生存者の偽り
トラミノは小さな街であった。
先程、通った城門としても丸太で組まれた簡素なもので、城壁もよく見ると間が空いている箇所が散見される。
「あれは、大丈夫なのかな……」
城門に穴が空いているのである。当然の疑問を口にした。
「大丈夫だから、あのような形で放置されているのではないかな、ギルバート君。周囲の木々の様子からも、あの状態が、つい最近生じたものでは無く、数年は経過していると物語っているでは無いか。そんなのも気がつかないのか、君は」
慥かにケインの指摘の通りであった。城壁の周囲には木々が生い茂っていたたが、城壁の間にも掛かる形で枝が伸びている。その枝の掛かり具合から、城壁の一部が失われてから数年が経っていることが類推できた。
「ケインさんの云う通りだけど、だからといって大丈夫だとは言い切れないじゃないか。エリシアだってそう思うだろ」
「うーん。どうかな。私も大丈夫だから放置されていると云う、ケインの考えに賛成かな。それに、ここはとても平和な街っていう雰囲気がとても素敵だわ。そんな街が城壁の一部に穴があっても私は許されるんじゃないかなって思いたいわ」
エリシアは何処か無邪気に答えた。きっとここまでの道のりで色々とあったので、疲れているのであろう。久々に平和と思われる街に着いたので、今夜はゆっくりと休みたい気持ちで一杯であった。
紹介状に書かれている療養所は、どうやらトラミノでも最も大きな建物の一つであった。街の住人に訊いて解った事だが、トラミノは、その戦線からも遠く離れており、王都からも、それほど離れていないという理由から療養に訪れる者が多いらしい。
古くから療養目的で訪れる者が多かった為、医療も盛んであり、治癒関係の奇跡の力の発達にも大きく寄与してきたらしい。更に、療養しているランベルトもトラミノの出身ということで、地元では英雄として扱われていた。
「まあ、城壁の話しは置いておくことにして、ランベルト様とは、何時、面会することにしようか。まだ、日暮れには時間があるし、少し腹拵えして、英気を養ってから伺うことにしないか。そうだ、先に宿屋を確保しておくのも良いかのな。流石に聖騎士様に面会するのに、この汚れた格好では失礼だろうしな」
と言葉にはしていたものの一刻も早くランベルトに面会し、真実を確かめたい気持ちで一杯であった。
誰がどの様な状況で兄を殺害したのか。
その真実を知っている人物がこの街にいる。その事を考えただけでも逸る気持ちを抑えるのが精一杯であった。
「もう、仕方がないですね。でも折角、風光明媚なトラミノを訪れたのですから、先ずは宿屋で旅の疲れを癒す事から、というのが良いのかも知れませんね。偶にはギル君の云うことも聞いてあげないと、ということも在りますが」
ケインが恩着せがましく云う。それにエリシアまでも同調し、
「そうね。私も賛成だわ。偶にはギルの云うことも素直に聞いてあげないと」
自分が云いだした事なので異論は無いが、何故か不満を抱きつつ宿屋を探す事にした。
宿屋は意外に多く、十件は軒を連ねているようであった。この規模の街からするとかなりの数であろう。その宿屋の数から、短期での療養目的で訪れる者も少なく無いという事が伺い知れた。
「路銀もアイヴィス様から幾許か頂いているので余裕があると云えば余裕が在るからな。今夜は少し贅沢をして、明日は良い気分でランベルト様のところに伺おうではないか」
ケインは、久々の宿にすっかりと上機嫌のようだ。ケインは無類の酒好きである。今夜は酒場で盛大な酒盛りをするに違い無かった。それほど酒が好きではない僕は、この時から少し厭な予感がしていた。
宿屋は街の中でも平凡な佇まいの宿にすることにした。平凡な佇まいは宿を選択する上で重要な事では無く、酒場の充実具合が一番重要な事項であった。
宿についてから早々に荷物を各々の部屋に下ろすと、早速、酒場で酒盛りをしようとケインが云ってきた。当然、予想されたことであったので、渋々ながらも了解し、酒場で集合することにした。
「ケインさんも本当に酒好きだよな。よくあれで教会の神父が勤まっていたな」
「まあ、ケインは仕事に関してはとっても立派な人ですよ。神父は想像以上に激務だけど、ケインは愚痴一つ云うどころか完璧に熟していたもの。王都内の教会の神父の中では屈指の神父だったんんじゃないかしら」
酒場におりる最中に偶然に居合わせたエリシアに愚痴を云ってみたものの、逆にケインの普段は見せない立派な姿の話しを聞かされ、憂鬱な気分になってしまった。
ケインはあれでも立派な神父なのである。
それに引き替え自分といったら。
この旅に於いても、この事は考えずにはいられなかった。自分はケインやエリシアと比べたら世間的には、何もしていないも同然の存在であった。しかも兄は立派に従騎士まで登りつめていた。周囲の人物にどんどんと距離を離され阻害される気がしていた。
そんな日々に嫌気がさし、この旅に出ることを思い至ったのでは、と思う日もあったし、それも理由の一つなのではと思ってもいた。自分も何か為すべき事をしたい、その様に思う日々の連続であった。
下に降りると、酒場ではケインが一足先についていたらしく、既にグラスを片手に酒を飲んでいた。ふと見ると、同じテーブルには見慣れない青年が、ケインと親しげに言葉を交わしている。歳は大体同じくらいであろうか。背は其程高くも無く、どちらかと云うと細身の部類である。全く見覚えの無い青年と酒を酌み交わしているケインになんと声を掛けるか迷っているうちにケインの方から声を掛けてきた。
「やあ。遅いじゃないか君達。君達が遅いから早速、トラミノに着いて初めての友達が出来てしまったじゃないか。ほら、これが僕の旅の友の二人だよ。オクスレイ君も自己紹介をしたらどうかね」
オクスレイと紹介された青年はどこか気弱な印象を受ける青年であった。
「初めまして。オクスレイと申します。この街の出身で、この宿屋の一人息子なんです。普段は酒場で手伝いをしているのですが、先程、ケインさんに声を掛けて貰い、意気投合して、ご一緒させていただいてます」
「ケインさん、ダメじゃないか。オクスレイ君はこの宿屋のご子息で、普段は酒場を手伝っていると云っているじゃないか。それなら、オクスレイ君は仕事中の筈だぞ。そんな彼を誘って酒を飲ませるなんて、酒場のご主人に見つかったら、この宿からつまみ出されるぞ」
「そう堅苦しいことは云わないでくれるかな。慥かに彼、オクスレイ君が勤務時間中であれば君の主張の通りなのだが、生憎、オクスレイ君は今日、休みなんだ。だから、こうして僕たちと酒を酌み交わしても全く問題ないと云うことなのさ」
なるほど。ケインの説明に納得する僕であったが、それならそうと早く行って欲しいのも事実である。お陰で余計な心配までしてしまったのである。
「御免なさい、ギルバートさん。そんなつもりは無かったんです。ケインさんがどことなく見覚えの在る風貌だったので、こちらから声を掛けたくらいですから。しかし、本当にケインさんは見覚えがあるんですよね。どこでお見かけしたのかな?」
オクスレイは首を傾げる仕草をする。
「と、いうことだよ。だから君達も早く席に座り給え。今日はオクスレイ君と飲み明かそうではないか」
ケインは既に出来上がっているのか、陽気に酒を勧めてくる。それには僕とエリシアは苦笑したものの、折角の酒宴である。今夜くらいは盛大に盛り上がりたい気持ちで一杯でった。
どのくらい酒を酌み交わしたであろうか。ケインは絶えず上機嫌でオクスレイにも明日、聖騎士ランベルトとのところに面会することを告げていた。ランベルトがこの街で療養していることを口外して良いか判断つかなかったが、小さな街であう。恐らく街の中では公然の秘密として扱われていてもおかしくはなかった。
気がつくと、三人は各々の部屋に大人しく帰って寝ていたらしい。僕もとりあえず着ているものは、酒場に降りた際に着ていたものと同じであったし、特に盗まれたものも無かった。ケインのところにはオクスレイから手紙が置いてあった。内容は、特に変わった点も無く、昨夜の御礼が綴られていただけであった。
予期せぬ深酒で気分は優れなかったものの、聖騎士ランベルトとの面会の朝である。
冷水で顔を洗い身支度を整えると、自然と引き締まる思いがする。
ファラードの時は、何者かに直前で殺害されるという厭な思いをしていた。しかし、今回は街中の療養所である。相手は聖騎士ランベルト。如何に傷を負っているといっても聖騎士を一方的に屠る輩など存在しえないと思う。そう考えるとランベルトとの面会で全てが明らかになる。そう信じて疑っていなかった。
二人とは、宿屋を出たところで待ち合わせをしていた。待ち合わせの時刻になってもケインは現れなかったので、暫くエリシアと待つことにしたが、数分遅れでケインが待ち合わせ場所に姿を現す。その表情からは昨夜の深酒の影響が全く感じられず何時ものケインそのものであった。
「やあ、待たせてしまったね、諸君。それでは英雄ランベルト殿のところに面会に行こうではないか」
「おいおい、いきなり聖騎士様に対してその言い草は失礼ではないか」
ケインの棘のある言い方に苦言を呈したが、ケインは全く意に介さず、
「何を云っているんだ。先の先遣隊襲撃の時の唯一の生き残りであるランベルト殿は英雄に決まっているではないか。それとも何か、英雄というのはもっと高潔であり、ランベルト殿は英雄ではないと、君はそう云いたいのかね?」
「まあまあ、お二人とも。ここは冷静になって。折角、この旅もあと一歩のところまで来たのよ。最後くらいは三人で仲良くしましょうよ」
エリシアが仲裁に入る。最近のエリシアは長旅による精神的な疲れは感じさせていたものの、僕とケインの間によく仲裁に入り、旅が円滑に進むように精力的に支援してくれていた。
「そうだな。エリシアの云う通りだ。最後くらいは仲良く三人でランベルトと面会しよう。ケインさんも、そう思うだろ」
「仕方ないですね。エリシアがそこまで云うのであれば従いましょう」
三人はランベルトが静養している療養所を目指し、仲良く並んで歩き出した。
療養所は宿屋から、少し坂を登った街の中では比較的小高い丘の上に建っていた。
蔦に覆われた外壁からは、建物が建設されてから、かなりの年月が経っていることが窺える。恐らく歴史のある療養所なのであろう。信頼できる医療が受けられるから聖騎士も安心して療養しているのかも知れない。
丘を登り、療養所の入り口に立つ。聖騎士が療養しているからだろうか。衛兵が二名、入り口を固めている。
「おい! おまえら。何をしにきた」
衛兵は横柄な態度で訊いてきた。この対応は予想していたので、冷静に来訪の意図を伝えた。
「僕たち、第三聖騎士アイヴィス様の紹介で第十一聖騎士ランベルト様に面会に窺った者です」
そして、同時にアイヴィスからの紹介状を衛兵に手渡す。最初は半信半疑であった衛兵の態度も紹介状を手に取り読む進めるごとに、僕の伝えたことが真実だと信じて貰えたようであった。
「これは、失礼いたしました。第三聖騎士アイヴィス様の御紹介、慥かに承りました。こちらへ入って下さい。聖騎士ランベルトの部屋へ案内致します」
衛兵は横柄な態度を改め、丁寧な態度で対応してきた。恐らく彼等は騎士団の中でも高位の騎士である。そんな彼等は敢えて粗野な態度を来訪者にとり、療養している聖騎士の身分を偽り、あくまで一般の騎士が療養しているように装っているに違いなかった。
案内されたのは、蔦が覆われている本館と覚しき療養所では無く、裏に建っている小さな療養所であった。しかし、その療養所に入る前に目隠しをするように指示をされる。聖騎士がトラミノで療養していることは国家的な秘事である。幾ら紹介状を持参した人物であっても、療養している場所が特定されることを嫌っての対応であった。
小さな療養所に入るまでは目隠しをしてないかったので、慥かに小さな療養所に入ったと思われるが、そこからはかなりの距離を歩かされた。曲がり角も数回曲がっているし、階段も上がったり下がったりを繰り返した。
「ランベルト様の部屋に間もなく到着致します。目隠しを外して頂いても結構です」
随伴してきた騎士が声を掛けてきた。時間にして十五分程度であろうか。目を開けると眩しい光が襲ってきた。どうやら、何処かの建物の廊下に立っていることだけは慥かなようである。
「うわっ。眩しいな。一体どれだけ歩かされるかと思いましたよ。全く、これだから王国の騎士の云うことは信用出来ないんですよ」
ケインが騎士に悪態をつく。
「それは失礼致しました。しかし、聖騎士ランベルト様の安全を第一に考慮してのことなのです。何卒、ご理解下さるよう、お願い致します」
騎士はそれでも丁寧な対応を続けていた。聖騎士の紹介状というのは、ここまで効力があるものなかと、認識を新たにした。
廊下を暫く歩くと、木製の作りの良い扉の前で足を止める。特に扉に表札の類は無かったが、ここがランベルトが療養している部屋なのであろう。足を止めた騎士が扉を叩く。
「失礼します。ランベルト様。アイヴィス様からの紹介状を携えた若者三名をお連れ致しました」
騎士が部屋の中にいるであろうランベルトに声を掛ける。間髪開けずに部屋の中から返答があった。
「ほう。珍しい客人だな。しかも、アイヴィス殿の紹介とは…… まあ、入ってもらいなさい」
重傷を負っているとの情報であったが、思いの外、声量もあり、はっきりと聞き取れる声で返答してきた。
「いよいよね、ギル」
エリシアが嬉しそうな笑顔で声を掛けてきた。宿屋から今まで表情が硬い気がしてきたが、ようやくここに来て笑顔を取り戻したようであった。
「さあ、早く、ギルバード君。早く、入ろうではないか。ようやく此で旅の目的が完了する。祈念すべき第一歩ではないか」
ケインも、この時ばかりは嬉しそうに声を掛けてくる。
旅の終わりが近づいている事を実感しながらも、兄に真相を早くランベルトの口から聞きたい衝動に襲われていた。
「失礼致します。ランベルト様。私は護衛隊、隊長アルバートの弟、ギルバートを申す者です」
扉を開けランベルトに挨拶をする。ランベルトはベッドに横たわっていると思われたが、ベッドは蛻の殻であった。ふと視線を左右に走らせると、昨夜、知り合ったばかりのオクスレイがナイフを片手に壁に躰を預けていた。
「やあ、暫くだね。ギルバード君。君の驚く顔が見たくて昨夜から興奮し放しだったよ」
驚いた事に部屋の中にいたのはランベルトでは無く、オクスレイであった。
「ははは。その表情だよ、その表情。人が予期せぬ出来事に出逢った時に見せる表情。私はその表情が大好物でね。君の兄上も、そんな表情を浮かべていたよ」
残忍な笑顔を浮かべるオクスレイ。昨夜みせた温厚な青年の姿はそこには無かった。
「兄を知っているのか! オクスレイ! おまえは一体何者なんだ」
「流石は愚弟といった処でしょうか。ここまで云っても私の正体に気がつかないとはね」
呆れかえる表情を浮かべるオクスレイであったが次の瞬間、右手に手にしていたダガーを軽く投げつける。勢いよく投げ出されたナイフは僕の左頬を掠め、頬に切り傷を作る。
後方から断末魔が上がる。ここまで先導してきた騎士の額にナイフが突き刺さっていた。その様子を見たエリシアが金切り声を上げる。
「まあ、仕方がありませんね。自己紹介は好きでは無いのですが、死に逝く前に教えて差し上げましょう。私は黒衣の集団、副団長のオクスレイ。仲間には「黒焔のオクスレイ」と呼ばれていますがね」
黒衣の集団。
噂ではその存在を聞いたことがあった。ノルガルドの諜報機関。最近ではイズガルドでも目撃されており、巷では様々な噂が駆け回っていた。当然、グレン先遣隊の襲撃に関与していたとの噂もあったが、ノルガルドとゴブリニアが同盟を組んでも利することはなく、全く根も葉もない噂として失笑をかっていた。
しかし、現実は違っていたのか。疑問が頭を過ぎる。
「黒衣の集団が何故、ここにいる? 真逆、先遣隊を襲撃したのは、黒衣の集団ということなのか? そしてランベルト様はどこだ? どこにいる!」
「必然ではないのかね。私がここにいることが、あなたの問いに対する全ての答えなのです。さあ、そろそろお喋りの時間はお終いにしましょう。いやあ、楽しい時間でしたよ。きっと、天国のお兄様も喜んでおいででしょう」
オクスレイの拳が黒い焔に包まれる。伝説の暗殺術『黒焔』であることに間違いは無かった。黒い焔は地獄の焔とも呼ばれ、触れる者の魂を焼き尽くすと云われていた。
「エリシア、君は下がって。ここはケインさんと僕とでなんとかするから。君は街に助けを求めに走ってくれ!」
オクスレイと戦って勝てる見込みは無かったが、仇敵が目の前にいる。そう思うことで不思議と恐怖心は湧いてこなかった。たとえ差し違える事が出来なくても、傷の一つでも負わせたい。そんな一心であった。
「ほう。私の前から逃げられるとでも思いましたか?」
オクスレイが残忍な表情を浮かべ、指を左右に軽く振る。次の瞬間、エリシアの両足の太ももから鮮血が飛び散り、その場に座り込んでしまうエリシア。
傷の深さは判別できないが、その様子から走ることなど困難であることがわかる。
「大丈夫か、エリシア!」
「大丈夫よ、ギル。傷はそれほど深くは無いわ。でも、もう走ることは出来そうにない。だから、私もここでギルと一緒に戦うわ。私にだってやれる事はある筈よ」
気丈にも傷を負ったエリシアは、自身も戦うと云ってきた。立つこともままならない状況である。傷は浅いとは云え、止血しなければ大事に至ることも考えられる。
「ケインさん、先ずはエリシアの治療をして下さい。僕が時間を稼ぎますから」
「任せておけ、ギル君。しかし、君が時間を稼ぐといっても相手は黒衣の集団だぞ。束になってかかっても相手もならないぞ」
「解ってます。でも、今はエリシア治療して下さい。僕は僕でなんとかしますから」
根拠など全く無かったが、エリシアを護りたい気持ちで一杯であった。
「おやおや。友情とは良いものですねぇ。私の住んでいるノルガルドではたとえ親であっても信頼できるもんじゃ無いんですけどね。流石は光の王国イズガルドは違いますねえ。でもね。そんな友情ごっこを見せられると虫酸が走るんですよ!」
逆上したオクスレイが、僕に向かって拳を振り上げる。
黒い焔を纏った拳が眼前に迫る。躱すことは出来そうになかった。
「終わった」と心の中で思う。
エリシアは自分に向かって何かを叫んでいる。
ケインの表情は着ているローブによって顔が遮られて読み取れなかったが、きっと、悪態をついていることだろう。
不思議な事に周りの動きが凄くゆっくりとした動きに感じられる。
これが死の直前に見るという走馬燈と云われるものだろうか。
今であれば、オクスレイの動きだけでなく表情ですら克明に読み取れる。
オクスレイの拳が僕の躰を捉えた。
黒い焔で焼き尽くされる痛みが全身を襲うと思われたが、全く躰に変化が無かった。いや、躰を捉えたと思われたオクスレイの拳は寸前で止まっていた。
オクスレイの表情は驚愕の色を浮かべていた。
何が起きたのか判らないまま、僕の意識は失われていた。
「なんだと? 私の『黒焔』を止めただと?」
オクスレイは振り上げた拳をギルバートの眼前で止めていた。
いや、実際は止められていたのである。
ギルバートの人差し指がオクスレイの拳に触れている。オクスレイは、その指に拳を止められていた。
そして、僕の背中からは黄金に光輝く翼が六枚、姿を現していた。
周囲には凄まじいばかりの光の粒子が舞っている。
その一粒一粒が意思を持っているかのようにオクスレイに襲いかかる。
「ちっ。なんなんだこの光は。私の『黒焔』を以ても焼き尽くせないのか」
余りの光の量に狼狽するオクスレイ。いつの間にか、振り上げた拳を下げ、二三歩、後ずさりしていた。
『下がるがよい、下郎。我が眷属の焔ですら満足に扱えぬ下郎如きが我に拳を振り上げるとは笑止千万。巫山戯るもの好い加減したほうが身のためだぞ』
慥かに僕から発せられた声の様な気がしたが、何時もと全く調子が違っている。
「なんだと? 多寡が一度、私の拳を止めた位でいい気になるなよ若造」
先程まで余裕の表情であった、オクスレイが鬼の様な形相を浮かべ、再び僕に襲いかかる。『黒焔』を左右の拳に纏い、目にも止まらぬ速さで襲いかかってくる。
しかし、ギルバートは、拳の動きを目で追うことすらせず、涼しい顔で全ての攻撃を躱しきる。
しかも躱すだけでなく、間合いを自ら詰めている。その圧力に屈するようにオクスレイは後ずさりしてゆく。
『どうした? 私は一度たりとも攻撃していないぞ。攻撃してきたおまえの方が後ずさっては勝負にならんではないか』
ギルバートは嗤いながらオクスレイを挑発する。その表情からは恐怖など微塵も感じさせるどころか、子供を弄んでいるかのようである。
「貴様は一体何者だ! 我が拳の前で平然としていられたのは、今まで只一人。黒衣の集団、団長だた一人。その団長ですら、私を攻撃せずとも後退させることなど出来なかったというのに」
『貴様の狭い了見では、私の存在など理解できるものか。良いだろう。おまえも冥途の土産と云って名乗っていたしな。一度しか云わぬから心して聞くが良い。私の名前はギルヴァーナ。総ての天使を司る存在。おまえの悪事を赦すこと出来ぬ故、成敗に参ったところだ』
「大天使ギルガラドなの? 天使を統べる天使の王。何故、そのようなお方がここに?」
負傷して座っていたエリシアが僕に向かって問いかける。
『天界も此度の一件については憂慮している。今、人間界では大きく平衡が失われようとしている。それは、また大きな戦が始まることを意味している。先の戦いでは、天界をも巻き込み、世界の像、そのものを変容させた。その様なことは二度と起きてはならぬ。二度と起こさせてはいけないのだ』
「ふん。何を戯けたことを! その先の戦いを起こさせた張本人はおまえではないか、ギルヴァーナ!」
後ずさりしたオクスレイであったがその目からはまだ、戦意は失われていない。
「おまえのせいで、ノルガルドの民が今もどれだけ苦しんでいるか。おまえの国、ギルガルドが、我が祖国、ノルガルドを辺境の地に追いやったのを忘れたとでも云うのか!」
再び双拳に焔を纏ったオクスレイがギルヴァーナに襲いかかる。
『――引き下がるのだ、オクスレイ!』
何処からともなく声が響き渡った。その声を聞いたオクスレイは即座に我に返り、後に下がる。
「運の良い奴らだな。おまえらは。ここは一旦引き下がるが、再び相見えるときがおまえらの最後となるだろう。精々、今のうちに恐怖を味わっておくがいい」
オクスレイはそう云い残すと姿を消してしまった。
「ギル、ギル、大丈夫? 目を開けて! お願い、ギル!」
エリシアの呼んでいる声が聞こえる。長い間、横になっている気がしたが、瞼が重く、思うように目が開けられない。
「もう少し横になっていたい」
そう思っていたけど、次第に、強く揺するようになってきたエリシアに業を煮やして瞼を開ける。
「もう、エリシアってば。心配性なんだから。僕は平気だよ。ちょっと気を失っていただけさ」
と言い掛けて、気を失う前の記憶を呼び起こす。
オクスレイ。あの圧倒的な力を持つ黒衣の集団の副団長と対峙していた筈だ。
そして、確実な死を実感した次の瞬間、気を失っていた。
「おや、ギル君。ようやくお目覚めかね。どうやら、君は王国の英雄になる素質があるようだ。我々は黒衣の集団の陰謀を止めなければならない。その鍵を握っているのは、やはりアレウス山脈のゴブリニアであろう。今、王国は大きな岐路に立たされている。一刻も早く、アレウス山脈を目指そう」
この時はケインの云っている意味が全く理解出来なかったが、アレウス山脈へ向う道中にて、様々な出来事を二人から教えて貰い、ようやく理解できるようになった。
グレン先遣隊を襲撃した黒衣の集団。
アルバートと対峙した副団長、オクスレイ。
聖騎士ランベルトと偽りトラミノを根城としていたオクスレイ。
様々な出来事が僅かながら線となって繋がりを見せている。
そして、グレン先遣隊の襲撃を発端とする出来事は、人間界と天界とを巻き込んでの争いの発端となり得る出来事になりつつあった。
兄の死の真相には一歩、近づいたものの、余りの事の大きさに全体像を把握しきれなかったが、ギルヴァーナが自分についてくれていると思うと、この困難も乗り切れる気がしていた。