猫
世の中には光と闇があって、人間はそれぞれ自分の相応に合った棲み分けをしている。
俺、佐々木恭司の場合は闇で、水木楓や武藤悟なんかは光の手合いだ。
ただ、俺と水木楓の場合、親に見捨てられた点では共通している。武藤悟も両親を亡くしている。まだ八歳であるにも関わらず、あいつらは光にありながらそういう辛さは知っている。
俺はあいつらより長く生きてるぶん、汚水を泳ぐような感覚が身に沁みついている。
俺の見た目は楓や悟より十ばかり上なぐらいだが、実年齢は三十を超している。
その不思議の種明かしは、コトノハの力だ。
コトノハというのは、言葉に宿る音色と力のことで、本来であれば音ノ瀬という一族に限り処方可能なものだ。
だが、時折り音ノ瀬以外で、俺や楓のようにコトノハを処方する力を持つ人間がいる。
俺は自分の力の何たるかを知った時、コトノハで自分の肉体年齢を止めた。
児童養護施設をとうに出て、密貿易に手を染めていた頃だ。
俺にコトノハについて教えてくれたのは、音ノ瀬一族のはぐれ者である音ノ瀬隼太だった。その後、俺は隼太と行動を共にした。
隼太は当初、現音ノ瀬当主である音ノ瀬ことと対立していたが、今はコトノハの力を狙う組織の連中に対して共闘関係にある。それで俺は、音ノ瀬ことが養育する楓のボディーガードを隼太に命じられたという訳だ。
以降、俺はしばしば、楓やその級友である悟とつるむようになった。
中身は大人である俺としては不本意な流れだが、悪くない気分だった。
ただ、光の住人である楓や悟と自分との違いは明確に意識していた。
意識しなければならないと思った。
あいつらを、こっち側に触れさせてはいけない。
初秋の土曜の午後、音ノ瀬本家を訪ねると、楓は今、昼寝中だから起きるまで部屋で待っていると良い、とあっさり音ノ瀬ことに言われた。
良いのかよ。
嘗ては敵対していた男に、無防備だなと思いながら、案内を受けて寝室に足を運んだ。
楓は腹にタオルケットを掛けて健やかな寝息を立てている。
寝室の違い棚には蝉の抜け殻やらビー玉やらが置かれている。
如何にも楓が好みそうな陳列だ。
俺は楓の眠る横に腰を下ろした。
寝顔を見てガキだな、と思う。
植物の楓で言うならまだ緑色の。
楓が寝返りを打った拍子にタオルケットがずれたので、直してやろうと手を伸ばした。
伸ばした手は途中で止まる。
それは本能的な危機感のようなものだった。
俺が触れたらこいつまで闇に染まる。
そんな恐れが俺の身体を支配した。
俺は右手をぎこちなく動かした。
楓の髪。
額。頬。唇。華奢で細い手脚。
それら全ての輪郭の空気にだけ触れた。
空気であっても熱を帯びているように感じる。
怖かった。
楓を闇に染めるのではないかと思う一方で、それでも動こうとする自分の手が。
棲み分けを誤ると壊れるものがある。
目の前にいるのは光の申し子だ。
俺の知らない明るい先をゆく。
やがては美しく紅葉するのだろう。
その時、隣に立つのは悟だろうか。少なくとも俺じゃない。
楓はまだ目覚めない。
まだ目覚めない。
俺の緊張していた身体は、暇を持て余した野良猫みたいに弛緩した。
なあ、楓。
いつかお前が、お前の明るい世界の中で、俺が黒い汚点だと気付いた時。
その時、お前はきっと赤く染まった楓の一葉のようになっているんだろう。
そうして汚点となる俺はお前の目の前から消えるだろう。
お前の世界は完璧になる。
それまではまだ、微睡んでいてくれ。
それまではまだ、お前の傍で微睡む猫のようでいさせてくれ。
俺は、俺の正体を知っている。
「俺は紅葉に怯える猫だ」