第七章 制札事件 二
引き抜かれた制札の無残なさまが朝になって見つかって。大騒ぎとなった。
制札を抜くということは、幕府に敵対するということだったからだ。
幕府など屁とも思っていない京雀たちであったが、さすがに新選組をはじめとする幕府の飼い犬たちは怖くて。
面従腹背の態度を取っていたので制札を抜くまでには至らなかった。
その制札を抜くという事は、よほどのことである。
やむなく抜かれたものは廃棄され、新たな制札が立てられた。
しかし、翌朝になればまた抜かれて打ち捨てられる無残さであった。
かくなるうえは、やむをえぬと。新選組に仕事が回ってきた。
時は慶応二年(1866年)も秋の頃であった。
寺田屋から一年も経っていないのだが、やけに色々とありすぎて変に長く時が経ったように感じないでもない。
ともあれ、原田左之助をはじめとする新選組十番隊三十六名が制札の近くの家々や各所に隠れて、様子をうかがった。
その三十六名の中には、勘吾もいた。位はあいかわらず平のままであった。
「土佐もんもしぶといもんじゃのう」
付近の家屋にて、原田左之助は忌々しくつぶやく。
寺田屋事件のひと月ほど後に、後にぜんざい屋事件と呼ばれる事件が起こった。壊滅した土佐勤王党の残党が大阪城を乗っ取ろうと企てていたのを、新選組が阻止したのだ。
これには勘吾は出向いていない。
土佐勤王党は武市瑞山なる者が結成した尊皇派の団体だが、一時威勢はよかったものの、なんだかんだで潰されてしまった。
党首の武市瑞山は切腹を賜った。
慎太郎と龍馬は瑞山とうまが合わず、袂を分かたざるを得なかったそうだ。
こうして見れば、土佐はがたがたである。
(それだけに、慎太郎や龍馬が個人として動かざるを得なかったか)
一見不利のようだが、逆に考えれば身の軽さである。
軽業師のように薩長の間を行き来し、関係を取り持ち、盟約にまでこぎつけたと考えれば。両名の働きは相当のものである。
今の幕府のざまを見よ。こんなことになってしまうなど、誰が考えただろう。
ともあれ勘吾は原田と同じ家に潜み、外の様子をうかがう。
家の者らは恐る恐るかしこまって、邪魔にならぬよう隅で縮こまっている。
制札のある通りを多くの人が行き来している。
今は屯所から持ってきた私服姿、何の気なしに窓から外を見ている。陽はまだ高いので、こんな時に制札を抜こうとする馬鹿はさすがにいない。
「……あ」
勘吾ははっと息を呑んだ。見覚えのある痩せ身の遊び人風情の者が目の前を足早に通り過ぎていった。
「双藤六九郎、まだ京におったんか」
思わず駆け出しそうになったが、その様子を察した原田に肩をたたかれる。
「相変わらず、お前は切腹と紙一重じゃのう」
「あ……。面目もありません」
今回の任務は制札に悪戯をする下手人をこらしめ、捕らえることである。余計なまねをすれば、だいなしである。
自制心を働かせて、勘吾は己を落ち着かせた。




