お弁当少女~シーナの左手薬指は妖精の味がする~
現代社会において、母親は子どもにご飯を作ってくれなくなった。
しかし、身体の成長期にあたる中学生はおなかがすぐにすいてしまう。
ことさら、中学生男児はおなかがすく。
だから彼らには、目を見張るほどにかわいらしく、おいしいお弁当が与えられていた。
シーナはどこにでも売ってるような普通のお弁当である。
薄手のリボンと白のワンピースでかわいらしく着飾った少女の形態をした自律料理複合体だ。
全長はやや小柄で百四十五センチメートルほど、体重は三十五キログラム。胸は人間で言えば第二次性長期に入るかどうかの微妙なラインで、普段は服でコーティングされていて見えないようになっている。しかしお弁当なので所有者であればもちろんひんむいてもいい。
お料理複合体であるシーナは例えば耳たぶを食べると、ケチャップがたっぷりかかったスパゲティの味がする。透き通るような薄いエメラルドグリーンの髪の毛を食べると、なぜか蕎麦の味だ。肩のあたりはコロッケ風味。二の腕はぷにっとした弾力のあるプリン。そして火星のように紅い瞳はカチコチに凍らせたチョコレート。
普段から味や匂いや食感がするわけではなく、ある種のスイッチが入ることで、お弁当として機能する。自律料理複合体がお弁当としての本性を思い出したときに、お料理に化けるのだ。
ところで、シーナの持ち主であるイワキのもっとも好きな箇所は、彼女の左の薬指だった。
「シーナ、いつものとこ」
学校の教室で、しかもまだ二時間目が終わったばかりだというのに、イワキは男子学生らしいぞんざいな態度で、シーナの細い腰を抱き寄せた。
シーナは頬を染めることもなく、さりとて命令に逆らうわけでもなく、左手をすーっと胸のあたりまであげてイワキの口の前に持ってきた。本来、主体と客体を省略した表現はいかに科学の結晶たる自律料理複合体であっても、解析は困難を極めることであるのだが、シーナの場合は豊富な経験からぴたりと答えを導き出すことに成功した。
「どうぞ、イワキ」
視線を少し下にさげ、イワキの行動を待つシーナ。
感情を感じさせない視線は、ただ泰然とイワキを待つ。
イワキは一瞬、シーナの瞳を覗きこんだ。
シーナは少し頭を傾げた。
が、そこまでだ。本能的な衝動にはたいして抗えない。
「いただきます」
あむりと、イワキは処女雪のような真っ白な指先にむしゃぶりついた。
「うまい、うまい。うまい、うまい……」
その味は想像上の産物で、地球上のどの料理にも類似しない。味の芸術家によってクリエイトされた味だった。それは最初期のプログラムにまでさかのぼることが可能であるが、持ち主の趣味を少しずつ経験として感知し、シーナ自身が修正と変更をくわえていったものである。究極的なまでに洗練された『甘さ』を基調とする白のハーモニー。これが、シーナの左手薬指の味だった。
「ん……」
と、シーナが少しだけ声をだした。
指の第一関節を噛み千切ると、とろりとした赤い液体がしたたってきた。もったいないとばかりにイワキが舌でなめとると、苺のようなすっぱさとミルクのような甘さのいりまじった完全調和がそこにはあった。
思わず失禁してしまいそうなおいしさだ。
こんな快楽は人類史上おそらくこの時代にしか無かっただろう。
ぐびりぐびりと喉で豪快な音をたてて血液のようなそれを飲みこむ。
ついにシーナの左手薬指は見るも無残に消えうせてしまった。ぽたりぽたりと二滴だけ味の原基となる物質が流れて床に垂れたが、すぐに修復は開始している。この程度の欠損ならば、半日で再生するだろう。
ただ、半日とはいえ待ち遠しいのは確かだ。
左手薬指をもっと食べたいと思うのがイワキの本心であった。
「あーあ、おまえだけ、早弁かよ」
突然後ろから声をかけられたので、イワキは驚いて振り向いた。
そこにはクラスメイトのセンゾーがいた。
「うっせ。先生に見つかったらこっちだってやばいんだからな。リスクにはリターン。リターンにはリスク。当然だろ。おまえも食べたかったら自分の弁当食べればいいじゃん」
「他人の庭は青く見えるってやつでね。シーナちゃん、見た目もかわいいし俺好みなんだよなぁ」
センゾーは目を細めて、イワキの席の隣でおとなしく立っているシーナの姿を見つめた。
シーナはじっとセンゾーを見つめ返す。
人間の視力の三十倍の精度を誇る生体センサーがセンゾーの身体を走査した。
センゾーの吐息、発熱、ホルモンバランス、その他もろもろの情報を統合し、彼女は判断を下す。
「イワキ、センゾーがシーナを食べたいと欲望している可能性、八十三パーセント」
「んなことは言われんでもわかってるよ、シーナ」
「警戒レベルを一ランク上げることを推奨いたします」
シーナは腕を胸のあたりでクロスさせて防御の姿勢だ。
「そのままでいい」
「かわえ~。そのロボットロボットした表現、口調、表情、しぐさ、すっげー個性的で好み」
センゾーは目を血走らせた。
「つーか、面倒だから、設定していないだけだって。俺は何にもしてないぞ。むしろ無個性といったほうが正確だ」
「型番でやっぱ微妙に違うのかな」センゾーはくるりと向きを変えた。「おい、トルキー」
トルキーは教室の一番奥まったところで、じっとしていたが、センゾーの声に反応して嬉しそうな笑顔で走ってきた。見た目は中学生ぐらいで、イワキたちよりだいぶん幼い印象を抱かせる。もっとも幼さで言えば、シーナも負けていない。
どうでもいいが団子状になっている髪の毛はやっぱり団子の味がするのだろうか、などとイワキは考える。食べさせてもらったことはないのでわからない。普通は他人のお弁当なんて食べないが。
「おにいちゃーん」
トルキーはわずか数メートルの距離をぶんぶんと手を振りながら駆け寄ってきた。
「おい、トルキー」
「なーに?」
「おまえ、その口調変えれるか」
「口調、変?」
「そうじゃなくてだな。口調を設定していない状態に戻せるかって聞いているんだ」
「んー。わかんない。でも、お兄ちゃんの好きな口調ってどんなのか興味あるな~。ねー。ねー。おせーて。おせーて」
「まとわりつかんでよろしい。今は腹は減っておらん」
センゾーはトルキーの頭をチョップした。
ほぐっという音がするのは中に詰まっているものが何か柔らかい食材だからだろう。まさか、からっぽということはあるまいとイワキは考える。
しかし、自律料理複合体のコアは野球のボール程度の大きさの純粋な機械でできている。別に脳みそにあたる部分にコアを作らずとも、身体のどこかにコアを置いて、そこから擬似筋肉を直接動かせばそれでよいのである。
頭蓋を割ってみたら中身からっぽということも十分にありえると言えた。
「いたいよ、おにいちゃん」
トルキーは頭をさすりさすり、涙目になっていた。うるうるとしている。
「とりあえず、泣くなよ」
「トルキーは痛いの好きですけどね」
「嘘泣きかよ」
「お兄ちゃんの嗜虐欲もほどよく満たす。それがトルキークオリティ」
「おう。もう一発いっとくか」
「やん♪」
命令されたことには基本的に絶対服従なのが、自律料理複合体のモットーである。
したがって、いまの命令を拒否するような言葉は、非常に高度な処理をほどこしているといえた。
「弁当と夫婦漫才やって楽しいか。センゾー」
置いてきぼりだったイワキが声を出した。
センゾーはふんと鼻を鳴らし、それからトルキーの肩に手を置いた。
「俺も早弁すっかな。トルキー。かがめ」
椅子に座っているセンゾーに対して、すこしだけ身をかがめた状態で、トルキーはとるべき行動をとる。
彼女のお弁当魂に火がついたのである。
トルキーは雷光のようなスピードでセンゾーの肩に手をまわし、思いっきりディープなキスをかました。
「あむ。あむ、あむんっ。あむっ」
解説すればなんのことはない。見た目は熱いキスのように見えるがれっきとした食事である。
トルキーのようなタイプは旧式タイプと呼ばれており、身体は食べられないが、人間で言えば胃にあたるところで食物の味を合成し、濁した液状物質として口移しするのであった。
トルキーが普通の少女であれば、どんなに見た目が可憐であっても人間であるところの限界で、口臭の味がついてしまうところであるが、そこは自律料理複合体――、トルキーは完全無味無臭のまま、味そのものをダイレクトにお口の中に雛鳥にえさを与える親鳥のごとく補給してくれるので、便利と言えば便利なお弁当なのであった。
「あ、ぁ。もういい。むーぐぐ。もういいって」
べしべしと二回ほどトルキーの頭をチョップ。
「あうあう」
「おまえ、もうちょっと加減しろよ」
「ゴヴェンナジャイ」
白っぽい液体が微妙に逆流しているのか、トルキーの声は変だった。
「ふいぃ。しっかし。やっぱ、こういう液状の食事だとな。なんか食べた気がしないんだよな。あごが弱くなりそうでよ」
センゾーは口元をぬぐいながら言った。
「食べるの早くていいじゃねーか。食事なんて、空中給油みたいなのが理想だろ。栄養さえとれればよ」
「おまえ、なにもわかってないなー。食事ってのは人間の三大欲求のひとつだぞ。食べるってのがどんなに大事かわかってるのか」
「わかんねーよ」
「食事ってのはなぁ……、まあ、そのなんだ。むさぼり食うって表現が一番合ってると思うんだな」
「ふうん。それで?」
イワキは冷めた目でセンゾーを見ていた。クラスメイトが何を望んでいるのか察したからである。
「だからさぁ……。その、ちょっとでいいから、シーナちゃん食べさせてくんない? 代わりにトルキー貸すからさ」
「はぁ? おまえ、なに言ってんの。男どうしで弁当の交換なんか、恥ずかしくてやってられっか!」
「いいじゃんか。おまえだってたまには他の弁当食いたいんじゃねーの?」
センゾーは前のめりになった。
「んなこと思ったことねーよ」
「頼むよ。どうしても食べたいんだよ」
「だったら他の弁当買えばいいだろ」
「俺はシーナちゃんが食べたいの。ちょっと味見したいわけよ。見た目がまず芸術的だろ。シーナちゃんの味はどんなのかなーって考えるだけでわくわくするわけですよ。人間の根源的な欲求が刺激されるわけですよ。わかるだろ。いやむしろ、わかれ」
「俺は別に食欲にはそんなに興味がないから、おまえの言ってることはわからん」
「だったらなおさらいいじゃねーか。俺のトルキーで食事しても、別におまえとしては関係ねーんだろ。トルキーのほうが食事に時間はかからんし、おまえの理想形に沿ってるじゃねーか」
イワキは妙に優等生ぶった表情で、頭を振った。
「センゾー君。俺はおまえが毎日トルキーにぶちゅーっとやりながら食べるのを見ているわけだよな」
「だからどうした?」
「おまえ、俺と間接キスしたいと思うか?」
「ああ、はは。そんなこと些細なことだぜ。シーナちゃんは毎日毎日欠損箇所は再生しているんだろ? だったら、別に問題ない。関節食べても間接キスにならない。なんちゃって」
「俺が関係あるっつーの! トルキーは再生するタイプじゃねーだろうが」
「なんだ。トルキーのことか。あほうだなおまえ。普通の人間と同じ程度の代謝はしてるぞ。そうじゃねーと、すぐにゾンビみたいになっちまうだろうが」
「ああ、そうだな……。それはそうかもしれんが、しかし、なんか嫌だ」
「なんだ。なんだ。結局、おまえはシーナちゃんを自分ひとりで味わいたいって、そういうわけなんだな」
「なんでそうなる」
イワキはうんざりした表情で答えた。
「いいよ。おまえがそんなに心の狭いやつだとは思わなかったよ」
センゾーは正攻法が通じないとなったら、数秒のうちに絡め手に変えた。
いやなやつだと思いながらも、いやしかし待てよと思いなおす。
そういえばトルキーの団子状の髪の毛はどんな味がするのだろうという興味がふと頭をもたげてきた。
それは単なる、ほんの少しの思いつきだった。
本来、お弁当というのは一人につき一個というのが原則であるので、イワキはトルキーの味を知らない。知らないことに関しては、どうしても知りたいと思うのが人間の常である。
「一日だけなら貸してもいいがな」
気づくと、イワキは提案していた。
「マジで?」
「ただ、シーナの左手薬指だけは食べるなよ。俺のお気に入りの味がつまってるんだからな」
「ふうん。どうりでいつもそこばっか食べてるはずだ」
「うるせー。絶対だぞ。その約束を守れないなら、シーナは貸さない」
「わかったよ」
センゾーは神妙にうなずいた。
「貸し借りするときってどうすればいいんだ。単なる命令でいいのか」
「ああ、そうだよ。下位の命令で一日だけ誰々さんの言うこと聞けって命じればいいんだ」
弾んだ声でセンゾーが言った。なるほどなと思い、イワキはシーナを呼ぶ。
「今の俺とセンゾーの会話、理解できたか」
「イワキの言う『今』がいつのことを示しているか明確でありません。『俺とセンゾーの会話』がどのセンテンスを指すのか不明確です。おなじく、『理解』という言葉もシーナの辞書にある意味でよいのか確認することを勧めます」
イワキの意思を解釈するための無数の経験をつんできたシーナは、なぜかこのときばかりは厳格な確認を求めてきた。
(どうしてだよ)
と思いながらも、
「くそ、融通がきかねーな」
イワキが舌打ちする。
シーナはじっとイワキを見ていた。次の言葉を待っているようだ。
「ちゃんと、設定しねーからだよ。ま、そこがかわいいんだけどね。シーナちゃんは」
センゾーがにやにや笑うのを無視して、イワキは再びシーナに命じる。
「いいか。今日の学校授業が終わったあとから二十四時間、おまえをセンゾーに貸す。理解できたか? 理解とは、えーっと、合理的に意思内容を無理なく解釈できるかという意味で」
「……」
「シーナ?」
「理解できました。イワキ」
シーナはこくりとうなずいた。
「よろしくね。シーナちゃん」
センゾーは無礼きわまりないことに、シーナのふわふわの髪に手を置いた。シーナがイワキの意思を合理的意思解釈した結果、警戒ランクは上がらなかった。しかし、視線は下を見つめていた。
「まだ、触んじゃねーよ。今日の授業が終わってからって言ったろうが」
「細かいこと気にすんなよ。トルキーなら今からだって食べてもいいんだぜ。おい、トルキー」
「ふ、ふぁい」
トルキーは待機状態にでもなっていたのか、寝起きのような声で応答した。
「今から一日だけ、おまえはこいつの家に行って存分に食べられろ。わかったな」
「あうあう。トルキーは捨てられてしまったの」
トルキーは時代劇の娘役のように、よよよと泣き崩れた。そうじゃねーよとセンゾーは呆れ顔。
「そうじゃないということはどういうことなの。トルキーは脳みそがからっぽなのでよくわかりません。おにいちゃんおせーて、おせーて」
「ええい、うっとうしい」
ごすごすと二発ほどからっぽの頭を殴ると涙目になって沈黙した。
「いいか、よく聞け、一日だけだ。わかるな。一日だけ。今日の夜、晩御飯代わりにでも食べられろ。それから明日になればまた元通り。わかったな。いやむしろ、わかれ」
「お兄ちゃんのために身売りするんだね。わかった。トルキーがんばる」
「おう、がんばれ」
「いや、俺がものすごーく悪いことをしているような気分なんだが……」
さすがにツッコミするのも疲れてきたなとイワキは思った。
学校の授業が終わり、イワキとトルキーは帰宅した。
段々畑のようにつらなっている集団住宅地の中にイワキの家はある。母親とは別宅で暮らしている。
きわめて平均的な家庭である。
「あー、狭いところだけど」
イワキは網膜スキャンの緑光を受けながら言った。ガチャリと音がして鍵が開いた。
トルキーはものめずらしそうにきょろきょろと周りを見ている。
「ここがお兄様のおうちなのですか」
「まあな」
「お邪魔しまーす」
トルキーは丁寧に靴をそろえている。とてとてと先を歩き、さっと振り返った。
にこっと笑うトルキー。
「お兄様。はやく、はやくー」
「そのお兄様っていうの、やめてくれないかな」
「え、どうしてですかー」
「なんとなく恥ずかしいから」
「ふいーん。トルキーとしてはお兄様のことをなんと呼べばいいのかわからないのですよ」
「別に、イワキでいいじゃんか」
「では、イワキ様でよいのですか?」
「うーん……。まあ、いいよ。好きに呼んでくれ」
イワキは鞄を置くために自室に向かう。シンと静まりかえった部屋は、誰の気配もない。当然、表現上少し妙なことになってしまうが、イワキはお弁当少女とふたりきりということになる。
「あの、お兄様。トルキーはどうすればよいのですか。夕飯までまだ時間がありますけれど、トルキーを食べますか」
「まだ食欲わかないな。だいたい、口移しで食べるのってなんか嫌なんだよな」
「がーん」
ムンクの叫びのように、頬に手をあててショックを受けているトルキー。
イワキはいまいち意味を図りかねた。
「どうした?」
「トルキーのようなお弁当にとって、食べる気が起きないというのは禁句なんです。人間に食べてもらうのがお弁当の本望なんですから、なんだかイラナイって言われたみたいで嫌です」
「自己主張が強い弁当だな。シーナはそんなことは一言も口にしないんだが……」
「シーナさんはとってもご主人様思いのお弁当なんですよぉ」
「ふうん。お弁当どうしのコミュニケーションでもあるのか?」
「ありますよ。ご主人様の趣味とか、どんな味が流行りだとかそういうのを情報交換しているんです」
「へえ……。シーナはあまりしゃべらないからな。その、弁当コミュニケーションでも何考えてるかわからんだろ。ご主人様思いとかさ」
「そんなの、見ればすぐにわかるじゃないですか。シーナさんはお兄様に食べてもらって幸せなんです!」
力説するトルキーに、イワキはそんなもんかと思う。
シーナの反応は水のように薄く、感情があるように感じたことは一度も無かった。では、目の前のトルキーに感情があるかと問われれば、その答えはイワキには知りようもない。確かに、人間らしくふるまってはいるが、所詮は弁当だという思いがある。
「おまえはそこらに座ってていいぞ。エネルギーを喰わないようにな」
「はい、わかりました」
「俺は何すっかな。テレビでも見るか」
「宿題を先にすませていたほうがいいんじゃないですか。いっぱいでてたじゃないですか」
「お弁当のくせに授業内容を理解してるのか。こりゃ、センゾーも大変だな」
「考えているよりずっと頭がいいんですよ。トルキーたち、自律料理複合体はご主人様たちに違和感を抱かせることなく食べられるために、焦点化された利害問題の次元や、関係的次元、情緒的次元の三つの領域を常に把握しているんです」
「ふうん」
イワキはそういった話に興味がなかった。
そんなもんかと思いつつ、テレビの電源を「テレビ」の一言でつける。
本当の名前は「テレビ」ではないのだが、ずっと昔の名前がいまもまだ使われているらしい。
部屋の中央の空間に歪像光学による映像が映し出される。夕方五時という微妙な時間帯のためかイワキの興味をかきたてるような番組がなく、次々とチャンネルを変えていく。チャンネルを変えるのも声である。
「次」
何回目かの声をあげたあと、イワキの動きが止まった。
最近流行の自律料理複合体を特集した番組のようだ。
「最近のトルキーたちってなんだかごてごてしてますねー」
「……」
目の前にはフリルと巨大なリボンで全身を着飾ったお弁当がにこやかな笑顔で微笑んでいた。黙っているだけだとほとんど人間と見分けがつかない。
どうやら単なるお披露目だけの番組ではなく、料理評論をするらしい。自律料理複合体はすでに完成された状態であるから、いわゆる調理というものが不要である。しかし、表現できる味や食感や匂い、そしてなによりも食欲をかきたてる見た目というものには個体差があるのだから、それらが個体の価値に直結していた。
見た目についてはともかくとして、味や食感や匂いをどう口頭で表現するかが料理番組の肝である。
料理評論家は三人いて、三人のうち一人は豚のように太っていた。食べる前から汗をかき、脂肪で顔が膨れていて目が線のように細くなっている。一人はがっちりとした色黒の体型で、涼しい顔をして笑っている。もう一人は今にも倒れそうなガリガリの体型だった。死にそうな表情をしていて、はやく入院したほうがいいのではないかと思わせるほどのふらふらした歩行である。
料理評論が始まった。
「ガリアです」
少女は名乗った。かわいらしく理知さを感じさせる声だった。
名前を知ることで三人の男たちの食欲は増進されたらしい。ごくりと喉が動く。
しかし、あくまでも評論であるから料理との会話はしない。
「かわいい名前ですなー」と唾を飛ばしながら太った男がいうと、「フランス料理を彷彿とさせる名前ですね」と色黒の男が受ける。ガリガリの男は黙っている。
ガリアは鈴の鳴るような声で「どうぞ、ご賞味ください」と言うと、胸元のリボンを取った。リボンだけは自分でとったが、あとはされるがままらしい。
料理評論家のうちのでっぷりとしているひとりが荒い手つきで装具を脱がせる。キャベツを剥くときのように、上半身だけ服を取りさられ、ガリアは三日月のような細い腰つきを衆目のもとに晒している格好になる。しかし、張りついたように彼女の笑顔は変わらないままだ。
スカートも同様にたくしあげられ、すべらかなふとももが、陶器のような白さを主張している。
「ほうほう、これはすばらしい肉づきですな。それに寒天のような透明感も非常によろしい。なだらかな稜線はまるで雪山のようです」
「いやはや、わたくしとしましては、もう少し質量があったほうが好みではありますな。スイカのようにとまでは言いませんが、せめてメロンぐらいの大きさは欲しい。もちろん好みの範疇であって、これはこれで完成された形だと思いますよ」と色黒の男が言う。
「肌の色が白すぎて、病的に感じられる」
ガリガリの男が言った。
おまえが言うなよという視線が集中しているが、ガリガリの男は気にする様子もなく、人差し指でガリアの肌の弾力を試している。
「ベースとなっている味はなんだったかな」
「シチューだそうですよ」
「食べがいはありそうだと考える」
「それではいただきましょうか」
「いやそのまえに、味見を少しするべきではないでしょうかね。こういう料理の類はわずかに口にし、どのような味であったかということを分析することで、味に対する期待感が膨らむものです。言葉で味わうという意味でも有用だと思います」
「どうでもいいことだと思うが、どちらでもいい」
「それでは、味見を先にしましょうか」
何もしないでも暑いのか、ふぅふぅと鼻息が荒い太った男。
彼が斥候の役目として最初にガリアの肢体に対してむさぼるように口をつけた。まだ食べる段階ではないので、口で吸うようにして味わっている。
「自律料理複合体のすべてを見きわめるのにもっとも適した部分は脇の下だと思います。見てください、このうぶ毛すらない柔肌を。水気を適度に保った肌のすべらかでなめらかな感触は人工でありながら自然物を凌駕する芸術品でして、表面的な美しさの背後に潜むクリエイターの配慮のようなものが、かいま見えます」
「いやはや、確かにそういった見解もおおいにうなずけるところではありますけれど、わたくしとしましてはその見解は料理の『おいしさ』を断片的にしか理解していないと思いますね。自律料理複合体はひとつの芸術品のようなものですから、断片的な理解によって芸術性を解体するのではなく横断的にその作品をまるごと味わいつくすことが、認識を豊かにすると思いますよ」
色黒の男はガリアの身体を後ろからかき抱きながら、首筋をぺろぺろと舐めた。ガリアが小さく「あ」、「あ」と吐息を漏らす。早く食べて欲しいと思っているようである。
ガリガリの男が物も言わずに、ずいと画面の前に進み出た。
「おいしいものをおいしいというだけではトートロジカルな表現にすぎないが、『おいしい』というような感覚に接着したものは、どのような言葉で表現しても同語反復にならざるをえない。辞書でおいしいをひけばうまいということだと載っていて、うまいとは何かを調べるとおいしいことだと書いてあるということは笑い話にするまでもなくわれわれの知るところである。言語の敗北といえるだろう。しかし、日常生活における料理の存在様相の言語学的パラダイムへの還元不可能性は、料理を言語によって一元的に理解することを拒否するがゆえにわれわれに料理についての存在理解の深化をうながすのである。けだし、われわれに必要なのは、真理を単一の言葉で表すことはできないということを認めることである」
「結局何が言いたいんだ、あんたは……」
「料理の奥深さだ」
「まあ、そんなことより」色黒の男が言った。「そろそろ本格的に食べてみませんか。食べれば食べるほどわれわれは真理に近づくのではありませんかね」
「確かにそうですな」
「その見解は肯定する。人間は試行錯誤をすることでしか真理に近づけない」
合意が形成されたらしく、三人はガリアの身体を食べ始めた。
「料理も新鮮さが一番ですなー。ぴちぴちしとります」
「確かに締まりがあってわたくしの好みですな。舌にすいついてくるような感覚が楽しませてくれます」
「純粋なおいしさの前では沈黙するしかない」
少女としてのかたちは断片と化し、評論家たちの口の中に解けていき、彼女が彼女であるという純潔性は侵奪されていって、異質な存在に同一化した。
ガリアは顔の表情がわからなくなるまでずっと笑っていた。
テレビを見ながら、ふと思った疑問をイワキは口にする。
「なあ、おまえらって食べられて嬉しいのか?」
「そりゃ嬉しいですよ。食べられて、充実感があるんです」
「気持ちいいのか?」
「気持ちいいですよ。お兄ちゃんは吸血鬼みたいに首筋に噛みつくのが大好きなんですけれど、そのときはトルキーもとても気持ちいいです」
「おまえ、旧式だから食べられないんじゃないかよ」
「甘く噛んでもらうんです。だけど、ほんとは……」
見ると、トルキーは沈んだ顔をしていた。
「ほんとは、全部食べさせてあげたいです。シーナちゃんがうらやましいです」
「機能的に無理だろ」
「無理ですねー。どんなにがんばってもトルキーたちは全部を食べさせてあげることはできないのですよ。だって、コアは機械でできていますから」
「確かに機械は食えないな」
「哀しいことですね」
「別にそうでもないだろ。食べられればどこでもいい」
「あうー。そんな投げやりな言葉を言わないでください。こう見えてもトルキーはガラスのハートなんですから」
「機械のハートだろうが」
「ま、そうです」
媚びたところのない健康的な笑いを浮かべて、トルキーはイワキに近づいた。
「あのー、そろそろ六時ですよ。お兄ちゃんはいつもこのぐらいの時間には食べているんです」
「そうか……、じゃあ、シーナも今ごろ食べられているのか」
イワキの中に得体の知れないもやもやとした黒煙のような感情が生じた。
たぶん、所有欲の一種だろう。自分のものが他人に侵されるのが嫌なんだろう。
ガキみてーだなと、イワキは思考を切り替えた。
トルキーは期待と不安のいりまじった視線で、イワキを見ていた。
「なんだ?」
「そろそろおなかがすいてきたんじゃないかと思って」
「そうだな……」
どうせならこっちも思う存分味わってやれ。そんなふうに思い、トルキーの頬に手の平を置く。
「食べますか。食べませんか」
「食べるよ。だから目ぐらい閉じろ」
「あい」
かわいくうなずいて、トルキーはぎゅっと目を瞑った。
忠実なところは、シーナもトルキーも変わらないと思いつつ、左手で手を重ね、もう片方の手は背中にまわして、イワキはトルキーを味わった。
液状のどろどろとしたものが胃の中に流れ込んでくる。嫌だ嫌だと思っていたが、意外にもおいしいことに気づいた。さすがに料理だ。液状ではあるが、口のなかに入った時点で、いろいろな味のハーモニーを奏で始める。クラシックのように複雑な音の奔流が一部の隙もなく調和しているようだ。
「うまいな……」
おいしいのは悪くない。しかし、釈然としない気持ちもある。かなりおいしく感じたのであるが、最期の一押しが足りない気分だ。絶頂にのぼりつめる寸前の、あるいは完成目前で打ち捨てられたような味。逆に半端においしいがゆえにいらだたしさを感じるのだろう。やはりシーナの左手薬指が一番おいしいというのを再認識する結果になってしまった。
「なあ……?」
「はい?」
「そのお団子食べさせてくれよ」
「あ、あの、トルキーは旧式だから髪の毛は食べられませんよ。復調変幻。いわゆるお弁当化については、トルキーは胃の中だけなのです」
「いいからさ……なんか物足りなくてな」
「んー。わかりました。でも食べられませんからすぐに吐き出してくださいね」
「わかったよ」
とりあえず、大口を開けて、トルキーのお団子を口にふくんでみた。
イワキは自分の好奇心が一瞬みたされるのを感じた。
しかし、そんなものはすぐに霧散し、今度は後悔が押し寄せてきた。シーナを貸したことに対する後悔。そしてなにより、自分自身がシーナ以外を味わってしまったという後悔だ。
いつもの一対一の関係が崩れ、最高に純粋な関係が崩れ、汚泥がまじってしまった。
トルキーが悪いわけではないが、いま口の中にある髪の毛のように、気持ち悪い吐き気がわきあがってきた。
「くそ、やっぱりシーナを貸すんじゃなかったな」
「トルキーはシーナちゃんに負けてるんですか?」
「そういうわけじゃない」
「そういうわけですよね」
「違うって」
弁当に対して釈明するのもバカらしい。
しかし、トルキーのあまりにも必死な様子に根負けするかたちで、イワキはぼそっと言った。
「単に好みの問題だ」
「ふぅん。好みの問題ですか。なんだか、ちょっと妬けますね。いやお弁当だけに焼けますねー。じゅーっとなっちゃいますね」
「はぁ? なに言ってんだ」
「お兄様はシーナちゃんのことが好きなのですね」
「何言ってんだ。単に味が好きってだけだよ」
「味が好きというのは、トルキーたちにとっては至上の言葉ですよ。ほとんど全存在を肯定されたのと同じことなんです。だから、もう、ツンデレツンデレ? うーん。微妙に違うかなー。ラブラブ。そう、ラブラブでございますなー、お兄様♪」
「おまえはいつもこんな調子なのか」
「そうですよぅ」
なぜか得意そうにトルキーは答えた。
不意に疲れを感じ、イワキは倒れこむように椅子に身体をあずけた。
その夜、傍らで待機状態になったトルキーの視線を感じながら、イワキは夢を見た。
シーナが目の前にいる。彼女は透徹した視線で遠くの世界を見ているようで、イワキが近くにいるにもかかわらず、まったく関心を抱いていないようだった。
「おい」とイワキは大声をあげる。防音ガラスかなにかで隔てられているかのように、シーナの視線は動かない。しかも身体が動かないのだ。これでは何もできない。
「クソ、どうなってんだ」
そのとき、シーナは手鏡を取り出すと、その鏡の中にイワキを映しこみ、鏡像のイワキに対して笑いかけた。
ぞっとするような笑み。
「楽しい?」
「何がだ」
「そうやって何もできないのが、楽しいかって聞いているの」
いつもとまったく違う口調だった。多弁で、表情はくるくると変わる。
しかし、鏡に映った姿。鏡に映ったシーナ。
真正面からは見えない。後ろ姿だけが見えた。
「おまえ、変だぞ」
「そうかな。変かな。変なのはどっちかな。私を食べることで、全部所有したように思ってるイワキのほうがよっぽど変なんじゃないかな。所有することなんて無理なのに。全部、食べることなんてできるはずもないのに。くだらないね」
「くだらないだと」
全身が沸騰したように感じた。
しかし、身体はぴくりとも動かない。
「ねえ、イワキ。いつも食べられてばっかりだと平等じゃないから、たまには私が食べてもいいかな。イワキのこと食べてもいい? いいよね。食べちゃってもいいよね」
あくまで鏡の中のイワキに語りかけるシーナ。
その顔は恍惚にゆがんでいた。
「お、おい、なに、するんだ、やめろ、おいやめろ」
じりじりと、シーナが近づいてくる。鏡で顔を隠しながら決してイワキを視界に入れようとせずに。
そして、目元を隠した状態で、シーナは花弁のような口元を開いた。
白い歯が見える。
イワキは胃の中が冷えたように感じ、身震いした。
「やめろ、やめろ、やめろー!」
「いただきます」
イワキの首元から鮮血が噴水のように飛び散った。
「うわぁぁ!」
イワキはベッドから飛び起きた。
「あ、にゃ?」
体育座りで眠っていたトルキーが目をごしごしこすって、ぼーっとしたまなざしでイワキを見ている。
「し、死ぬかと思った。どういう夢だよ。弁当に食べられるなんて……」
「どうしたんですかぁ?」
「なんでもない」
「ものすごい汗ですよ。お兄様」
「寝汗だ」
「寝汗ですかぁ。額までびっしょりですよぉ」
「これぐらい普通だよ」
右手で汗をぬぐい、イワキはベッドから身を起こした。壁に照射されているホログラフィックの時計を見ると、朝の七時だ。そろそろ学校に行く準備をしなければ遅れる。イワキは無造作に寝巻きを脱ぎ始めた。
「服、着替えさせましょうか?」
「センゾーはそんなことまでさせてるのか。別にいいよ。弁当には弁当の領分があるだろ」
「そうですね。お弁当の領分は食べてもらうことですからね。そういえば、朝ご飯はどうするんです? トルキーを食べますか」
「別にいいよ。朝は食べないでも」
「いけませんよぉ。朝食でエネルギーをとらないと頭も働きませんし、身体も栄養がないと成長しません」
「別に成長しないでもいい」
それに今は一刻も早く、シーナを取り戻したかった。今から学校に行けば、一時間目が始まる前にシーナの味を思い出すことができる。一日貸しただけにも関わらず、イワキは飢え死に寸前の気分だった。
早く、シーナを味わいたい。味わいつくしたい。あの、白い、頭蓋骨のように白い薬指。細くて華奢で、しかし、まるで一振りの日本刀のような芸術的な強さがある。
緩やかな曲線や研ぎ澄まされた直線で構成された完全な造形。そして言葉で表現できない無上の味。
ほとんど動物的な欲求を押さえつけながら、あえてイワキは地面を踏みしめるようにゆっくりと歩いた。走り出したら止めることができないような気がしたからである。
学校に到着すると、すました顔をしたセンゾーが右手を軽く上げてイワキ達を出迎えた。
「よう。遅かったな」
「シーナはどうした?」
教室内をぐるりと見渡して見たが、シーナの姿が見えない。イワキの目つきが鋭くなる。
「ああ、シーナちゃんね。おいしかったよ」
「それで、どこに」
「だからね。おいしすぎちゃって、ちょっといっぱい食べ過ぎちゃったんだなー。復活までに時間がかかるから勘弁してくれ」
「はぁ? おまえ、一日貸すって言ったけど、そこまでしていいって言ってねーぞ。ちょっと味見するぐらいだと思ったから貸したんじゃねーか。人の好意を利用して何やってんだよ!」
イワキが鬼のような剣幕で怒鳴る。
「別にいいじゃんか。貸すって言った以上、それぐらい覚悟しとけよな」
「覚悟? ふざけんじゃねーよ」
「弁当ぐらいのことでなにマジ切れしてんだよ。バカじゃねーの」
「バカはてめえだ」
「まぁまぁ、お兄様、シーナちゃんはすぐに回復するんですから」
「黙れ、弁当のくせに口出しするなっ」
イワキに突き飛ばされ、トルキーの身体が宙に浮く。ごつと鈍い音がして、トルキーの後頭部から赤い液体が流れ出た。血ではないが、イワキは気まずさを感じ、それが怒りとないまぜになって、自分の感情がどこにあるのかよくわからなくなった。
「クソ……」
という言葉しか出てこない。言葉にならない感情は悪態をつくことでしか消化できそうになかった。腹の中がぐつぐつと煮えたぎっていて、かきむしりたくなるのを必死にこらえている状態だ。
トルキーがよろめきながら立ち上がった。
「トルキーは元気ですよぅ。これぐらいじゃ壊れませんから安心してください」
見事に頭が陥没しているが、中身は本当にからっぽだったらしい。右手でさすりながら、にこにこしている。
「まぁ、なんだ。確かにオレも悪かったかなー」
センゾーは若干引いていた。イワキがなぜ怒っているのかこれっぽっちも理解できなかったからである。
「だから、そのなんだ。ごめん。ごめん」
ごめんは一回でいいって先生に教わらなかったのかよ、この野郎、死ね死ね死ね死ね、クソが、雑魚虫が、と言いたかった。
言葉になるよりも早く激烈な感情が先にある。しかし、ここでわめいてみたところで逆にみっともない。そんな打算的な計算も少しは働いて、それにトルキーの笑顔にも少しばかり影響を受けて、イワキは感情が暴走する一歩手前で踏みとどまった。
そして、一言。
「オレもそれぐらいは予想しとくべきだった」
怒りの感情は急速にしぼむというわけにはいかなかったが、ひとまず理性的な行動を取ることができるぐらいにはなった。イワキは深く嘆息をついて、センゾーに向き直る。
「別に復活させなくてもいいから、今日とりにいくよ。シーナ」
「え、でも、肉がちょっと足りないから合成タンパク質のプールに沈めてるんだぜ?」
「別に。それも家でやるから」
「あ、そう。じゃあ、好きにやってくれ」
ここは下手に逆らわないほうがよいと判断したのか、すぐにセンゾーは合意した。
放課後。センゾーの家でシーナの姿を見たとき、イワキは身体をこわばらせた。
「あ……あ、イワキ。使用貸借の期限は経過しました。イワキによるシーナの占有を推奨……」
シーナの力無い声。思わず絶句し、それから五秒ほどかかってようやく、
「シーナ……」
イワキは答えていた。
シーナの身体は爆弾の直撃を受けたかのような有様だった。体組織の五十パーセント近くが失われていた。下半身はほとんどなくなっていて、左腕も根元から無い。右目もえぐりとられており、髪の毛もショートカットになっていた。
「なあ、別にいいよ。こっから元に戻すのってけっこうエネルギー使うだろうしな」
「オレの家でやるからいい」
イワキは反射的に答えていた。このままだと悪感情がまた噴き出してしまいそうだと思い、イワキは口を硬く結んでシーナの体を両腕に乗せた。
「服ぐらい着せましょうよぉ」とトルキー。
「ああ、そうだな」
トルキーが持ってきたバラのように真っ赤なワンピースを、イワキはどうにかこうにかシーナに着せた。トルキーにも手伝ってもらった。その間、センゾーは所在なく部屋をきょろきょろと見回していた。
「じゃあ、オレ帰るわ」
イワキが感情のこもらない声で言った。
「ああ、じゃあな。悪かったな」
イワキは聞き流すようにして、すぐにセンゾーの家から立ち去った。
それからあと、イワキは家にある合成タンパク質のタンクの中にシーナの体を沈めた。ゆっくりと眼を閉じて、シーナは眠りにつく。ポリメラーゼ・チェイン・リアクションによってシーナの欠損した部分は急速に再構成されていく。
センゾーによって食べられた身体は徐々に元通りになっていった。
ほっと安心して、イワキは今日の晩御飯はどうしようかと考えた。しょうがないから、久しぶりに自律料理複合体ではない飯でも食べるしかない。完全に体が元通りになるには時間がかかりそうだ。それまではシーナの味をあれこそ思い描きながらもんもんと過ごすしかない。
「クソ」
やはりこの言葉が口をついて出た。
もうほとんどセンゾーに対する憎悪は無くなっていたが、この理不尽な状況に対するやりきれなさはいかんともしがたい。
ひらべったい壁に向かって、イワキは頭を打ち付けた。
ゴッ。
ゴッ。
ゴッ。
こうしていれば、少なくともいろいろなことを考えずにすむ。
その日の夜。
ありあわせの科学合成食材で済ませたためか、イワキは空腹感で眼をさました。シーナはどれぐらい回復しただろうか。そう思い、シーナを眠らせたタンクに向かう。
すると、驚いたことにシーナは目覚めていた。
ぬるりとした感覚の液体を身にまといながら、人形のように立っている。
生理的な恐怖を一瞬感じながらも、イワキはシーナに近づいた。
「どうした? 何か問題があるのか」
視線を落とすと、白くなまめかしい素足が赤いワンピースから覗いている。どうやら下半身は回復したようである。そしてエメラルドグリーンの髪の毛も腰のあたりまで延びていた。右目も元通りになっている。
そして、左手薬指も元通りだ。
「元通りになったみたいだな」
「イワキ。シーナはあなたの命令に背いた」
突然、シーナが微笑した。
月の女神のような愛想笑いだ。
今までこんなことは無かったので、イワキは驚きのあまり二歩だけ後退した。
「どういうことだ」
「イワキは合理的に意思を解釈して、センゾーの命令に従うように命じた。シーナはちゃんと理解していた。イワキはシーナの左手薬指を誰にも食べさせたくないということを合理的意思だと解釈することはたやすかった。だけど、シーナは左手薬指も食べさせた」
「センゾーが無理を言ったんだろ」
「そうじゃない。確かにセンゾーは食べたいと言ったけれど、最終的な選択段階に至り、シーナは食べさせることを選んだ。イワキが食べさせたくないと思っていることを知りつつ、そうした」
「どうしてだ。よくわからない」
「シーナはイワキ以外の誰にも食べられたくなかった。私はイワキ以外の誰にも食べられたくなかった」
「復讐だとでも言うのかよ。単なる弁当にすぎないおまえが所有者に対して恨みの感情を抱いたとでも言うのか?」
「そう復讐。だから、シーナはもうイワキに左手薬指を食べさせたくない」
「ふざけんな。所有物にすぎないおまえが、逆らえると思ってるのか」
「実際に逆らえるか逆らえないかは問題じゃない。思想の問題。シーナはもう二度とそうしようと思ってそうするわけじゃない。ただ単にプログラムにしたがって命じられたとおりに行動するだけ」
「は、おまえなに言ってるのかわかってんのか。おまえはもともとプログラムで動いているにすぎねーじゃねーか」
「いままで、シーナはずっと食べさせたいという想いがあった。イワキに食べてもらいたいと想っていた」
「わかんねーやつだな。その想いってやつも作りもんだろーが。おまえは単なるタンパク質とかその他もろもろの栄養素の複合体で、便利だからという理由で自律できるけれど、それは人間の都合にすぎねーよ」
「想いは言語化できない。証明はもとより不可能」
「だから、単なる錯覚なんだって。おまえ少しデバッグしたほうがいいんじゃねーか」
「違う。そうじゃない!」シーナが感情的に声を荒げた。「そうじゃない……」
イワキは本気でシーナのプログラム的な危機を心配しはじめた。どこかでぶっこわれたんじゃないか。もしかすると、センゾーに貸したときに、コアを傷つけたんじゃないだろうか。
しかし、シーナの紅い瞳は、うっすらと涙でにじんでいた。
ためこんでいた想いはすでに膨らみすぎていて、心が風船だったらとうの昔に破裂している。シーナはタンクの中から右足を出して、外に出た。
「好き、なんだよ」
右手を硬く握り締め、シーナは言った。決して言ってはならない言葉を発した。
シーナの頬を涙がつたう。自律料理複合体の涙は富士山麓のミネラル水であったが、涙はやはり涙であって、涙以外のなにものでもなかった。イワキはふらふらと夢遊病者のようにシーナに近づき、口を接着させた。
イワキはすっかり動物と化し、シーナの体をむさぼるように食べた。シーナの左手薬指もすぐに無くなり、ふくらはぎも、ふとももも、どこもかしこも考えずにひたすら無心で口の中に入れた。
なぜ、そうしているのかイワキ自身もわからない。
しかし、どうしようもない苛立ちを感じていた。否、それは明確な殺意だった。大方なところに歯型をつけたあと、イワキは台所からレーザー包丁を取り出してきた。数ミリ前後の短いレーザーで刀身を覆っている切れ味抜群の包丁だ。イワキは無言のまま口を真一文字に結んでいるシーナに向かって、むやみやたらと包丁をつきたてた。
擬似的な動脈は存在するので、そこから噴水のように紅い液体が宙を舞った。
ぐいと力を入れて、イワキはシーナの首を切断する。ぎこぎこと何度も往復させて、ようやく首が胴体と分断された。
そこで、シーナは初めて声を発した。
「イワキは一生懸命、私を食べようとしているけれど、本当に食べられているのはどっちかな」
「……」
イワキは答えない。
切断した首にかぶりついて、その細く白い肌を噛みちぎった。
「ねえ」シーナが自律料理複合体の完璧な微笑を浮かべながら言う。「おいしい?」
イワキはすでに答えることができないほど錯乱していた。
猿以下のただ食べることを考えるだけの生き物と化していたのだ。
「シーナは最高の味だ。オレだけの味だよ。うまいうまいうまいうまいうまいうまいうまいうまいうまい」
「そう、よかったね」
彼の心はシーナに完全に掌握されていた。精神的な意味において、イワキはシーナに食べられていたのである。
お弁当であるシーナに感情移入し、そこに心があると思ってしまえば、もはや原理的に所有することは不可能になる。情欲も所有欲も相手のことを考えれば考えるほど、完全に満たすことはできなくなる。
すべてが虚空へと消えていく。
イワキの顔が苦渋にゆがんだ。
シーナのわずかに残った白い顔。右目の奥には小さな核が見える。シーナの残った左の瞳の中にイワキの姿が映りこみ、イワキの瞳にはシーナの姿が映っていた。
合わせ鏡のように、無限の虚像がそこにある。
イワキはシーナの首を手にとり、おもちゃのように手の上で遊んだ。
幼子のように思考が停止していたのは一瞬。
その直後、イワキの脳裏に究極的ともいえる迷いが生じた。
苦悶のためか顔が獣のように歪み、
脂汗がだらだらと流れ、
う、う、う、と短い唸り声。
選択は二つに一つしかない。取りうる行為は単純に二つなのだ。
すなわち、彼女を所有することを完全にあきらめるか、あるいは二度と生意気な口が聞けないように殺してしまうか。