第六話
「あ…………あぁ……っ」
思わず涙が溢れてきた。
嬉しくて。
ユキは、自ら別れを告げたはずだった。たとえどんなに研究所に戻ることを嫌っても、その先にどれだけ辛いことが待っているとしても。アイヴィーに迷惑をかけたくない、そして拒絶されたくないという一心でアイヴィーの側を離れたのだ。
その結果はどうだ。
アイヴィーはユキを連れ戻しに来た。
“来てしまった”という想いはある。ユキが今、決して戻りたくないと思っていたこの場所にいるのはアイヴィーのためでもあったのだから。
しかしそれ以上に、“来てくれた”という想いが何よりも強くユキの心を埋め尽くしていた。アイヴィーにとっては重荷でしかないはずのユキを連れ戻しに来てくれた。はっきりとそう口にしたのだ。
たとえそこにどんな理由があろうとも嬉しくないはずがない。そう思うべきではないとわかっていても、嬉しくて涙が止まらない。
「フ……ククク……」
「えっ……?」
だがそんなユキの想いは、唐突に漏れ出したカールの声によって打ち破られた。
「クッ……ハハハハハハハ!」
カールは天を振り仰ぎ、狂ったように笑い声を上げる。
敵が来たというのにこの上なく嬉しそうに笑うその様子は、はっきりと異様だ。ユキのそれまでの感激を拭い去るのに十分なほど。
「フフフ…………もし神などというものがいるとしたら、なかなか愉快な趣向を考えるじゃないか。なるほど、アイヴィーか。“アイ”“ヴィー”…………そう、それが彼女の名前だったな」
振り向いたカールは未だに不気味な笑みを浮かべ、アイヴィーの名前を繰り返す。
「君は考えたとことがあるかい? 何故、君のような存在が生み出されたのか、その理由を」
「り……ゆう?」
そしてまるで、出来の悪い生徒に物を言い聞かせる教師のように、ユキに語りかける。
「要求したんだよ。この世界が、その力をね。当然その力に対しては、これまでに様々なアプローチがなされてきた。君はその結果の一つだ。そして今、君とは別の結果が目の前に現れた」
「――!」
そこまで聞けば、カールの言わんとしていることも想像がついた。
ユキの心臓が早鐘のように打ち鳴らされる。まるで警鐘のように。
「それ、じゃあ……」
「フフフ……嬉しいじゃないか。かつてその成果を期待されながら、結局は途中で潰えた計画。その所産と直接競うことができるなんてね。これなら凡人どもにもわかり易くていい」
カールはことさらに笑みを深めた。その笑みの裏にあるものを、ユキは鋭敏に察知する。
(競うって…………アイヴィーさんと? 誰が……?)
考えるまでもないことだった。
ユキはそのために――カールが自身の成果を証明するために連れて来られたのだから。
「嫌……だ……………………嫌ぁあああっ!」
ユキは堪らず叫び声を上げた。
こんなはずではなかった。自分さえここにいれば、全て丸く収まるはずだった。だというのに今、ユキを待ち受けているのは最も望んでいなかった未来だ。
しかしそれに抗う術がない。どんなに暴れても、ユキの自由を奪っている拘束は緩みもしないのだ。
カールはユキの悲痛な叫びを聞きながら、心地よい音楽を聴いているかのように目を細める。
そうして、一度は置いた注射器をその手に取った。
「嫌ぁっ! 止めてっ! 嫌だぁああああああっ!」
体内に入り込んでくる冷たい感触。
ユキの想いは、その瞬間に全て打ち砕かれた。
***
「邪魔するなって言ったのに……!」
狭い通路に断続的な銃声が木霊する。
アイヴィーが研究所に侵入してから数分ほどが経過していた。
初めの警告は用をなさず、アイヴィーの行く手を警備兵が阻む。
通路の角に身を隠したアイヴィーは銃声の隙間を縫ってそこから右腕だけを突き出し、手にした短機関銃の引き金を引く。門前で倒した衛兵から奪った物だ。
「……上等!」
このままでは埒が開かないと、アイヴィーは一旦腕を引っ込める。
それを潮に反撃の銃弾が撃ち散らされ、一拍置いて相手がこちらに近づいて来る気配がした。アイヴィーは素早く上着のポケットに左手を突っ込み、そこに忍ばせておいた物を掴む。
と――
「――ちっ」
それまで撃ち合っていたのとは逆、背後からも人の気配を感じた。
おそらくは敵。そう考えるよりも先に身体は動いていた。
「手加減できないとも言ったわよ!」
新たに人の気配を感じた方には右腕を伸ばし、短機関銃を掃射した。同時に左手はポケットから取り出した円筒形の物体を角の向こうへと放り込む。
あちらでは顔を出した警備兵が無数の銃弾に撃ち据えられ、こちらで眩い閃光が角の向こうの通路を埋め尽くす。
アイヴィーが放ったのは敵の目を眩ませる閃光弾だ。アイヴィーの位置からでも相当な光だが、おそらく直視しただろう敵のダメージはその比ではないだろう。
アイヴィーは弾を撃ちつくした短機関銃を投げ捨て、即座に閃光弾を放った方の通路に駆け込む。しかしてそこには、目を押えて悶える警備兵たちの姿があった。
手近な一人を拳の一振りで殴り倒したのを皮切りに、次々と警備兵たちを叩き伏せる。その場にいた数名からなる警備兵を残さず倒してのけるのに数秒と要しなかった。
「そこまでだ!」
続いて、背後から近づいて来ていた別の一団が、先ほどまでアイヴィーが身を潜めていた角から躍り出る。
アイヴィーはそれに不意を突かれるどころか、待ってましたとばかりに懐から拳銃を抜き放ち、続けざまに引き金を引いた。
「――ぐあっ!」
先頭にいた一人はその銃弾に倒れる。他の警備兵は先のアイヴィーと同様に身を隠すが、それこそが狙いだ。
アイヴィーは一気にその角に接近する。
「くそっ…………なぁっ!?」
そうして、やはりアイヴィーと同様に角の外へ突き出された腕を即座に掴み、角に飛び込みながら一蹴りを見舞う。
他の警備兵も即応してアイヴィーに銃口を向けるが、そこから弾丸が放たれるより先にアイヴィーはその視界の外へと逃れる。
壁を駆け上がり、天井に手を着いて銃を構える警備兵の背後へ。
警備兵たちはそれに反応できるほどの手練ではなかったようで、突然背後に現れたアイヴィーの姿に驚愕する気配が容易に感じられた。
「――っ!」
振り向きざまの後ろ回し蹴りが一人の側頭部を捉え、逆側の壁へと薙ぎ払う。
振り返り、同僚が蹴り飛ばされる様子を目の当たりにした最後の一人の目は確かにアイヴィーを映していた。しかしそれ以上は何もできない。
その目は、明らかに圧倒されていたからだ。
アイヴィーという、年端も行かない一人の少女に。
「――うわぁあああっ!」
畏れの余り迸った叫びを断ち切るように、アイヴィーの腕が振り抜かれた。
しなるように振るわれた左の拳が顔面を打ち据え、その一撃で警備兵の意識を完璧に奪い去る。
その通路に、久しく静寂が訪れる。
「……………………ふぅ」
差し当たって全ての敵を倒し終えたアイヴィーは、そこでようやく一息を吐いた。
同時に、ひどく懐かしい感覚に襲われる。
目の前の敵を討ち倒す、ただそれだけにのみ集中する。それ以外のことを知らなかった頃の感覚だ。
今ならばわかる。まるで自分が、戦うことだけを糧にする生物にでもなったかのようなその感覚が、どれだけ忌むべきものなのか。そしてだからこそわかる。ユキが、自分をどれだけ嫌悪しているか。それによってどれだけ傷ついてきたか。
だからこそ、手を差し伸べたのだ。
「…………」
アイヴィーはじっと掌を見つめる。
今、その手の中に何があるのか、考えてみるが答えは出ず、アイヴィーはそっと掌を閉じる。答えはこの先あるのだと、そう念じながら。
「――!?」
その背後で、機械の重々しい駆動音が木霊した。
見れば、突如として現れた分厚い隔壁が通路を閉ざしていた。一瞬この場所に閉じ込められたかと考えたが、再び進むべき方向に向き直ったことでその心配も払拭された。
「こっちに来い……って言ってるのかしら?」
そこには、相変わらず無機質な通路が延々と続いていた。閉ざされたのはアイヴィーがこれまで辿って来た道だけだ。
退路は断たれた。もはやアイヴィーには先に進むことしか許されない。
「いい度胸してるじゃない」
アイヴィーは倒れている警備兵から再度短機関銃を奪い取ると、研究所のさらに奥へと進んでいく。
この苦境に、再び過去の自分に立ち戻っていくような錯覚に囚われながら。
「…………ここね」
それからしばらく、所々隔壁の下りた道を避けつつ歩を進めると予想通り一つの扉へと辿り着いた。
状況を考えれば、その部屋に待っているのは罠である可能性が高いだろう。しかしだからといって尻込みしていても仕方がない。すでに退くことは出来ず、何よりアイヴィーの望む人間はこの先にいるかもしれないのだ。
アイヴィーは扉の脇にあるコントロールパネルを押す。電子音とともに扉のロックが解除され、薄暗い一室が静かにその懐を晒した。
「さあ、一体どう…………っ!?」
呟きながら一歩その部屋に踏み入ると、照明が一斉に点灯した。
急激な明暗の変化に一瞬目が眩む。しかししばらくするとその明るさにも慣れ、室内の状況が徐々に見て取れるようになってきた。同時に背後では、扉が閉まる気配を感じる。
とはいえ、そこには何もなかった。
これまでと同様、ツルッとした無機質な壁と床。正面には入ってきたのとはまた別の扉があるが今は閉ざされている。その広さと天井の高さは少し狭い体育館といった様相だ。
どこまでも白い空間。アイヴィーの脳裏に悪しき記憶が想起され、胸の痛みに息を詰まらせる。
『ようこそ、私の研究所へ』
不意に、その室内に男の声が響き渡った。
見ると天井の一部が開き、一台のモニターが下がって来た。そこに映し出されたのは、声の主と思われるいかにも神経質そうな男の顔だった。
『はじめまして……とでも言っておこうかな? アイヴィー』
「確かに初めて見る顔ね。もっとも、人のことは調べておいて自分は名乗りもしない礼儀知らずの顔なんて、何度見ても覚えないでしょうけど」
『これは失礼。私はカール・ストーン、この研究所の責任者だ』
モニターの向こうで気味の悪い笑みを浮かべた男はカールと名乗った。同時に述べられたその肩書きが、アイヴィーにとってこの人物がどういう相手であるのかを物語る。
「なるほど、あんたがユキを連れてったってわけね」
『その通り。しかしまさか、アレを奪い返しに来る者がいるとは思いもしなかったよ』
言葉の割にその顔から笑みは消えない。アイヴィーがユキを助けに来ることを想定していたとは思えないが、その態度がどうにも癪に障る。
「それは残念だったわね。さぞ迷惑でしょう?」
そこでわざと相手を小馬鹿にしたように返してみる。それで少しは気色ばんだりするだろうか、という程度の考えだった。
しかし、カールの態度は崩れなかった。それどころか、続くカールの言葉にアイヴィーの方が揺さぶりをかけられる。
『傷の舐め合いかい? 無様なものだね』
「――っ!」
『迷惑かと訊いたね? 答えはノーだ。私は嬉しいんだよ。まさか、アルベルト・シュタイナーの作品と相対することができるとはね』
記憶の底に深く刻み込まれた名前。思い出すことはおろか、耳にすることすら忌避すべきその名を、よりによってこの男が口にする。
アイヴィーはもう心を揺らさなかった。代わりにその奥底で、静かな怒りがフツフツと沸き立つのを感じていた。
『確か、物心がつかないほど幼い頃からありとあらゆる戦闘訓練を受けさせ、それ以外の不要な教育を一切排することで極めて“純粋”な兵士を育成するプログラム……だったかな? そしてその左腕にはそれが施された順にナンバーが打たれる。君はその四番目というわけだ。“Ⅳ”だから“アイ(I)ヴィー(V)”とは、なかなか洒落た名前じゃないか』
「……随分と詳しいじゃない」
『当然だ。君を生み出した研究と私の研究は、その根幹を同じくしているのだからね。彼の研究が中止になったあと、巡り巡って私に白羽の矢が立ったということだよ』
「…………そう。そういうことなの」
嬉々として語るカールとは対照的に、アイヴィーはじっと俯いて身体を震わせる。
ユキとアイヴィー、二人は同じ理由によって生み出された存在だった。片や、人を人とも思わない実験を受けて。片や、人としての人格そのものを否定する教育を受けて。
この事実に、アイヴィーの怒りはついに振りきれた。
『ただ、私にも……』
「そろそろ黙りなさいよ……!」
憎々しい顔に狙いを定め、短機関銃を撃ち放つ。
モニターが粉々になり、破片が床に撒き散らされてもなお、弾倉一つが空っぽになるまで引き金を引き続けた。
「残念ね。あんたのその大層な研究も今日で終わりよ。ユキは……返してもらうわ」
あそこまで執拗にユキを追っていたということは、ユキがいなければその研究は立ち行かなくなると想像できる。カールのことを見逃す気もない。
ユキを連れ戻し、カールの馬鹿げた研究を挫く。そうすればこの怒りも晴れるだろう。
『クックックッ……』
その怒りをぶつけられてなお、カールは笑っていた。顔は見えなくなったが、おそらくは例の気味の悪い笑みを浮かべて。
『人の話をよくよく聞きもしないとは、君もなかなかの礼儀知らずだ。あらためて言おう。ただ、私にも時間がないのだよ、締め切りが迫っていてね。無能で凡庸なあの連中に、わかり易い成果を見せないといけないんだ』
カールのその言葉と同時に、正面の扉がゆっくりと左右にスライドしていく。その奥は照明の類が点いていないのか、どこまでも吸い込まれそうな暗闇が続いていた。
そう思っていると、その暗闇に明かりが灯った。
赤い、二つの明かりが。
「――っ!?」
その明かりが少しずつこちらに近づいてくる。同時に近づいてくる、刺すような殺気。肌が泡立つのを止めることができない。
この感覚、忘れられるはずがない。
「なん……で……?」
ついに暗闇から光の下へと歩み出た、赤い明かりの持ち主。
アイヴィーはそれまでの怒りも忘れ、愕然と赤い双眸を見つめ返した。照明を弾いて煌く白髪が、その目を妙にチラつかせる。
そのいずれもが、アイヴィーにとっては見慣れたものだった。
「ユキ……?」
アイヴィーの呟きにも、ユキはなんの反応も返さなかった。どこを見ているのかわからない瞳は虚ろで、一見して立っているのがやっとという風にフラつきがなら立っている。その様子はまさに、冥府からさ迷い出てきた幽鬼だった。
初めて会った時と同じように。
「どういうつもりよ!」
アイヴィーは再び湧き上がった怒りに任せて叫ぶ。
その相手は当然目の前に立つユキではなく、もはや語りかけるべき姿を失ったカールに対してだ。
『言っただろう? 私は嬉しいと。私の生み出した傑作が、過去に同じ目的のもとで生み出されたものを見事討ち破る。この上ないデモンストレーションだと思わないか? ハハハハハハハハッ!』
カールの高笑いが木霊する。
その笑い声がさらにアイヴィーの怒りを煽ったが、憤怒の炎に胸を焦がしながらもアイヴィーは戸惑いを抑えることができなかった。
気弱で頼りない、しかし優しいユキ。それが当たり前になり過ぎて忘れてしまっていたのだ。
そのユキと、一度は相対したことを。その時どれだけの痛手を受けたのかを。だからアイヴィーは、ユキともう一度対峙することになるとは想像もしていなかったのだ。
『さあユキ、怖い人が来たよ。君をいじめに来たんだ。どうすればいいか……わかっているだろう?』
「怖い……人…………嫌…………怖い人は嫌……いじめられるのは……嫌…………殺さ……ないと……殺さないと…………殺す……殺す……殺す……」
ユキは取り留めもなく呟き続ける。
そうしている内に、ユキの放つ殺気が増していく。ただこの場に立っているだけで取り殺されてしまいそうなほどに。
そしてそれが、弾けた。
「――っぁあああああああああっ!」
獣のように咆哮をあげるユキ。それがまるで何かの儀式であったかのように、次の瞬間にはその荒々しい気配は微塵も感じなくなった。
感じるのは、ただ殺気。
とてつもなく冷たく、恐ろしく鋭い、殺気。
「――つっ!?」
一足飛びにアイヴィーとの距離を潰したユキの短剣が、未だ躊躇を拭えないアイヴィーの頭部目がけて猛然と振るわれる。
アイヴィーはどうにか反応して頭を引いた。
額の一部をかすめた短剣が行き過ぎると、次いで逆の何も持っていない手が無造作に振り回される。
「――っくぅ!」
その拳が頭を打ち据えようとする寸前、アイヴィーは防御の右手を滑り込ませる。
まるで駄々っ子のような滅茶苦茶な攻撃だが、その威力は防御の上からでも十二分なものだった。脳が揺すられるような感覚に、アイヴィーの意識が飛びかける。
ユキがその隙を逃すはずもなく、短剣を持った右手を大きく振りかぶった。
それにアイヴィーの身体が反応する。頭で考えたことではなかった。
「――!?」
アイヴィーは咄嗟に身体を捻り、短剣をかわすと同時にユキの腹部に左拳をめり込ませた。続いて右の拳を握り締め、今度は顔面目がけて力一杯に突き出す。
その拳は確実にユキを捉えたが、威力は十分なものとはいえなかった。
それとほとんど同じタイミングで、ユキの膝蹴りがアイヴィーの脇腹を打ち抜いていたからだ。結果、二人は互いの威力を分け合う形で正反対の方向に後退し、再び向き合う。
「っ…………はぁ、はぁ、はぁ……」
それまでの交戦で集中力が研ぎ澄まされていたからこその、無意識の反撃。しかし危機を脱したことを喜ばしく思う反面、少なからずおそれが過ぎったのをアイヴィーは否定できなかった。
戦えば戦うほどに、アイヴィーはかつての自分に立ち戻っていく。
その行き着く先は、ただ相手の命を奪うことを求めるだけの生物。手を差し伸べるべき相手をすら、その欲求の糧としてしまう存在。それでは、ここに来た意味がない。
「そんなこと……!」
感慨は一瞬。アイヴィーは拳銃を抜き、数射する。もちろん致命的な急所は狙いから外してある。
しかしそうするまでもなく、当たらないことは目に見えていた。ユキのこの状態での反応速度とスピードは前回の戦いで存分に堪能していたのだから。
その予測どおり、ユキはその場から消えてしまったかのような動きで銃弾を掻い潜る。
そうしてアイヴィーの懐に入ってくる。しかしそれも予測通りだ。
「――っ!」
跳ね上げた脚が空を切る。これ以上ないというタイミングだったにも関わらず、ユキの反応がさらに上を行く。
だが――
「――たぁっ!」
そこまでもアイヴィーの予測の範疇だった。
アイヴィーは蹴り上げた脚を下しつつ、同時に逆の脚を蹴り上げる。そしてその脚は今度こそユキの側頭部を捉えた。
圧倒的なスピードを誇るユキに対して、初めて先手を取った瞬間だった。アイヴィーはここぞとばかりに攻め立てようと四肢に力を込める。
とにかく意識を奪いさえすれば、手にかける必要などない。それが唯一、アイヴィーが思いついたユキへの対処法だった。そしてそのチャンスは今をおいてほかにない。
だというのに身体がそれを拒絶した。
以前ユキと戦った記憶が、それ以上踏み込むことを妨げていたのだ。
「――っぅ!?」
その瞬間的な懊悩を斬り裂くかのように、アイヴィーの眼前を煌く白刃が過ぎった。
次いでユキはアイヴィーに飛びかかるようにしながらその脚を真一文字に薙ぎ払う。蹴りと言うよりバットか何かを思いきり振り抜くようなその攻撃を、アイヴィーは満身の力を込めた両腕で受け止める。
受けた腕が、床を踏み締めた足が、全身が軋む。
今しがたのダメージなどまるでなかったかのような威力だ。
あの時もそうだった。アイヴィーに肩を撃たれながらも、短剣を取り落とすことすらせず向かって来たユキを思い出す。もし勢いのまま踏み込んでいたら間違いなくやられていた。
「――このっ……!」
着地と同時に伸びるユキの短剣。心臓を狙った、明らかに致命傷になるその切っ先を咄嗟の反応でかわしてその手首を左手で掴む。
そうして右手に持った銃が、当然のようにユキの眉間に突きつけられた。
「――!?」
またも身体が勝手に動いた。確実に、敵の息の根を止める方向へと。
自身の意思と反するその行動にアイヴィーは息を飲んだ。独りでに引き金を引こうとする指を必死に制する。
もちろん、ユキはその隙を逃さない。
「――くぁっ!」
目にも止まらぬ速さで、ユキの拳が横殴りに叩きつけられた。
今度こそ防御が叶わなかったアイヴィーの意識が瞬間的に刈り取られる。膝を折りながらも掴んだ腕は離さなかった。離していれば短剣に一突きにされて終わりだったかもしれない。
もっとも、それで終わっていればこれ以上苦しまずにすんだかもしれないが。
「――っ!? かっ……ぁっ……!」
俄かに意識を取り戻したのは、喉元にとてつもない圧迫感を感じたからだった。ユキが空いた手でアイヴィーの首を鷲掴みにしていたのだ。
至近距離にユキの瞳があった。
キレイな、赤い瞳。そこには何も映ってはいない。アイヴィーすらも。だからこそ、そのなんの濁りもない赤は美しく、冷たく、恐ろしい。
唐突に視界からその赤が消え、身体が浮遊感を覚える。
首を締め上げるだけでは飽き足らないのか、ユキはそのままアイヴィーの身体を持ち上げて背後の壁に向かって走り出したのだ。
「――っう!」
そして力の限り叩きつけられる。
もはやまともな呼吸などできるわけもなく、虫よりか細い息のまま意識が闇へと落ちていく。先ほどよりさらに深く、暗い闇の底へ。
ユキを掴んでいた手が力をなくし、簡単に振り解かれる。
戒めを解かれた凶刃が高々と掲げられ、壁に貼りつけられたアイヴィーに止めを刺さんと妖しげに煌いた。
(もう…………ダメかな……)
その煌きを見つめるアイヴィーの胸に諦めが過ぎった。同じ相手に、これが二度目だ。
しかし一度目とは状況が違う。振り上げられたあの短剣が止められることは、おそらくないだろう。
何より、ユキに対して全くと言っていいほど勝ち目がない。余りにも常軌を逸したユキの戦闘能力、それに対抗するためにはアイヴィーも昔に戻らなくてはならない。ユキと同じ、ただ戦うことだけを思考する存在に。
行き着く先は、単なる殺し合いだ。そうなるくらいなら――
(もう…………いいかぁ……)
それを意識したアイヴィーの全身から力が抜けていく。それとともに右手に握り締めていた拳銃もその手から滑り落ちた。
ユキの短剣が振り下ろされる寸前……
アイヴィーの意識が闇に落ちる直前に……
その取り落とした銃が床を叩く甲高い音がアイヴィーの耳朶を打った。
「――!」
銃が落ちる音。
数年前、アイヴィーがバウンティハンターとして独り立ちする時に“あの人”から渡された銃だ。それ以来あの銃は、ずっとアイヴィーとともにあった。
扱い辛い、癖の強い一丁の拳銃。それを未だに手放さないでいるのは、その中に“あの人”の姿を見ているからなのかもしれなかった。戦い以外のことを何も知らなかったアイヴィーにあらゆることを教え、導いてくれた。
“あの人”はなんと言っていただろう。何を教えてくれただろうか。
アイヴィーの胸に、“あの人”の声が込み上げてくる。
――自分の望むものを選び取りなさい。それがハンターというものよ。
バウンティハンターは、この荒れ果てた世界で最も自由な存在。自分の望む仕事を、自分の望む時に、自分の望むようにこなして生業とする。必要とされるのは結果のみ。同じ仕事でも、十人のハンターがいれば十通りのやり方がある。だからこそ自分の望むものにこだわり、貫け……“あの人”はそう教えてくれた。
今、アイヴィーは何も望むべくもない状況に陥っている、そう思っていた。が、本当にそうだろうか。
たとえどんなに馬鹿げていても、どんなに辛い道だとしても、何かが残されているのではないか。
自分の望むものに、手をかけるために。その想いを貫くために。
(私には…………まだ…………!)
目の前を覆いかけていた暗闇が、サァっと晴れていく気がした。
「――っつ!」
振り下ろされる短剣を前に、がむしゃらに左腕をかざす。その鋭い切っ先は容易に腕を刺し貫いたが、辛うじてアイヴィーの命にまで届かなかった。
一つ難を逃れたアイヴィーは自身を壁に貼りつけている腕を掴み返し、思いきり脚を振り上げる。ユキは首を捻って避けようとしたが、動きが制限されているこの状態では上手くいくはずもない。
結果、蹴り上げられたユキの頭が盛大に跳ね上がた。
「――っは! はぁっ、はぁっ、はぁっ……」
それによってわずかに緩んだユキの手をどうにか引き剥がしてその場に崩れ落ち、久方ぶりの空気を貪るように肺へと送り込む。
が、そんなわずかな休息もアイヴィーには許されなかった。
「――っと!?」
へたり込んだアイヴィー目がけて拳が打ち下ろされる。
アイヴィーは短剣から左腕を引き抜きつつ、片手を床に着きながら強引に横へ跳ぶ。
手を着いた場所には先ほど取り落とした愛銃。抜かりなく拾い上げたそれを着地と同時に構え、残弾を全てつぎ込んで牽制を行う。
動物的な勘とでも言うのだろうか、ユキは危険だと思われる攻撃に対してはしっかりと回避行動を取る傾向があった。今もまた、ユキは身を躍らせてアイヴィーから大きく距離を空ける。
(前回は一発ぶん殴って戻ったけど、今回は戻らないわね。まあ、あれで戻ったのかはわからないけど)
それによって得た数瞬の時間、アイヴィーは銃を懐に収めながら気持ちを固めることに費やした。
(それでもいい。どうすれば戻るのかなんてわからないけど、できることはなんだってやってやる!)
選び取る。自分の望むものを。そのためにでき得る限りのことをする。
そう心に期したアイヴィーにユキが肉迫する。
赤い尾を引くその眼光はこの世ならざる悪夢のようにも思えたが、それを受け止めるアイヴィーの瞳も揺るがない。
「――このっ!」
アイヴィーはあえて自ら踏み込み、ユキの懐に体をかます。一歩先んじることでユキの勢いに抗しつつ、様子を伺う。
「――ぐっ……!」
ユキの膝蹴りがアイヴィーの身体を打つ。しかしアイヴィーはユキに手を伸ばし、しがみついて離れない。
もう一撃。アイヴィーは歯を食い縛ってそれに堪える。身体を密着させたこの距離ではほとんどの打撃は有効打にならない。それでもユキの力ならば悶絶ものだが、まともに食らうよりはマシだった。
そうして集中力を研ぎ澄ます。一瞬のタイミングを逃さないように。
過去へと落ちていく、そのギリギリの淵まで。
「――!」
打撃で離れないと悟ったのか、ユキは逆手に持った短剣を頭上高く振り上げる。
それが狙いだった。
アイヴィーは振り下ろされるその腕を受け止める。やはり密着状態、受け止めた腕にいつもほどの負荷は感じない。
そうしてそのままその腕を掴み、捻りあげる。抗いきれないユキはついに短剣を取り落とし、あらぬ方向に身を泳がせてバランスを崩した。
(よし……いける!)
手応えを感じたアイヴィーはそのままユキの背後に回りこみ、押し倒す。倒れたユキの背中に馬乗りになり、取った腕をがっちりホールドしてその動きを見事に封じ込めることに成功した。
関節さえ極めてしまえば力だけでどうこうできるものではない。あとはこの状態からどうにかしてユキの意識を奪うだけなのだが――
「っ……ぁあああああぁっ!」
「――なっ!?」
ユキが狂ったように叫び出す。
同時に鈍い音が耳に届き、ユキを押さえ込む手応えが変わった。
そう感じた時にすでに遅く、ユキの振り向き様の肘打ちがアイヴィーの顔面を強打した。無理な体勢からの威力も乗りきらない反撃だったが、予想外のその攻撃にアイヴィーは思わず拘束の手を緩めてしまった。
ユキは猛然とアイヴィーを振り落とし、その下から抜け出す。
距離を取ったユキは、またいつものように冷たい殺気を放っていた。その右腕は、肩から先が力なく垂れ落ちている。アイヴィーの拘束を抜け出すための代償だ。
そんな中、アイヴィーはそれまでとは違う変化を見つける。
ユキは震えていた。相変わらず人形のように無機質な気配を滲ませながら、それでもその身体は何かに打ち震えていた。
「あぁ…………そっか、なるほどね」
アイヴィーはすぐさまその“何か”に思い至った。
恐怖だ。
背後から押さえつけられ、自由を奪われて恐怖を感じない人間はいない。以前ベッドの上に縛りつけられたユキが、ただその状況だけで勢い込んで許しを請うてきたのを思い出す。その恐怖こそが、この状態のユキの根本的な行動原理なのだ。
(そういえば私、あの時どうしたっけ……?)
ぼんやりと考えながら、アイヴィーは身体を起こす。が、そんな悠長なことをしている場合ではない。
例よってユキは、肩が外れていることなどお構いなしに向かって来るのだ。
恐怖の源であるアイヴィーを亡き者にするために。
「――っ!」
座り込んだ状態のアイヴィーに対し、猛ダッシュからのサッカーボールキック。両腕を交差させて受けたアイヴィーの身体が宙に浮き、背中に奔った衝撃が壁際まで蹴り飛ばされたのだと教えた。
(確か……あの時は……)
それでも、この期に及んでアイヴィーは思い出そうとしていた。
ユキはすでに目の前に立っていた。無機質な赤い瞳で、考えごとをしているアイヴィーを見下ろしている。
(縄を……解いてやったのよね。口で言っても聞きそうな状態じゃなかったから、とにかく行動で……)
思い出したところで、途端に閃いた。
「…………なぁんだ」
答えは至極単純なものだった。
同時に、ユキの拳が打ち下ろされる。
アイヴィーは防御も何もしなかった。ただ、遥か彼方へ飛んで行ってしまいそうな意識を気力で必死に繋ぎ止め、その脚だけを動かした。
「――!?」
高い位置から打ち下ろす攻撃で前傾姿勢になっているところに脚をかけ、バランスを崩す。
「ごめんなさい、少し大人しくなってもらうわよ……!」
自分に覆い被さってくるユキをそのまま引き込み、床に叩きつける。アイヴィーはその隙に、力の入らない脚を必死に奮い立たせて立ち上がった。
これまでのダメージと疲労で目の前が霞む。徐々に手足に力が入らなくなってきているのを感じながら、それでもまだ立っている自分にアイヴィーは驚く。
肉体が限界を過ぎても、強い想いがそれを支える。“気力で立つ”というほとんど眉唾ものと考えていた現象を今まさに自分が体現しているのだと思うと、ふとおかしくなった。
(お願いだから、もう少し持ってよね)
アイヴィーとユキとのダメージの差は歴然としていた。このまま戦い続ければいずれアイヴィーの方が押しきられるのは目に見えている。攻守逆転と相成ったこの状況で、少しでもその差を埋めなければならないはずだった。
しかし、アイヴィーは……
「…………」
何もしなかった。
肩で息をしながら、床に伏しているユキを静かに見つめる。それ以外のことは何一つしなかったのだ。
これが答えだった。
アイヴィーが、なんでもない記憶の一欠片から見つけ出した希望だ。
「さあ、いくらでも来なさい」
ユキは形振り構わず立ち上がり、アイヴィーに襲いかかる。
「――っく……!」
低空からカチ上げてくる蹴りをどうにか捌きながら懐に入り、再び床に押し戻すように打ち倒す。
そうしてやはり何もせず、ユキを見下ろす。ダメージで身体が動かないこととは別に、意図的にそうしている。来るべき時を待ちながら。
もしそれが空振りに終われば、アイヴィーを待っているのは悲惨な結末でしかない。しかしアイヴィーには確信があった。理由などない、直感的な確信が。
(あんたは私とは違うわよね。何も知らなかった…………何も考えられなかった私とは)
思いながら、アイヴィーは静かに時を待つ。
「…………」
追撃は……なかった。
見るとユキは、パチパチと目を瞬かせながらこちらを見上げていた。なんの感情も浮かんでいなかったその瞳に、わずかにその心中が滲み出ている。
ユキは戸惑っているのだ。
敵意を消した敵に対して。傷つけようとすればできるのに、それをしない奇妙な相手に対して。
それはかつて、遠くの街の路地裏で這いつくばっていたアイヴィーと同じだった。あの時のアイヴィーはその意味を理解できなかったが、ユキならわかるはずだ。
“敵”しか知らなかった過去のアイヴィーとは違い、“敵以外のもの”を知っているユキならば。
それをわかり易く示してやればいい。言葉で届かないのなら行動で。
アイヴィーはその場にしゃがみ込み、じっとユキの瞳を見つめる。
「本当に…………しようのない子ね」
その言葉通りの心境で苦笑しながら、記憶に残る“あの人”と同じ言葉を呟いた。そうしてそっとユキの肩に腕を回し、優しく抱き締める。抵抗はない。
その腕にユキの温もりを感じる。重ねた身体にユキの鼓動が響く。
それはきっとユキも同じのはずだ。だからこそ、ユキはそれを受け入れた。その温もりと鼓動を奪うのではなく、寄り添い、感じることを。
戦いの最中、アイヴィーはその相手の命を優しく抱き締め続けた。
***
(なんだろう……?)
温かかった。
それまでユキの心は、まるで光の届かない水底のように冷たく重苦しいものに囚われていた。どんなにもがいても逃れることができず、ただただその責め苦に堪えることしかできなかった。
そんなユキの心を、光が照らした。
ユキを捕らえ、苦しめていたものを振り払い、温かく包んでくれる光。
それがなんなのか、始めはわからなかった。しかし徐々に、その温かさに覚えがあることを思い出す。
例えば、頭に乗せられた優しい手。慈しむような視線。
不器用ながら、いつもユキのことを温めてくれたあの温もり。
ユキは手を伸ばす。その光に向かって。
心の奥底の暗闇が、暖かい光に満たされた。
***
「……!」
半ば呆けたようにその肩を抱き締めるアイヴィーの腕の中で、ユキがわずか身動ぎするのを感じた。
アイヴィーは恐る恐る身体を離し、その顔を覗き込む。
「ユキ……?」
「……………………アイヴィー、さん」
アイヴィーの問いかけに答えるユキ。その瞳は確かな息吹を宿した、いつものキレイな赤色だった。
それを見止めた瞬間、その胸に熱いものが込み上げてきて視界が滲む。
「――! ア、アイヴィーさん?」
無言のまま、アイヴィーは再びユキを抱き締めた。
それは、自分の目から溢れ出たものをユキに見られたくないという理由もあった。しかしそれ以上に、確かめたかった。
アイヴィーがその手で、その意思で取り返した、その温もりを。
「アイヴィーさん……」
そんなアイヴィーをユキも抱き返してくる。かすかに震える肩と声。ユキもまた涙を流しているのだろう。
ふと気づいたその景色は、不思議と色づいていた。
アイヴィーの瞳に映るものは白い部屋の片隅と、それとは違う白色をしたユキの髪、それだけだった。 ほとんどモノクロに近いそれらが、鮮やかな色彩を放っているように感じる。
アイヴィーは、その感覚を覚えていた。
あの日見た、澱んだ空と瓦礫の原。アイヴィーという“人間”がこの世に生れ落ちた瞬間。あれと同じだ。
アイヴィーはずっと追い求めていた。自分の心を震わせたあの景色を。あの時の感覚――感動が忘れられなくて。
(やっと…………見つけた)
アイヴィーはその景色を、無心になってその瞳に焼きつけた。あの時と同じように。
決して、消えないように。
***
「な…………何が起こったんだ?」
端末のモニター越しにアイヴィーとユキの様子を観察していたカールは、その顛末を目にして驚愕する。
これまでユキは、一度目の前に立った相手を殺さずに元の状態に戻ったことはなかった。しかし場合によってはその限りではないことも、アイヴィーが生き延びていたことから推測はしていた。それゆえ今回、カールは薬物を用いた暗示も併用してユキを戦闘状態へと導いたのだ。おいそれとは戻らないほど強固に。
だというのにそれすらも通じず、ユキは元の状態に戻ってしまった。暗示は本来なら敵対し得ないだろうアイヴィーに無理矢理その殺意を向けさせるためでもあった。一度戻ってしまえば、あらためて暗示でもかけない限りもはやその刃がアイヴィーを傷つけることはないだろう。
ユキがその正気を取り戻した瞬間、カールの思惑は潰えたのだ。
しかし、カールはそれを認めようとはしなかった。
「…………いや、まだだ。データは十分に取れた。とりあえずこれで連中を納得させれば、時間は稼げる」
その上で研究を続けるなり、ユキを再び連れ戻すなりすればいい。カールはそう考えた。
「ルーシー、どこにいる応答しろ…………ルーシー!」
カールはすぐさま端末を通信状態に切り替え、秘書であるルーシーに呼びかける。
だが――
「どうかなさいましたか?」
「――!?」
その声は、すぐ背後から聞こえてきた。
予想だにしていなかった至近からの声に、カールは肝を潰す。
「そ、そこにいたのか。それなら都合がいい。研究データを吸い出してこの研究所を放棄する。急げ!」
カールは指示を飛ばしながら、即座に自らも作業を開始する。
しかしその手は、時を経ずして止められることになる。
「必要ありません」
「何……?」
慌てふためくカールとは対照的に、ルーシーはわずかにも動揺することなく直立したままだった。その冷徹な視線がカールに突き刺さる。
「必要ない…………とはどういうことだ?」
その視線をはね退け、問い返す。
「データはすでにありません。研究所のメインメモリーにあったデータは、私が先ほど消去させていただきました」
「なんだと!? 貴様なんということを……!」
「研究の中止と蓄積データの抹消は、予てより決定していた事項です。重ねて今回の件で、やはりあなたの研究では不適合だということもはっきりしました」
「ふざけるな! 私がどれだけこの研究に心血を注いできたか……それを貴様は!」
カールの発憤にも動じず、淡々と語るルーシー。その態度がなおさらカールの神経を逆撫でした。
「確かに……そのようですね」
しかし怒りに任せて叫べども、ルーシーの態度は変わらなかった。
「あなたのこの研究に対する執心ぶりは十分に理解しています。ですが結果が伴わず、中止命令も聞かないのならば…………そのようなものは害悪でしかありません」
「何……!?」
言葉とともに悠然とルーシーの手が動き、カールへと向く。
その手には一丁の自動拳銃が握られていた。それを突きつけられ、カールは息を飲む。
「貴様……は?」
「あなたは…………色々と知り過ぎています。研究の中止とともに、あなたの抹殺も“上”の意向です」
カールはようやく思い至る。ルーシーは秘書でも、助手でもなかったのだと。
彼女の目的は研究の監視。彼女はそのために遣わされた駒だ。
「ま……待て! 私は……」
「才のない者がそれを履き違えることほど、無様なことはありませんね」
カールの言葉に耳も貸さず、ルーシーは引き金を引いた。
たった一発の乾いた銃声を最後に、カールの意識は決して戻れない闇の底へと落ちて行った。
***
「アイヴィーさんちょっと……痛たたた」
アイヴィーにされるがままに抱き締められていたユキが、突然声を上げた。
「あぁ、ごめんなさい。そんなに強くしたつもりはないんだけど……」
「いえそうじゃなくて、なんか変…………っっっ!?」
身を離して自分の身体を確かめるユキの顔が一瞬にして青褪める。その原因は――
「う、う、腕……! 右腕が全然動かないです!」
「あ、そういえば……」
ユキの右肩は外れたままになっていた。どうやら今回の戦いはユキの記憶には残っていないようだ。知らぬ間にそんななことになっていれば、確かに青褪めもする。こういう状況に慣れていないユキならばなおさらだ。
「どどど、どうしましょう!?」
「落ち着きなさいよ。関節が外れてるだけだから大丈夫。今入れてあげるわ」
取り乱すユキをたしなめつつ、ユキはその腕を取る。
「ちょっと痛いけど、我慢しなさいよ」
「は、はい」
「せぇーのっ!」
「――っ〜〜〜〜!」
予め覚悟していても痛いものは痛い。なのにユキはその痛みに堪えて声一つ上げなかった。それまでのユキらしからぬ我慢強さを少し見直す。
(ま、涙目になってるけどね)
その涙は先ほどの余韻ということにしておこう。
とりあえずこれで当面するべきことはやってしまった。となれば、こんなところに長居は無用だ。
「さて、それじゃあ帰りましょうか」
「ぁ……」
言いながらその手を差し伸べるアイヴィー。しかしユキは、この期に及んでその手を取ることに躊躇しているようだった。
これまでの経緯から予想はしていた。しかしアイヴィーはそれでも手を差し伸べると決めてここに来たのだ。いよいよとなれば、嫌がるユキを無理矢理担いででも連れ帰る覚悟だ。
が、アイヴィーは肝心なことに思い当たる。
「……って、そういえば扉閉まっちゃってるのよね。途中の隔壁も下りてるし、どうしようかしら」
「え……?」
アイヴィーをこの部屋に誘い込むように閉ざされた隔壁。手持ちの武器弾薬ではどうすることもできないだろう。だとすれば、取るべき行動は一つしか残されていない。
「…………どっかにセキュリティーを管理してる端末なりなんなりがあるはずよね。そこで開けるしかないか」
目的を達し、これ以上この研究所に用がないだけに気が進まなかった。しかしここから出られないのであれば話にもならない。アイヴィーは疲労しきった身体に鞭を入れ、ヨロヨロと歩き出す。
「あ……! 大丈夫ですかアイヴィーさ……」
それを見たユキは慌ててアイヴィーに手を貸そうと腰を浮かせる。
が――
「――んっ!?」
「――なぁっ!?」
しかしそれは、唐突な爆音と爆風によって妨げられた。
アイヴィーもその爆風に煽られてその場に倒れ込む。
「あぁ? なんだこの部屋……お?」
「さっさと行きなさいよ。あんたデカイんだから……ありゃ?」
続いて室内に一組の男女が入ってきた。見覚えのある顔、同業者だ。
「ちょっ、あんた達なんで……」
「さあ、中心部までもう少しですよ! 頑張りましょう!」
さらに続いて、その背後から妙に張り切った感じのこの上なく聞き馴染んだ声が聞こえてくる。
「その必要ないみたいよ?」
「みたいだな」
「え……?」
前にいる二人が道を開け、最後の一人が歩み出る。
それは予想通り――
「ミリア!?」
「アイヴィーちゃん! ユキちゃんも……無事だったんですね!」
アイヴィーとユキの姿を見つけたミリアが破顔して駆け寄って来る。
「あんた……なんで? この二人は?」
「私がなんとかするって言ったじゃないですか。お二人には、私が賞金を出して来て貰いました」
「はあ?」
余りにも突飛な行動だ。そして潔くもある。ミリアが見せたその行動力と決断力に、アイヴィーは舌を巻いた。
そのミリアが小さく笑う。
「でも……無駄だったみたいですね」
「え?」
「やっぱりアイヴィーちゃんも助けに来たんですね」
「あっ……!」
不意にかけられた言葉に急に恥ずかしさが募り、アイヴィーは視線を逸らす。
アイヴィーは、ユキを助けに行こうというミリアの言葉を一度ははねつけたのだ。それがいざフタを開けてみれば、ユキを助け出したアイヴィーだった。言行不一致も甚だしい。
「…………それで、どうするの?」
苦し紛れに、アイヴィーはユキに水を向ける。
「はい?」
「戦闘に関しては戦力外のミリアですら、こんな所まであんたを助けに来たのよ。もう、わかってるでしょ?」
「あ……」
ユキは呆気に取られた表情でアイヴィーとミリアを見比べる。未だに戸惑っている様子だが、ここまできてその言葉に背を向けたりはしないだろう。
第一、ユキは押しに弱いのだ。
「アイヴィーちゃんひどいです……!」
「事実でしょ? あんたはちょっと黙ってなさい。それで、ユキ?」
「私……は……」
俯いたユキの瞳から再び涙が流れ始める。
切なげな嗚咽が響きながらしばしの時間が過ぎる。そうして意を決したように顔を上げたユキは、涙で声を震わせながらも確かに言った。
「私……も…………帰ります……帰りましょう……」
アイヴィーが差し伸べた手、ユキはようやくその手を取った。しっかりと。
瞬間、心が何かで満たされていくのをアイヴィーは確かに感じた。
もうこの手は離さない。
絶対に……




