第三聖騎士
イズガルド東方の街、ヴァルナ。
王国に東に位置するこの小さな街は、北部は海に面し、南部は山に囲まれた自然に恵まれた土地である。
そして、平野部の多くは農地として古くから開拓が進んでいたことから、農業が盛んな土地柄であり、その土地柄から王国では珍しく裕福な農家、ウィルシャー家が街を治めていた。
アイヴィスはウィルシャー家の使用人だった。
決して裕福とは云えなかったアイヴィスの家は、家族全員を養うだけの経済的な余裕が無かったので、アイヴィスが十五歳になったときにウィルシャー家に使用人として奉公に出されていたであった。
「アイヴィス、旦那様の朝食の準備が出来たら、次はお嬢様たちのお召し物のお着替えのお手伝いをお願いするわ」
ウィルシャー家の女中頭のレイナが、次の仕事をアイヴィスに言い付ける。
「畏まりました。レイナ様」
アヴィスは昨日、街で収穫されたばかりの果実を籐で編んだ篭に盛りつけながら、レイナに応える。
使用人となってから二年の月日が経ち、今ではすっかりとウィルシャー家での生活にも慣れ、アイヴィスは主に給仕係を任されていた。
若くて美しいアイヴィスは、ウィルシャー家で晩餐会が行われると、必ずとっていいほど上客の給仕を任されており、そんなアイヴィスのことを快く思わない他の給仕係のものも少なからずいた。それでも、アイヴィスの勤勉で実直な働きぶりと決して弱音を吐かない健気な姿に次第に感化され、次第にアイヴィスの味方をしてくれるようになっていた。
女中頭のレイナも、その一人であった。
ウィルシャー家の家事全般を取り仕切るレイナは、容姿だけで持て囃されるアイヴィスに最初は反感していたものの、今ではアイヴィスに全幅の信頼を寄せており、自分の後任には是非、アイヴィスを推挙したいと考えていた。
「アイヴィス、貴女はもしも私に何かあったら、私の代わりに働いてもらうことも十分に有り得るのだから、今のうちから確りと働いて頂戴ね」
「そんなことを云わないで下さい。レイナ様の後任に私などが勤まる訳がありません。レイナ様も未だお若いのですから、これからも一緒にウィルシャー家に尽くしましょう」
仕事をしながらこのような遣り取りをするのが日常茶飯事となっていた。
そんな、ある日の出来事であった。
ウィルシャー家の当主のアレンに、執務室まで誰にも告げることなく来るように言いつけられた。
この様なことは初めてであったので、二人とも戸惑っていたものの、当主からの直々の言いつけであったので、命じられた通りに誰にも告げず、アレンの執務室を訪れた。
コンコンと執務室の入り口をノックする。
ほどなくして「入りなさい」とアレンの落ち着いた声がする。
執務室は自体はそれほど大きな部屋では無く、執務をする為の大きな木製の机と、ソファーとテーブルがそれぞれ一脚づつと、壁の本棚には隙間無く書物が納められていた。蔵書は、農業のことや街の政治のことなど、多種多様な書物が並び、アレンの勤勉な性格を窺わせていた。
「急に呼び立ててしまって申し訳ない」
二人が部屋に入ると申し訳なさそうにアレンが云う。そして、二人に、
「レイナ、アイヴィス。これはウィルシャー家にとって重要なことが記された書簡だ。これを隣町のフォクツ家まで届けて欲しい。本来であれば、自衛団に書簡を届けることを依頼したいところなのだが、余りにも重要なことなので、信頼できる二人に任せたいと思っている。特にレイナは、奇跡の力にも長けているので、この仕事を是非引き受けて欲しいのだが。どうだろう、危険な仕事ではあるが引き受けてくれるか?」
当主であるアレンから依頼とあれば本来であれば断るという選択肢は有り得ないのだが、アイヴィスは引き受けるべきか迷った。
書簡の内容は明らかにされなかったが、フォクツ家とは、最近までお互いの領土のことで争いが絶えなかった。最近、どの様に経緯で話しがついたか判らなかったが、両家は和解に合意するであろう、というのが使用人のなかでの噂であった。
そのフォクツ家にこの時期に書簡を届けに行くのである。書簡の内容は和解に関することだと想像に難くは無かった。
両家は長らく対立関係にあったので、和解自体を良く思っていない勢力があっても不思議ではない。その勢力に書簡を狙われるということも当然有り得る話しである。自衛団に反対勢力の人間が混ざっている恐れがあるので、依頼出来ないというアレンの話も理解できる。対立勢力に書簡の話しが漏れれば、当然、書簡を狙われることになり、それを避ける為にもアレンは、二人に書簡を届けるよう依頼してきたのである。
さらに云えば、二人がフォクツ家に書簡を届けに行くということが、外に漏れた場合、襲われることも当然有り得る。
その時はレイナの出番であった。
レイナは使用人を纏める立場の女中頭であり、その使用人やウィルシャー家を守るのもレイナの重要な役割であった。
彼女の奇跡の力は、騎士団の騎士に迫るものがあり、暴漢の進入を未然に防ぐ『捕捉』や暴漢を退治する『神罰』も使用することができ、使用人の守護者として、申し分の無い働きをしていた。
レイナと一緒なら出来る、とアイヴィスは思っていた。
アイヴィスは暴漢に立ち向かえるような奇跡の力は持ち合わせていなかったが、レイナの力があれば、無事にフォクツ家まで辿り着けると感じていた。それに隣町のフォクツ家までは歩いても一日程度の距離である。反対勢力の人間に見つからなければ、簡単に辿り着ける距離である。
「承知致しました、アレン様」
レイナは、迷うことなく即答する。遅れてアイヴィスも、
「お任せ下さい、アレン様」
と返答する。
レイナが一緒なら必ずやり遂げられると信じて。
出発はその日の深夜であった。
レイナとアイヴィスは日中は普段通りに仕事をこなした。
「それでは失礼致します、ご主人様」
一日の仕事を終え、アレンの元を辞する二人。
アイヴィスは部屋に戻り、出発の準備を始める。
書簡は二人で相談してアイヴィスが持つことにした。反対勢力に露見した場合、真っ先にレイナが書簡を持っていると疑われるであろう。よって、反対勢力の狙いはレイナに向かうので、レイナが反対勢力を引き留め、その隙にアイヴィスが書簡を持って逃げるという算段であった。
出発の準備といっても、身の回りのものを多少持って行く程度のことなので、あっと言う間に終わった。書簡は胸元にそっと忍ばせておく。武器の類は持って行かないことにした。もとより武器を扱ったことなど一度も無かったので、武器を持っていても有効な反撃を行う自信はなかった。
「レイナ様、アイヴィスです。支度が出来ましたので迎えに上がりました」
レイナの部屋の前で、そっと声を掛ける。
「アイヴィス、早かったわね。私も支度を丁度終えたところです」
部屋の中から何時もと変わらぬレイナの落ち着いた声が聞こえる。アイヴィスは冷静を装ってはいたものの、内心は不安で仕方なかった。レイナと一緒でなければ逃げだしたいと思っていた。
「では、行きましょう」
扉を開けてレイナが出てきた。服装は普段と同じ黒いエプロンドレスであった。
フォクツ家までは、休憩を挟まずに一気に向かう予定だった。時間を掛ければそれだけ、反対勢力の目につく可能性が高まるからであった。
人目がつかないように裏口から出て行く。深夜なので当然。誰にも見つからずに出て行けた。
「無事に屋敷を出られましたね。レイナ様。暫くは街中を行くので、それほど心配は要らないと思いますが、問題は街を出た後でしょうか」
「それは、早計よ。街中の方が死角が多いし、建物の中から様子を伺っているかも知れないわ。『捕捉』では人影が沢山見えますけど、どれが反対勢力か判別つかないですから」
歩きながらレイナがアイヴィスを窘めるように云う。
「なるほど。そこまでお考えであったとは」
「当然ですわ、アイヴィス。これでもウィルシャー家の使用人を見守ってきた自負がありますからね。貴女も近い将来には、この立場になってもらうのだから、今回の務めも気を抜かず、しっかりと果たすのよ」
「畏まりました、レイナ様」
自然と笑みが漏れる二人。
緊張を強いられる旅ではあったが、お互いがお互いを信じることで、何か気が楽になるような気がする。
街中はレイナが心配していたような事は一切なかった。
深夜も街は静まりかえり、時折、野良犬や野良猫の姿が見えるだけで、人の姿は全く見えなかった。
「もうすぐ、街を出ますね」
「そうね。街を出たら暫く平坦な街道が続くけど、暫くすると山道に出る筈よ。その山道が最大の難関かも知れないわね」
ウィルシャー家とフォクツ家の街の間には決して高くはないが山が存在していた。
その山からの伏流水が、水源となり、両家の街が潤っているのであった。
「あの山には街に流れ込んでいる川の源流があると聞いています。是非、一度、拝見してみたいものです」
「そうね、アイヴィス。無事にフォクツ家に書簡を渡したら、帰りは時間もあるでしょうから、寄ってみましょうかしら」
「本当ですか。レイナ様、約束ですからね。河の源流は主神イズガルドの次女、フィーネの泉として地元では非常に愛されている場所です。私もウィルシャー家でお世話になっている以上は一度は見てみたいと、以前から思っていました」
「それは良い心掛けね。貴女も既に知っていると思うけど、この辺りではイズガルドよりその娘のフィーネの方が信仰が篤いくらいなのよ。フィーネと云えば、様々な言い伝えがこの地方には残っているの」
レイナはそれから、アイヴィスに幾つもフィーネの言い伝えについての話を聞かせてくれた。フィーネは非常に好奇心の豊かな天使であり、豊穣を司る天使としてこの地方では古くから信仰されていた。アイヴィスの生家では、主神であるイズガルドを信仰していたので、フィーネにまつわる言い伝えの数々は断片的に両親から聞いた覚えはあったものの、レイナの口から聞くフィーネの話は初めて聞く話が多く、アイヴィスはその話に興味がとても沸き興奮した。
「そして最後にこんな言い伝えもあるのよ。フィーネの泉で最も有名な逸話なんだけど」
とレイナが言い掛けたところで、不意に人影が動く気配がする。
「振り向かずに聞いて、アイヴィス。この気配は屋敷を出てからずっと追跡しているの。数は一つ。恐らく反対勢力の一味ね。書簡を持って出ていることまでは把握していないと思うから、とりあえず様子を見ているだけだと思う。でも、そろそろ私たちが向かっている先がフォクツ家だと勘づいた頃だから、ちょっと脅かしを掛けてきただけよ」
「レイナ様は屋敷から気が付いていたのですね。私なんて、つい役目を忘れてフィーネの話に夢中になっていました」
「もう、アイヴィスったら。しっかりして頂戴ね。相手もまだ一人では何も出来ないでしょうから、暫くはこのまま様子を伺いつつフォクツ家を目指しましょう」
既に追っ手が来ている事に驚いたが、レイナの落ち着いた口ぶりに、すっかりと安心していた。
それから、フィーネの話や、これからのウィルシャー家について話ながらフォクツ家を目指し歩き続けた。
何時しか街道は山道となり、すっかり周囲は森に囲まれていた。
「そろそろ山頂付近ね。フィーネの泉は、ここから少し降りた所にあるのよ」
レイナは額に滲み出た汗を拭いながら、アイヴィスに云う。
「今すぐにでも見に行きたいところですが、ここは我慢ですね。それで追っ手に変化はありますか?」
「そうね、まだ一人で追ってきているみたいね。一定の距離を保ったままついてきているから、相手も『追跡』程度の奇跡の力は持ち合わせているようね」
追っ手は、当然、レイナの奇跡の力を警戒していて、目視出来るような距離には近づいてこなかった。よって、追っ手も『追跡』の奇跡の力を使わないと、一定間隔を保ったまま追跡するなどという芸当は不可能であった。
「でも、油断は出来ないわ。『伝心』が使える人間なら、一定距離に近づいた相手に言葉を伝えることが出来るのよ。その場合、特に変化が無くても、既に仲間と連絡を取り合っていることも考えられるだろうし」
突然、アイヴィスの方を向きながら話していたレイナの顔が苦痛に歪む。
見ると黒いドレスワンピースの胸元が血で滲んでいた。
遠距離からの奇跡の力による狙撃。
目視はおろかレイナの『捕捉』の範囲外からの狙撃であった。
「しまったわ、アイヴィス、既に反対勢力の一味が待ち伏せしていたようね。追跡者が私たちの正確な位置を伝え狙撃者が指示通りの位置を狙撃する。これは完全に暗殺者の手による犯行よ。私たちの適う相手ではないわ――」
瀕死の重傷を負いながらも状況を伝えようとするレイナ。
ひとこと話すごとに口からは鮮血が溢れる。
「ごめんね、アイヴィス。貴女と一緒に、フィーネの泉が見たかったわ。でも、もう私は駄目みたいね。私をおいて貴女は逃げるのよ。心配はいらないわ。まだ私にもまだやれる事があるわ。ウィルシャー家のレイナとして、最期まで務めは全うするのよ!」
「レイナ様をおいて逃げるなんて、私には出来ません。どうか、お気を慥かにレイナ様」
「いけません! 私にかまって書簡が反対勢力の手に落ちたとなれば、アレン様に顔向け出来ません。アイヴィス、これは命令です。貴女は私を置いて逃げなさい!」
激しい口調で命令するレイナ。
アイヴィスが仕事で失敗すると厳しく叱咤してくれたレイナ。このときの口調は正に、その時の口調そのままであった。
世間を知らずに奉公に出されたアイヴィスを一から育ててくれたレイナは、アイヴィスにとって第二の母といっても過言ではない存在であった。そんなレイナをおいて逃げることなど到底出来ない。
「ここまで云っても判らないのね。私は奇跡の力『天使降臨』を使うつもりです。『天使降臨』を使えば、痛みも暫く感じなくなると思いますが、その代償は貴女もご存じでしょう。これがもう今生の別れなのです。アイヴィス、今まで私の為にありがとう。貴女は私なんか比べものにならないくらい強く誇り高い女性よ。だから、自信を持って生きるのです。そうすれば、きっとフィーネ様の御加護が貴女を護ってくれるわ。さあ、行きなさい。残された時間は多くはないわ」
そう言い終わると、レイナの躰が黄金の光に包まれた。眩い光に包まれたレイナの背中から黄金に光る六枚の翼が現れた。それは熾天使の姿そのものであった。
奇跡の力『天使降臨』
術者に天使の力を与え、一定時間、行使できる奇跡の力を大幅に増幅させるイズガルド最高位の奇跡の力。
しかし、その代償はあまりにも大きく、大幅に増幅された奇跡の力の反動を全て自身の躰に受けることになり、その反動に耐えられない場合、最悪、命を落とす事になる。運良く、命を落とすことを免れたとしても、躰の損傷は激しく、まさに諸刃の剣と云える奇跡の力であった。
「レイナ様、いけません。それではレイナ様が――」
言葉にならないアイヴィス。
「早く行くのです。私の躰はもう、長くは持ちません。この場は私が引き受けました。貴女は早く行くのです」
そう言い終わるとアイヴィスに背中を向けるレイナ。アイヴィスは、暫くレイナの背中を見つめていたが、意を決して走り始めた。
「それで良いのよ、アイヴィス。このウィルシャー家のレイナの最期の力を存分に見せてあげるわ。既に襲ってきた反対勢力の数は把握しているわ。数にして五人。先程までは『捕捉』の範囲外にいたけど、今は完全に捉えている。しかも、一挙手一投足の動きまで鮮明に私には見えている。そこね!」
レイナは一人呟き、軽く右腕を前に突き出し、手の平を遠くにいるであろう反対勢力の方に向けた。
手の平から光が溢れ『神罰』が放たれる。その数は四つ。ほぼ同時に放たれた『神罰』が一直線に相手に向かう。
その余りにも遠距離からの反撃に虚を突かれた反対勢力の追っ手は躱すことすら出来ず、レイナの放った『神罰』により無力化される。
「あと一人――」
遠方の反対勢力の追っ手を排除し、残るは街中からずっと追跡してきた一人。
「おかしい。『捕捉』から反応が消えた。ついさっきまで反応があったのに」
突如として反応がなくなった追跡者に冷静さを失う。
『天使降臨』の有効時間はあと僅か。このまま逃げられてしまうと、アイヴィスに危険が及ぶことになる。
「まだ、近くに潜んで着るに違いないけど『捕捉』で捉えられない以上、正確な居所を把握するのは不可能。『捕捉』から逃れられるということは、相手は高位のアサシ…」
グサリと脇腹に激痛が走る。
姿を消していた追跡者が姿を現し、ダガーで脇腹を抉る。
通常であれば致命傷となる深手を負ったレイナであったが『天使降臨』の効果によって傷口からの出血は殆ど無かった。
「おまえがウィルシャー家のレイナだな。当主から預かった書簡を渡して貰おうか」
追跡者は脇腹に刺さったままのダガーで傷口を抉りながらレイナに書簡を渡すように要求する。
「あなたが臆病な追跡者さんね。そんなに書簡が欲しければ私を倒して力尽くで奪うことね」
「ふん。悪足搔きだな。おまえの『天使降臨』の有効時間が迫っていることは先刻承知だ。このまま姿を消して、おまえが苦しむ姿を見物させて頂こうじゃないか」
追跡者は『天使降臨』の有効時間を見切っていた。それに先程のように『捕捉』で捉えられない状態になられるとレイナには為す術が無かった。それでもレイナは虚勢を張り、アイヴィスが逃げる時間を稼ごうとする。
「あなたの姿が見えないからといって、攻撃する手段が全くなくなるわけではないのよ」
レイナは目を閉じて腕を胸の前で交差させる。背中に現れた六枚の翼も腕の動きに呼応する。次第にレイナの躰を中心にした光の粒子の渦が生じ、徐々に光の粒子の密度が高くなる。
「この光の粒子は『神罰』の粒子。『神意』はこの粒子を束ねて前面に放出する奇跡の力だけど、広範囲にばらまけば、どうなるか想像できるわよね?」
レイナが追跡者を挑発する。追跡者の注意は完全にレイナに注がれている。
光の粒子の渦が次第に水平方向に拡がっていく。
レイナが『光渦』と命名した独自に編み出した奇跡の力である。元々は、レイナが複数の暴漢に襲われたときに一度に無効化する為に考案した奇跡の力であるが、『天使降臨』により強化されたレイナの奇跡の力が大幅に威力を引き上げている。
「覚悟なさい! 愚かな追跡者よ!」
レイナの怒号と同時に放たれる『光渦』
周囲は光の粒子で埋め尽くされ、追跡者の逃げ場を失わせる。
光の粒子が追跡者を捉える瞬間に追跡者の姿が消える。
「惜しいな、レイナさん。それじゃ、私を捉えきれないよ。お遊びはここまでだよ」
再び背後から現れた追跡者がレイナの耳許で囁く。
そして、手にしていたダガーをいたぶるようにレイナの脇腹にゆっくりと突き立てる。
『天使降臨』の光が次第に消えていく。
「丁度『天使降臨』も時間切れのようだね。そして、残念なお知らせがもう一つ。最初からあなたが書簡を持っていないことなど想定済みでしてね。実を申すと私の同胞がもう一人いましてね。もう少しで始末する頃じゃないかな」
『天使降臨』を失ったレイナの躰を奇跡の力の反動が襲う。
激痛に襲われたレイナが絶叫する。
遠退く意識。
「全てお見通しだった、というわけね。でも、きっとアイヴィスなら逃げきるわ。アイヴィスならきっと……」
力尽きたレイナは地面に倒れた。
全てをアイヴィスに託して。
レイナを襲った追跡者は、地面に倒れたレイナを見下ろしていた。
「ウィルシャー家のレイナは、長年、フォクツ家を苦しめてきた仇敵と聞いていたが、案外、他愛もなかったな。ノルガルドの暗殺術の前では、イズガルドの奇跡の力など児戯に等しいということか」
独りごちて、再び姿を消す。
残るはアイヴィスとかいう小娘。
今頃、書簡は手に入っている事だろう。
その頃、アイヴィスは全力で山の中を走っていた。
追跡者の気配を明確に感じていた訳では無いが、厭な予感がしていたからであった。レイナが見せた鬼気迫る表情に、自分がなんとしても逃げ延びて、書簡を届けなければ、という気持ちで一杯であった。
どれくらい山中を走っただろうか。時間の感覚も既に失われつつあった。下り坂に差し掛かっていたので、山頂付近は過ぎていたと思う。
「そろそろフィーネの泉の付近だわ。こんな状況じゃなければ、寄って行きたいところなのに……」
アイヴィスは今の置かれている状況とは懸け離れた事を思い、ふと笑みが溢れていた。
「フィーネは陽気な女神。今の私の姿を見たらどんな言葉を掛けてくれるのかしら。案外、頑張って走りなさい、とかそんな有り触れた言葉かしら」
「随分と余裕ではないか。小娘」
突然、声が聞こえた。
「だ、誰なの?」
声の主がフォクツ家の追跡者ということは明らかであった。
「これから死に逝く者に名乗っても仕方あるまい。大人しく書簡を渡してもらおうか」
追跡者は冷酷に伝える。
レイナが身を挺して自分を逃がしてくれた。
そして、アレンから託された書簡をフォクツ家に届けるという使命。
この二つの重責から、アイヴィスは簡単に諦めてはならないと思っていた。
何も取り柄の無い自分を信頼してくれた二人にできるせめてもの恩返し、無事にフォクツ家に書簡を届ける。その一身で懸命に山の中を走っていた。
「あなたが誰であろうと決して、この書簡は渡さないわ! フィーネ様がきっと私を助けてくれる。きっと私を助けてくれ」
必死に山中を走っていたが、不意に斜面に足を取られ山の斜面を滑り落ちてしまった。
急な斜面で一度転んでしまっては態勢を整えることは不可能であった。斜面を転げ落ちながらも、胸元に締まっていた書簡を落とさないように注意していたが、崖から落ちきったときには気を失っていた。
どれくらい転げ落ちただろうか。
腕や足からは出血が酷く立ち上がろうにも足に力が入らない。
辛うじて動いた頭を横に向けると、白い石像が目に入る。
その脇には大理石で造られたレリーフ。そのライオンを模して造られたレリーフの口からは、水が湧き出ていた。
「ここは、ひょっとして、フィーネの泉?」
そんなことをふと思う。
もう、追跡者の事など頭になかった。
「レイナ様と一緒に訪れたかったな。何時も仕事で厳しい表情をされていたレイナ様も、きっとこの泉を見れば笑顔になった筈。だってフィーネ様は何時も陽気な天使様ですから」
瞳には涙が溜まっていた。そして、走馬燈の様に、ウィルシャー家での想い出、レイナとの想い出が駆け巡る。
「痛みは感じない。恐怖も無い。あとは運命に身を委ねるだけ。フィーネ様に最後を看取られるなんて、私はなんて幸せ者なのかしら」
そんな風に感じていた私であったが、ふと大理石のレリーフが輝いた様な気がした。
『あなたはまだ使命を全うしていません。諦めるのはまだ早すぎます』
意識に直接語り掛ける声が聞こえる。
意識が混濁している私は、語り掛けてきた声に、語り掛ける。
「無理を仰らないで下さい。私はもう傷だらけです。相手を倒す武器も無ければ、身を守る防具もありません。諦めるしかないのです。どうかお許し下さい」
『あなたは何を云っているのかしから。武器なら手にしているではありませんか。傷は癒えています。さあ、戦うのです。イズガルドの次女、フィーネの名に掛けて!』
突然のフィーネの名前に驚き、目を見開いた。
夢でも見ているかと思った。
しかし、右手には見事なロングソードが握られていた。
さっきまで力をいれようにも入らなかった全身に力が漲っている。
傷という傷は全て癒えていた。
「な、なにがあったの?」
疑問で頭の中が混乱している最中に、追跡者が姿を現す。
「どうゆうことだ。そのロングソートは何処から出てきた? まあ、武器があったからと云って、所詮は小娘。すぐに楽にしてやるさ」
追跡者は己の得物であるダガーを両手に構え、猛然と襲いかかってきた。
「暗殺術『疾風』の速度についてこられるかな?」
まるで空を掛けるように一気に間合いを詰める追跡者。
その驚異的な速度に私は身の危険を感じた。
しかし、口から出た言葉は全く意に反したことであった。
『遅すぎるわ。そんな攻撃が私に通用すると思って?』
左腕を前に軽く突き出す。
パシーン。
空気が弾ける音がする。
追跡者のダガーが手の平に触れていないのに空中で止まっている。
「な、なんだと。小娘如きに『疾風』が止められた?」
明らかな焦りの表情を浮かべる追跡者。
しかし、そんな追跡者を嘲笑う様に云う。
『なにが『疾風』よ。聞いて呆れるわ。本当の『疾風』というのはね――』
チッと短い破裂音の様な音がした。
ロングソードを握った右腕が一瞬、動く。
追跡者は太刀筋を見ることすら出来ない。
肩口から鮮血が吹き上がる。
『我が宝剣アンブレイカブル。この太刀筋があなたに見えたかしら』
「おまえは何者だ? 依頼者からの情報では、レイナは騎士並の奇跡の力の使い手だとは聞いていたが、おまえに関する情報など全く無かった。これだけの剣技は、騎士の中でも、かなり上位の騎士に相当する筈だ」
『上位の騎士? 私の剣術が騎士程度だなんて嗤わせてくれるわね。これでも騎士程度なんて云えるのかしら』
右手を軽く左右に二回振るい、追跡者のダガーを弾き飛ばす。身の丈を超えようかという刀身を持ったアンブレイカブルを片手で軽く扱う右腕の動きから、アンブレイカブルが質量を持っている事を感じさせない。
『私は無力な相手に太刀を振るう趣味は無くてよ。即刻、ここを立ち去りなさい。そしてあなた達の依頼者に告げるのよ。今度、ウィルシャー家に手を出したら、神速のアイヴィスが容赦しない、とね』
追跡者は、既に自分の力量がアイヴィスに遠く及ばないことは理解していた。
「ふっ。この私など何時でも倒せるということか。舐められたものだな。しかし、おまえの正体も大体、読めてきたぞ。我らの長兄が黙っていない。きっと何時か相見える事があるだろう。その時を楽しみにしているんだな」
そう云い残すと追跡者は、姿を消した。
「私の正体? 何を云っているのかしら? 私はウィルシャー家のアイヴィスよ」
『それは違うわ、アイヴィス。あなたは既にアイヴィスだけでは無くなっている』
頭の中に直接、声が聞こえる。
『この世界は、大きな争いの渦に巻き込まれようとしている。私はその争いの渦を止めなければならない。アイヴィス。それまであなたの躰を貸して頂戴。私はあなたと共にある』
これはレイナが起こした奇跡なのだろうか。
そんな事を思いながら、私は意識の深い海の底に落ちていった。




