やさしくて、残酷な時間
「あれ?雨…?」
改札を抜け、駅から出ようとしたところで、足が止まった。
そう言えば天気予報で、夜遅くに雨が降るかもしれないとか、言ってたっけ…。
そもそも定時に帰るつもりだったから、荷物になる傘なんて持ってこなかった。
それなのに帰る寸前に上司に捕まって、そのままズルズルと残業に付き合わされたんだ。
失敗したなぁ…。
ちらりと駅前のコンビニへ視線を送る。
あそこまで走って傘買おうかな?
でも…、と思いとどまり、空を見上げる。
そんなに強い雨でも無いし、面倒だからこのまま帰っても大丈夫かも?
うん、大丈夫!と決意して、一歩足を踏み出したところで、視界が紺色に覆われた。
おや?と、思い視界を覆った物が差し出された方を見てみたら。
そこに、義兄が呆れた顔で私の方に紺色の傘を差し出して立っていた。
「お、お義兄ちゃ…ん?どうして?」
「どうして?じゃない。何やってんだ、風邪ひくぞ。」
ほら、と再度傘を私の方に傾けて、一緒に歩き出そうと促してきた。
「ったく、遅くなるときはいつも家に連絡しろって言ってるだろ?しかも夏帆は風邪ひきやすいんだから、雨に濡れて帰るとか絶対ダメだろ!」
お説教しながらも、ゆっくりと私の歩く速度に合わせて、更に傘を私の方に大分傾けて、濡らさないように気をつかってくれている。
昔から。
そう、お母さんが再婚して、私の義兄になった時から、彼は私に対して過保護だった。
どこかに遊びに行く時。
帰りが遅くなる時。
朝早く出かける時。
…雨が急に降ってきた時。
─必ず送り迎えしてくれた。
風邪ひいて寝込んだ時。
怖い映画を見た時。
両親ともに不在の時。
…私が失恋した時。
─ずっとそばにいてくれた。
心配性な義兄の口癖は
「夏帆は〜だから。」だっけ?
…懐かしいなぁ。
でも、ある日を境に、その口癖は、聞けなくなった。
あんなに近くに居たのに。
私の手の届かない場所に、行ってしまった。
私の、私だけのお義兄ちゃんだったのに。
その義兄が、今、ここに、いる。
「…お義兄ちゃん、どうして、ここに?」
「…。」
立ち止まり、私の方に傾けすぎて濡れてしまっている義兄の肩をハンカチで拭きながらたずねた。
…返事は無かったけど、義兄の瞳が揺れている。
あぁ、私はまた義兄に心配かけたみたいだ。
心当たりは、ある。
先日、私は、失恋した。
結婚しようって、約束してた人だった。
この人なら、うまくやっていけるって思ってた。
─だけど、ダメだった。
結婚の話が進めば進むほど、心は重くなるばかりで、そんな私に気付いたのか、彼から別れを切り出された。
君は僕を見ていないって、言われた。
…何も言えなかった。
悪いのは全部私なのだから。
「…お義兄ちゃんだけには、知られたく、なかったんだけどなぁ…。」
「…。」
「…バカな妹で、ごめんね。」
「夏帆はバカじゃないよ。バカなのは、夏帆をふる男だ。こんなに夏帆は可愛いのに。」
あまりに的外れな義兄の言葉に。
あまりにもシスコンな義兄の言葉に。
泣きそうなのを我慢して、無理矢理笑顔を作ってみたけれど。
それも全部お見通しだったみたいで。
「ほら、泣け。」って言ってるみたいに、義兄の胸に引き寄せられて、背中をポンポンとあやすみたいに、撫でられた。
「…好きになれると思ったの。」
「うん。」
「優しい人だったの。」
「そうか。」
「タバコ吸う姿がカッコ良かったの。」
「…副流煙は夏帆に良くない。夏帆は喉弱いから。」
クスッ。口癖、でた。
「…横顔が、お義兄ちゃんに、少し、本当に少しだけだけど、似てたんだ。」
「俺に似てるなら、相当カッコイイ奴だったんだな。」
「うん、カッコ良かった。お義兄ちゃんには、負けるけど。」
「…当たり前だ。」
少しだけ、軽口叩いてくれて。
また、背中を優しく撫でてくれて。
その度、私は、安心する。
でも、それじゃ、いつまで経っても、私は。
私、は。
「お義兄ちゃん。ありがとう。」
「ん。もう、大丈夫か?」
ううん、大丈夫じゃない。
全然、大丈夫じゃないよ。
だから。
「…お義兄ちゃんは、もうお家帰って。」
「夏帆?家まで送るぞ?」
「ううん、ここでいい。傘、コンビニで買うから。だから、お義兄ちゃんは、奥さんの待ってるお家に早く帰ってね。」
「夏帆?」
「あとね、もし、私がまた失恋しても、風邪ひいてても。雨に濡れてても。心配しないで。私じゃなくて、奥さんのこと、見ててあげなくちゃダメだよ。もう時期、赤ちゃん産まれるんでしょう?」
「…。」
「約束ね。じゃないと、私、いつまで経っても─。」
そこから、先は。
言っちゃダメな言葉。
この気持ちに気付いたのは、義兄が結婚して家を出てからだった。
昔から私が好きになる人は、全員、義兄にどこか似てる人だった。
本物が手に入らないから。
本物に近い人を求めてたんだ。
でも、やっぱり、偽物は、偽物で。
違いばかり探してしまって。
最終的に、私はフラれる。
早く、早く、代わりを見つけないと。
本物が欲しくなる前に。
私が、この気持ちを抑えていられるうちに。
じゃないと、私は。
無理矢理にでも。
家族を傷つけても、手に入れようとしてしまう。
義兄の優しさにつけ込んで。
だから。
「バイバイ。お義兄ちゃん。」
コンビニまで傘に入れてもらい、駅に急ぐ義兄を見送る。
早く、私の手の届かない幸せな場所へと、戻って欲しい。
私じゃダメなんだと、思い知らせてほしい。
期待できないくらいに。
でも、しばらくは。
急な雨の日は、きてくれること。
期待しちゃうんだろうなぁ。
そんな事を思いながら。
私はコンビニの中へ入らずに。
そのまま家まで走り出した。