世界最後の願い
「この世界を破棄しましょうか」
誰も言おうとしなかったその言葉を発したのは、一人の神様だった。その誰もが口を閉じ、目を合わせようとはしなかった。一見すると若い女性に見えるその神様は円卓で顔を合わせる神様達にそっと諭すように話しかける。
「このままではせっかくの命達が不必要な苦痛を強いられることとなります」
どこかで唸るような声が上がる。
「何がいけなかったのだ」
絞り出すような声。女性の神様は目を伏せた。
「途中までは完璧でした。しかし、何かが足りなかったのでしょう。この世界はこのままでは大地が割れ、空気は霧散し、命達は四方八方に真空の中に飛ばされることとなります。もうこの世界は崩れ始めている。止められないでしょう」
「どうにかして止められないか……」
女性は首を横に振った。
「いくら私達の力をもってしても、命達を守りながら世界を丸ごと作り直すことはできません。他の世界に命達を避難させることもできないでしょう」
「もはや、これまでか」
神様達は誰もが肩を落とし、ため息をついた。これで、終わりなのだと。
「我々が作った美しい世界は、失敗になってしまった……。その世界に生み出した命達ももう消えてしまう運命……。なんと言えばいいのだ」
拳を握り締める老いた神様は消え入りそうな声を出した。
「では、私が一人を命達の代表として選び、願いを一つ叶えましょう。私達にできることはそれくらいでしょう」
その提案に、他の神々もうなずいた。
「ではこの件、ガイア、そなたに一任する」
「分かりました」
ガイアは崩れ行く世界の中ですべての命達の言葉を一時的に統一した。そしてこの世界に生まれた命達に、まっすぐに伸びたこの広大な世界は不十分であり滅びに向かっていること、そして誰も助からないことを打ち明けた。そう、世界が崩れ、やがて皆が真空の中に散り散りになり、命を終えてしまうと言う事を。
「そんな! どうして!」
「せっかく生まれたのに!」
当然のことながら命達は混乱した。神々によって生み出され、明日も、明後日も、これから続く未来を思い描いた矢先、その未来は消えてしまったのだから。これから訪れるのは死の苦痛。命達は恐れ、泣き叫んだ。
「どうして完璧に作ってくださらなかったのか!」
「どうして滅びなければならないのか!」
理不尽な終焉に、誰もが嘆いた。そんな中、たった一人、泣きじゃくる子猫に声を掛ける姿があった。
十歳程の少年は、恐怖に震え、泣いている子猫を抱き上げると、膝の上に乗せて優しくなでていた。
「大丈夫だよ。怖がらなくても大丈夫」
言葉が理解できてしまうからこそ、その心の痛みに寄り添っている少年にガイアは問いかけた。
「お前は怖くないのかい?」
少年は傍に寄ってくる命達を全て受け入れ、丁寧に抱きしめて声を掛けていった。
「僕は皆が怖がっている姿を見る方が何倍も怖いんだ」
ネコも、イヌも、トリも、泣きじゃくる全てにその少年は心を開いた。ガイアは決心し、少年に尋ねた。
「お前は一つ、願いが叶うなら何を願う?」
少年は少し考えた。そうしてガイアに問う。
「それはどんなものでもいいの?」
「そうだ。構わない」
「なら、力が欲しいです」
少年はガイアに言った。
「船を作るための力が欲しいのです」
ガイアは首をかしげたが、少年は強いまなざしをガイアに向けた。
「ノアの箱舟のような船はもし作れたとしても結局真空の中では皆生きてはいけないぞ。この世界そのものが木っ端みじんになってしまうのだから。皆、生きることはできない。そんなことに最後の願いを使ってもいいのか?」
ガイアは悟られないようにそっと肩を落とした。最後の願いは、船を作る事。ノアの箱舟ができても、結局生きてはいけない。
「どうかお願いです。船を作るために、何でもくっつける力が欲しいのです」
そんな少年の服を泣きじゃくっていた子猫が引っ張った。
「ねぇ、船なんてどうするのさ」
「苦しんで死なないようにとか、いろいろあるじゃないか」
命達は少年の選択に慌てて涙を引っ込めて口々に意見を述べた。
「そんなことに最後の願いを使わないでよ!」
それでも少年はガイアに言った。
「お願いです。どうか、力を貸してください」
ガイアは周囲の反応も見ながら断ろうとして口を閉じた。少年の強いまなざしを見て、一度目をつむってから少年に言った。
「分かった。お前に力を与えよう」
ガイアの手からまばゆい光が放たれた。その光は少年の胸元へとふわり、ふわりと飛んでいき、やがて体の中へと入って行った。
「それでは私は行く。最後、後悔の無いようにするんだよ」
見ていられなくなったガイアは、助けを呼ぶ数万という声を背にしながらその世界を去って行ったのだった。
神々の集う円卓に戻ってきたガイアは、机の上に映しだされた世界を見た。少年に殺到する批判の声。滅びゆく世界の最期がそんな状態なのかと考えるだけでガイアは胸が張り裂ける思いだった。
「これが、この世界の終わりか。なんとも醜く哀れな最期ではないか。どうしてこの少年になど託したのだ。賢者はもっといたろうに」
神々からの批判に何も言うことなく、ガイアはその世界を見た。誰も何も案など出さなかったというのに、いざ決断が下されると自分ならもっとよりよい選択ができたと言い張るのだ。
平坦な世界は突然大きな地震に見舞われた。大地は曲がり始め、地割れが起こる。命達が地割れに巻き込まれないように山脈から土が溝を埋め、世界は大地を中心として球体へと姿を変えていく。
「まさか、これは……」
神々が驚く中、やがて、大地も、命も、空気すらも巻き込んでその世界は巨大な球体へと姿を変えた。くっつくというその力ははじき出されてしまう運命にあった命達を大地に留め、飛び出していこうとする空気を大地にくっつけたのだ。
漆黒の真空の中で唯一存在できるその姿は、まさしく大地の球。神々は驚きのあまり各々歓声を上げた。
「何と言う事だ! これは、まるで宇宙の中を漂う船ではないか」
地球と名付けられたその船はすべての命を乗せ、漆黒の宇宙を漂う。いつしか辿り着くべき世界ができるまで。
ガイアが授けたその力に「重力」という名前がついたのはもっと後のお話である。