帰路
「すみませんが、向こうまで手を貸して頂けませんか」
振り向くと、そこには六十代くらいの男性が立っていた。
車の騒音とライトがやかましい大通りの前で信号待ちをしていた私は、飲みかけのコーンポタージュを急いで飲み干し、差し出された彼の右手を握った。盲人に声を掛けられたのは初めてだ。
大学受験を間近に控えた十二月の、塾帰りだった。
私は勉強に疲れ、ぼんやりした頭で、なんとなく彼の左手に白杖を探していた。ところがその手が手ぶらであることを認めた途端、ぎょっとして一気に目が覚めた。
一体どうやってここまで来たのだろうか……?
「信号が変わる前に渡れないので、立ち往生していたところです。本当に親切なお嬢さんだ」
お嬢さん?
不思議に思って彼の目を覗き込むと、しっかりと目が合う。私はすっかり盲人と決めつけていて、それ以外で私がこの見知らぬ男性と手を繋いでいる意味など思いつきもしなかったのだ。状況が飲み込めないまま、私は信号が変わるのをじっと待った。
だが青になったとき、その訳は直ぐに理解出来た。彼の歩みはとても遅かった。先ず左足を前に出し、引きずるように右足を添える。通りを行く人達はこの光景を何気なく視界に入れつつも、どんどんと私達を追い越していく。赤になる直前、やっとのことで横断歩道を渡り切った。確かに手を借りなければこの短い時間で渡りきれないだろうと思った。
「いやあ、ありがとうございました。お宅さんのような親切な人に声を掛けて本当に良かった。ここまで来ればもう大丈夫なんです。家もすぐそこですし」
お宅さん――普段彼はこちらの呼び方なのか。
私は「お嬢さん」と呼んでくれた方がいいな、などと下らないことを考えていた。すると彼が握っていた私の手から力を抜いたので、頭の中の独り言を慌てて中断した。
「何処へ向かわれるんですか。送れる所まで送ります」
「この道を真っ直ぐ行って、角を曲がった所です。大丈夫ですよ、直ぐ近くですから」
そういったものの、彼はもう既に息を切らせていた。それに、どちらにせよ其処は私の通る道と殆ど同じ道であった。私は彼の手を再び握り直した。
「でしたら、私の帰り道と同じです。ご一緒します」
「いいえ、そんな。本当に直ぐそこなんです」
「どうせ通るんですから」
私がそう強く申し入れると、彼は申し訳無さそうに礼を言った。
歩みは相変わらず遅かった。しかし彼が何故こんな状態なのか――何処かが痛むのか、動かないのか、何かの病気で身体を動かすことが苦しいのか――見た目には何ら異常な所が無いので、皆目見当がつかない。彼の好む通りに手を引こうにも、何をどう気をつければ良いのか分からないまま、私は手に掛かる体重を支えた。すると「もう少し、引っ張ってくれてもいいんです」と彼は言った。その通りに引っ張ると、もっと、もっと強く引っ張って貰って大丈夫なんです、と言った。
彼のしていた黒い布の手袋は二十メートルも進むと随分汗ばんでいた。
「お宅さんは本当に親切な人だ」
彼は再びそう言った。
大通りから離れていくと人気は無くなり、商店街はみな閉まって、静かだ。猫が何処かで喧嘩をしている。私は歩きながら彼の気に入るように手を引く加減を探っていた。
「いつもこんなに帰りが遅いんですか」
彼は言った。
「今日は塾帰りだったもので」
「ということは、大学を目指しているんですね」
彼は羨むように言う。
「そう――ですね。でも、全然。もっと努力しなくちゃいけないんでしょうね」
「学校は、進学校ですか」
「まあ、そうです」
「良い大学に進んで……良い会社に勤めて――」
彼は大分息を切らせていた。
「家庭を持って……それが、一番です」
歩くことすら困難な彼が、こんな時間に一人で出歩いていることには、何か事情が在りそうだった。私はこの男性が孤独に暮らしていることを、何となく察した。
「そうなんでしょうか?」
私は落ちこぼれだった。学校でも、塾でも、良い成績など残してはいなかった。幼い頃から持っていた将来の夢は、優先して取り組まねばならない試験勉強と雑念に埋もれて最早見えなくなっていた。大きな夢だった。だが、今となっては並の生活を送る自信すら、失っていた。
「ええ……そうですよ。それで沢山の稼ぎがあることが……。お宅さんは、きっと……いずれそうやって生活していけるでしょう」
冬の空気は澄んでいて、沢山の星が見えた。将来に対する不安は、十二月にもなると、とりわけ強くなった。私は夜空を見上げながら、自分の不安を人知れず和らげようとした。
大人達は、若者には多くの可能性が残されていると信じていたいものなのだろうか。それともこの男性は大学を出れば後は安泰だとでも思っているのだろうか。
家庭の恩恵にあずかって生活しているだけだ。私を知らない大人が期待しているような未来は、待ち受けてない。そんな気がしていた。
猫はまだ喧嘩をしていた。彼は、今度は気を紛らわそうとするかのように、猫の話を始めた。先程よりも更に辛そうだった。
「猫は喧嘩をすると……どちらかをこてんぱんにするまで……凄まじい喧嘩をするんですよ」
「鳴き声はよく聞きますが、私、見た事はありません。そんなにすごい猫の喧嘩は」
「それはもう、凄いんですよ。血を流していて……爪で、めちゃめちゃに引っ掻く」
そうやってしばらく猫の話が続いた。私はその話に相槌を打ちつつも、半信半疑だった。
自動販売機の明かりが直ぐそこに見えると、彼は何か飲み物でも、と立ち止まろうとした。私は右手に持っていたコーンポタージュの缶を見せた。
「さっき飲んだばかりですから。いいんです」
立ち止まらずに彼の手を引いた。彼は二つ目の自動販売機の前でも同じ事を言った。私はそれも断った。
「病院へは……?」
「明日、家族に連れて行って貰う予定なんです。――糖尿病です。明日、一緒に。車で迎えに来てくれます」
彼の家は都営住宅だった。普段十分掛からない道のりを、四十分掛けて辿り着いた。わずか四段の階段も、昇るのに二、三分掛かった。
「ああ、そうだ」
彼は言って、ポケットに入っていた小銭を私に握らせた。
「これで何か飲み物でも」
「そんな」
「私が。私の気が収まらないんです。こんなことしか出来ませんが。お宅さんのお陰で本当に助かりました」
彼は壁伝いにドアの前まで行くと、鍵を取り出し、ドアを開けた。私達は互いに軽く会釈をして、それから私は家へと向かった。
「ただいま」
私は履き慣れたローファーを脱いで家に上がった。リビングから母がすぐに夕飯を食べるか聞いてきた。私は食べると言って、自分の部屋に鞄を置きに行く。
握ったままの小銭。仕方なく私はそれを机の引き出しに適当に入れて、部屋を出た。
― 終 ―
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