第三章 邂逅 二
夜の帳が落ちて、京の街も真っ暗であった。
提灯や灯篭がわずかばかりに、夜闇から京の街をすくい出す。
永倉と勘吾と他二名。その四名の一番若い隊士に提灯を持たせていた。
三人のうちふたりは少し震えているが、ひとりは眼光鋭く四名を睨み返した。
「名は何という」
訊いたのは勘吾であった。永倉は後ろで眺めている。
「石川清之助といいます。ほかのふたりは勘弁してやってください」
鋭い眼光ながら、石川と名乗った男は腰も低く慇懃な態度だった。
「どこの者だ。この夜分になにをしている」
「薩摩の者です。夜遊びで遅くなっただけです」
「ほう、薩摩……」
(九州もんか)
ふと、双藤六九郎を思い出す。あいつにはやられた。二度とそんなことがないように、強気に出る。
薩摩は幕府に忠誠を誓い、松平容保公の会津藩とともに、不穏な様子を見せる長州藩に睨みを利かせていたので薩摩者ならば怪しいことはないだろう。
永倉は腕を組んで様子を見ている。
(うーん、薩摩か)
ふと、脳裏に閃くものがあった。
「戸次川合戦のことは聞いていよう。おれは讃岐の出でな」
「戸次川……」
戸次川合戦とは、戦国時代、九州は豊後で繰り広げられた合戦のことだ。南九州から進出した島津に押された豊後の大友氏は、たまらず豊臣秀吉に援軍を乞い。
そこで、四国の、主に土佐と讃岐の軍勢が豊後に送り込まれたのだが。
当時の讃岐太守であった総大将仙石秀久は血気に逸って島津の策に乗ってしまい、土讃の軍勢は壊滅。
仙石秀久は逃げ帰ったものの、土佐の若武者・長宗我部信親と阿波三好氏の出ながら讃岐の名族十河氏を継いでいた十河存保をはじめとして、二千を超える土讃の武士が戦死してしまった悲劇の合戦であった
この悲劇は、長い時を経てもなお語り継がるほどであった。
石川は眉間にしわを寄せ、にわかに強い(こわい)形相となった。永倉はその様子の変わりようを見逃さなかった。
「戸次川合戦ならば、松前藩の出のおれも聞いている。薩摩と讃岐の武士が、戸次川で語り合うのを見てみたいな」
「や、永倉さんも興味ありますか」
「……あ、ああ、まあな」
(こいつ、気付いていないのか)
勘吾は石川の様子に気づいていないようで、げんこつを食らわせてやろうかと思ったが。悟られてはいけないので知らぬ顔をする。
「薩摩では、どのように戸次川が語り継がれている?」
「……」
石川は歯ぎしりした。
(まさかこんなことを聞かれるとは思ってもみなかった……)