が飲みたいから、さっさと持ってきてよ!お姫様を待たせないでくれる?ついでに馬車も呼んできて!もう歩くの嫌!」
まるで幼い子供が駄々をこねるようなリニに、夫は困ったようにため息をついた。
そして彼女に近づくと、背を向けてしゃがみ込んだ。
「…なによ?」
嫌悪感を丸出しにしながら、リニは言った。
「背負って歩いてあげるよ。ほら、早く」
そう言う夫の姿を、リニは再び嫌悪感丸出しで見つめた。
「冗談じゃないわ!あなたに背負われるくらいなら、足から血が出ても自分で歩いたほうがマシよ!」
そう告げて、リニは夫の先を荒々しく歩いていったのだった。
それからしばらく歩きつづけ、日が傾き始めた頃、リニはひどく息を切らし、ずっと文句を言い続けていた彼女はいつの間にか無口になっていた。
そして無言のまま道はずれの原っぱに腰を下ろすと、そのまま動かなくなってしまったのだった。
「もう東の国に入ったから、あと少しだけ頑張って」
夫がそう言っても、リニは置物のように微動だにしない。
じきに夜になる。
それまで家にたどり着きたいと思っていた夫だったが、早朝に城を出てから一度も休み無しで歩いてきた事を思い出したのだ。
すると彼も、リニのそばへと腰を下ろしたのだった。
ズタボロ雑巾のようなローブを着た夫がそばに座っても、一言も発さないところを見ると、リニは相当お疲れのようだ。
「この先に森があるんだ。そこに僕の家があるんだよ。大きくはないけど、二人で暮らすには十分だと思うんだ。君も気に入ってくれると嬉しいんだけど」
そう話す夫の姿を、リニは眉間にシワを寄せてじっと見つめていた。
「…ねえ、そういえば、あなたってものすごく失礼じゃなくて?」
「え?」
「あなたは私の名前も顔も知ってるけど、私はあなたの名前も顔も知らないわ」
「…ああ、そうだったね。すまなかった。僕の名前はウィル。…今からフードを取るけど…あまり、その…驚かないでほしい」
ウィルと名乗った彼は、そう言ってリニに向き直ると、フードに手を伸ばし、それをゆっくりと剥ぎ取った。
夫の素顔が、リニの空色の大きな瞳に映る。
「!!ぎぃやぁああぁあっ!!」
あたりにリニの絶叫がこだました。
目の前の夫は、とても綺麗な黒髪の青年だった。
けれど、顔の左半分は怪我の跡なのだろうか、赤紫色になった皮膚が、でこぼこと盛り上がり、そのせいで左目がうまく開けられないようだった。
リニの反応に、夫は少し悲しそうに笑った。
「…驚かないでっていうほうが無理だったかな。…すまなかった。…さあ、そろそろ行こうか」
彼は再びフードを被って立ち上がると、放心状態のリニの手を掴んで立ち上がらせた。
夕闇の中、夫の後ろを歩くリニは、分からなかった。
なぜ父は、大事な娘をこんなボロを着た顔にひどい傷跡のある男の元へ嫁がせたのだろう。
いくらなんでもひどすぎる。
いかにも超貧乏で、見た目も恐ろしい男。
誰もが嫁ぎたいと思わないような男なのに。
なぜ?
どうして?
どうしてなのよ!
あのクソ親父め!
苛々して心の中で罵声をあげていると、突然、夫が立ち止まった。
そのせいでリニは、夫の背中に盛大に顔をぶつけていた。
「ちょっと痛いでしょ!危ないから急に止まらないでよ!何なのよ全く、どいつもこいつも…」
「家に着いたよ。お疲れさま。ほら、中に入ろう」
振り返った夫が、優しく微笑んでそう言った。
森の中に隠れるようにひっそりと建つのは、小さなログキャビンだった。
「…え?これ、家なの?…城で飼ってるウサギの小屋より小さいんだけど…」
家を見て唖然とするリニに、夫は苦笑いをした。
「城の物と比べたら確かに小さいかもしれないね。けれど快適だよ。小さいけどほら、暖炉もあるし」
中に入ると、見た目通りやはり狭かった。
「だいぶ疲れただろう。今日はもう休もう。少ないけれど、君の服も用意してあるんだよ」
そう言って、夫は小さな衣装箱から女性用の寝間着を取り出すと、それをリニへ手渡した。
そして、夫に促されて寝室と呼ばれる狭い部屋へ入ると、そこには簡素な造りのダブルサイズのベッドがひとつだけ置かれていた。
「ちょっと待って。私のベッドはどこ?このベッド、あなたのよね?」
眉間に深い深いシワを寄せて質問してみると、夫はにっこりと笑ってこう返した。
「一緒に寝るんだよ。僕たち夫婦だろ?何か問題でも?」
問題大ありだ。
いくら精神が幼いリニでも、結婚した男女がベッドの中で何をするのか知っていたのだ。
それも自分は、熱々の新婚と呼ばれる立場だ。
顔を青くして白目をむきそうになっているリニを見て、ウィルは思わず吹き出した。
「心配しなくても何もしないよ。だから安心して休んで」
優しくそう言って、彼は寝室を後にしたのだった。
ひとり寝室に残されたリニは、渡された寝間着を眺めていた。
これは安物だと丸わかりな生地だ。
けれどあまりにも強い疲労と眠気のせいで、素直に寝間着に着替えると、ベッドに潜り込んだ瞬間に寝付いてしまったのだった。
しばらくして、ウィルが寝室へと入っていった。
リニは、その美しい顔に似合わず高いびきかいて眠っている。
そして子供のようにひどい寝相だ。
そんな彼女の寝姿を、夫は優しい眼差しで見つめていた。
「…これからよろしく。おやすみ、リニ」
柔らかな白い月明かりが、寝室の窓からこぼれていた。