第十章 海にて 二
この錦の御旗に逆らうという事は、逆賊である。
旧幕府側は逆賊として成敗されようとしているのである。
勘吾ら新選組は旧幕府側の一員として、新政府の掲げる錦の御旗に追われるように、北へ北へと北上した。
その間に、隊士たちもばらばらになった。沖田はついに労咳で死に。永倉や原田ですら、
「すまん、もう戦う理由はおれにはない」
と言って離脱。
近藤は捕らえられて、斬首された。
その他大勢の隊士も抜けて、新選組は有名無実の存在に成り下がって。勘吾らはもはや「元」新選組隊士になってしまった。
永倉と原田は離脱の際に、勘吾にも離脱をすすめたが。
「それは、おれにはできんことです」
と、首を横に振った。
途中深手を負い、命の危機にさらされたが。奇跡的に回復。戦列に復帰し、土方らとともに今、回天丸に乗る。
「阿呆やのう」
などと卑下はしない。ただ、
「中岡、坂本、これがお前らの望んだことなんか?」
と、そんなことを天に向かって問いかけた。
咸臨丸はかわいそうなことになり、駿河沖で新政府に攻撃され、鹵獲されてしまった。鹵獲の際、船員の多くが戦死し、少ない生存者は捕虜となった。さらに、むごいことに浜に打ち上げられた戦死者は逆賊であることを理由に埋葬を許されず、腐るがままにされようとしていた。
それを清水の次郎長なる博徒が「死人に官も賊もない」と葬ったそうだ。
戦死者の放置はそれだけではない。会津が攻め落とされた際にも戦死者を弔うことは許されなかった。
新政府はとことんまでに自分たちを逆賊として辱めるつもりだ。
京にいるころ、敵対する者に対して容赦しなかったが。それが今こうして己に返ってきているということなのだろうか。
「戦は恨みしか残さんのう」
勘吾は歌うのをやめ、舌打ちした。
歌えばふるさと讃岐を思い出し、変に感傷的になっていけない。自分たちはこれから戦うのだ。
戦いに感傷は邪魔である。
時は明治二年、三月下旬。
肌寒さ残る北の初春の季節。回天丸、蟠龍丸、高雄丸の三隻の船が蝦夷の函館を出港し、太平洋に出て、南下する。
だが南下はうまくいかず、大時化に見舞われてお互いにはぐれてしまった。
そのうち二隻、回天丸と高雄丸は合流できたが、蟠龍丸は見つからなかった。
その前に、大時化のために受けた損傷は大きく。その修復のため、やむなく、旧幕府とわからぬよう外国の旗を掲げて最寄りの山田港(岩手県)に入港した。
はぐれてしまった場合は、八戸の鮫浦沖(青森県)で落ち合う旨事前に確認しあっていたので、修復後はそこへゆこうとしたが。
「盛岡藩の宮古湾(岩手県)に目標あり!」
との知らせが飛び込み、急ぎ修復を終え、二隻のままで目標向かって進んだ。




