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IVy  作者: 一ノ次
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第五話

 「…………」

 その日のアイヴィーは、自分の部屋で一言も発することなく窓の外を眺めていた。

 シトシトと、細かい雨粒が地面を叩く音だけが耳に届く。正午も近いというのに陽の光は分厚い雲に遮られ、ガラス越しの街並みは灰色にくすんでいる。その景色はまるで、今の自分の心境を映しているように思えた。

 「アイヴィーちゃん…………今日はお仕事には行かないんですか?」

 今日はミリアも朝からここにいる。何を話すわけでもなく、今のように時折言葉をかけてくるだけでそれに対するアイヴィーの反応も鈍い。

 「……わざわざこんな雨の日に出なきゃいけないほど、お金に困ってないわよ」

 「そう……ですよね」

 アイヴィーの素っ気ない言葉に、ミリアは口をつぐむ。その繰り返しだった。

 確かに数日前までと違って、今のアイヴィーには十分な蓄えがあった。それはしばらく働き詰めだった成果だと言えるのだろうが、それとはまた別の理由があることも否定できなかった。何せ、人一人分の食費その他諸々がそっくり浮いてしまったのだから。

 「…………」

 あの日、ユキはアイヴィーたちの前から姿を消した。

                       ***

 「は……? 来てない? 連絡も?」

 『はい、来てませんけど』

 レインを街の自警団に引き渡したあと、アイヴィーはすぐさまミリアに連絡を取った。アイヴィーの言いつけ通りにユキが行動したならば、もうミリアと合流していてもいい頃合だったからだ。

 しかし、ミリアから返って来たのは予想に反する言葉だった。

 『どうしたんですかアイヴィーちゃん? 何かあったんですか?』

 アイヴィーはユキに追っ手がかかったことを手短に説明する。ミリアも最初は驚いていたが、すでに事態が解決していることを聞いて安堵の息を漏らした。

 『そうだったんですか。でも私のところには何も……』

 「そうなのよね。まったく、一体何を考えて…………!」

 そこでアイヴィーはようやく自分の失態に気づいた。

 アイヴィーは追っ手がレイン一人だと決め込んでいたが、果たして本当にそうだったのだろうか。これまでの経緯とレインの言葉から察するに、ユキは施設にとってかなり重要な存在のはずだ。そんな人間を連れ戻すのに、追っ手一人で済ませるだろうか。

 もしそうでないのなら、レインの行動が(本人の意図はさておくとして)アイヴィーたちに別行動を取らせるための陽動だった可能性は高い。それに乗ってしまったのだとすれば、これ以上の失態はない。

 「何やってんのよ私は……」

 『どうしたんですか?』

 「……なんでもないわ。私はこれからユキのこと探してみるから、ミリアは私の部屋に行ってみてくれる? もしかしたら帰ってるかもしれないから」

 『はい、わかりました』

 アイヴィーは携帯端末を切り、気持ちを切り替える。

 先の推測も決して確定的なものではない。まずは手を尽くす、そう思いつつ端末をポケットにしまいながらも、足はすでに動き始めていた。

 「……!」

 しかし、その出足は突然手の中で震え出した端末によって挫かれる。

 「着信…………公衆端末? もしかして……」

 根拠のない予感に促されて、アイヴィーは大急ぎで通話ボタンを押した。

 「ユキ!?」

 『……………………アイヴィーさん』

 その予想と違わず、端末から聞こえてきたのはユキの声だった。

 「今どこに……っていうか今まで何してたの!?」

 『ごめんなさい』

 声を荒げるアイヴィーにユキはただ一言、分かれた時と同じく消え入りそうな声で答えた。その様子に違和感を覚えたアイヴィーはどうにか憤りを静め、できるだけ声のトーンを抑えて語りかける。

 「……それで、今どこにいるの?」

 『…………ごめんなさい』

 しかし、返ってきたのは先ほどと全く同じセリフだった。

 「それはもういいから、今……」

 『私……帰れません。いいえ、元のいた場所に帰ります』

 「はあっ!?」

 そうしてようやく違う言葉が返ってきた。が、アイヴィーはその言葉に耳を疑う。それほどまでに、予想外だったのだ。

 「帰るってあんた……」

 ありえない。

 アイヴィーは、研究所にいた頃の話をするユキの様子を思い出す。あんな風に泣いて、苦悩を露にしたユキがそこに帰ろうなどと思うはずがない。だからこそ、研究所から逃げ出してきたのだろうから。

 にもかかわらず、ユキの口からは全く逆のことがゆっくりと語られる。

 『私は、私がいるべき場所に帰ります。もう……心配いりませんから』

 「どういうことよ!? ちゃんと説明しなさい!」

 『これまでたくさん迷惑をかけて、本当にすみませんでした。それから……ありがとうございました』

 「ちょっ……待ちなさいよ! まだ話は……」

 『……さようなら』

 別れの言葉を最後に、その通信はかかってきたときと同じように唐突に途切れてしまった。

 「なん…………なのよ……」

 何が起こったのか、全く理解できない。

 アイヴィーは、ただ呆然とその場に立ち尽くすことしかできなかった。

                       ***

 そうして翌日を迎えた今も、ユキは帰ってこない。連絡もない。

 雨の降りしきる街並みを見つめるその目は、あるいはその中にユキの姿を探しているのかもしれなかった。しかしそれは叶わない。

 ユキは“帰った”のだ。自分の居場所だと定めた、ここではない場所に。

 「…………どう、するんですか?」

 「だから、こんな雨の中……」

 「そうじゃなくて……! …………ユキちゃんの、ことですよ」

 業を煮やしたのか、ミリアがついにその名前を口にする。最後の電話のことを話してから、口に出すことを頑なに拒んでいた名前を。

 「あの娘のことは、もう忘れなさい」

 「どうしてですか!? だってユキちゃんは……」

 「あの娘は自分の居場所に帰ったのよ。そう言ったでしょ?」

 「そんなことあるわけないじゃないですか! あんなに辛そうだったのに、今さら戻るなんてそんなこと……絶対にありえないですよ! 助けに行きましょう、場所もわかってるんですから!」

 大声でまくし立てるミリアの手には一枚の紙切れ。おそらくは例の研究所の所在が記されているのだろう。

 ミリアのその考えは、アイヴィーと全く同じものだった。ユキが望んで研究所に戻るはずはないと。ミリアとともにユキのあの様子を見たのだから当然だ。

 だとしても、変えようのない事実が一つだけある。

 「でも、ユキは自分の意思で帰って行ったのよ? あの時、助けを求めようとすればできたはずなのに。それをしなかったのは、本心はどうあれそうすることを自分で選んだから。そうでしょ?」

 「脅されたりしてるのかもしれないじゃないですか!」

 「同じことよ。脅しに逆らうのも屈するのも、本人次第よ」

 ミリアを、そしてユキを、とことん突き放す。今のアイヴィーはミリアの声に耳を傾ける気などさらさらないのだ。ミリアが何を、どんなに声高に主張しても聞く気にはなれない、そんな心境だ。

 「っ……………………もういいです!」

 そんなアイヴィーの態度に、ミリアもとうとう我慢の限界が訪れたようだ。

 「もうアイヴィーちゃんには頼みません! ユキちゃんのことは、私がなんとかします!」

 「なんとかできればいいわね」

 「――っ! アイヴィーちゃんのバカァっ! おたんこなす!」

 激昂したミリアは手にしていた紙切れをクシャクシャに丸めてアイヴィーに投げつけ、そう喚き散らして部屋を出て行く。壊れんばかりの勢いでドアを閉じる様子は、そのままミリアの怒り具合を象徴していた。

 それきり、部屋に静寂が訪れる。

 「……………………あんたいくつよ?」

 最後に吐いた時代錯誤の捨てゼリフに奇妙なおかしさが込み上げては来たものの、それも一瞬のことでしかなかった。

 アイヴィーは再び黙り込んで、窓外の観察に戻る。

 「…………」

 本当は、アイヴィーもミリアと同じ気持ちなのかもしれなかった。今もこうして、ユキが姿を現さないものかと窓の外に視線を投げ続けているのだから。

 それなのに、ミリアのように直接的な行動に出ようという気が起きない。そこまでやってやる義理はない、そう思っているのだろうか。しかしだとすれば、そもそも最初にユキのことを助けてやろうなどと思わなかったはずだ。

 (いいわよねあの子は。シンプルで、ストレートで……)

 心の中での呟きはミリアに対してのものだ。揶揄してではなく、純粋に羨ましい。それはアイヴィーには――少なくとも今のアイヴィーには到底持ち得ないものだ。

 (そういえばあの子も……)

 そうしてふと、ユキもどこかそんな真っ直ぐさを持っていたと思い出す。だからこそ、自分のやってきたことにああも傷ついてきたのだろう。

 (あの二人がすぐに打ち解けたのも、その辺りが理由なのかしら)

 そんな二人を好ましいと思っていたアイヴィー。ユキをこの部屋に連れてきた日、奇妙な経緯から二人の頭を撫でてやったことが思い出される。

 雨は降り続いている。

 心地良い、規則的な雨音が過去へと飛んだアイヴィーの意識をより遠くへと連れ去っていく。

 ゆっくりと……

 アイヴィーは夢の世界へと滑り落ちていった。

                       ***

 アイヴィーは路地裏にいた。

 見慣れたアールヴの街ではない、もっと遠くのアールヴとは別の街。その街のとある路地裏。そこでアイヴィーは無残にも這いつくばっていた。

 雨が降っていた。地面は濡れていくつかの水溜りができ、壁やその辺りに落ちているゴミなどに降り注いだ雨粒がわずかに灯る街灯に照らされて煌いている。

 そしてそれは、アイヴィーの目の前に立つ人物もそうだった。

 長いコートの裾から雨粒を滴らせながら立つ一人に人物。

 血の滲んだ砂利を噛み締めて地に伏しているアイヴィーを、憮然として見下ろしている。

 (……気は済んだかしら?)

 身体が動かなかった。

 鈍い痛みが全身に広がってはいたが、それは原因ではない。戦いの中において痛みに屈することは許されない。故にアイヴィーは、痛みを凌駕するだけの精神力を訓練によって培わされていた。痛みではない、別の何かがアイヴィーの身体を支配しているのだ。

 戸惑い。

 アイヴィーは知らなかった。殺気も、敵意も感じない“敵”がいることを。相対し、諍い合っているのにも関わらず。

 アイヴィーを打ち伏したその相手の目に浮かんでいたのは、侮蔑とも哀れみとも取れない不思議な色。そんな視線を受けたアイヴィーは戸惑うことしかできなかった。

 アイヴィーは戦うことだけしか知らなかった。敵意を放つ者には立ち向かえ、怯えを見せる者に容赦をするな、アイヴィーはずっとそう教えられてきた。そうでない相手を、今初めて目の当たりにしている。

 戦いの最中、向かって来もしなければ逃げる素振りも見せない。敵であるはずのアイヴィーを前にして、ただその様子を見つめる瞳がアイヴィーに初めての感覚を植えつける。

 初めての、戦い以外の感覚を。

 ふと、アイヴィーを見つめるその視線が和らぐ。その瞳はかすかに慈しむような光を宿し、同時にその手がアイヴィーの目の前に差し出される。

 その手に、アイヴィーの混乱の度合いは増す。敗れた相手に手を差し伸べる人間など、アイヴィーは見たこともなかったからだ。

 だから振り払った。

 怖かったのだ。自分の知らないことばかりをする、その相手が。

 機嫌を損ねたのか、その瞳から慈しみが消える。

 それでいい、近寄るな、アイヴィーはそう思った。

 しかしその想いは届かなかった。一瞬の間を置いて振り払われた手が再びアイヴィーに伸び、今度は無理矢理アイヴィーを掴み上げたのだ。そのままアイヴィーはその人物の胸の中に抱きかかえられる。

 その行為に、当然アイヴィーは滅茶苦茶に手足を振り回して抵抗した。しかし体勢が体勢なだけに満足な結果は得られず、体力を消耗していたこともあってその抵抗はあえなく不発に終わる。

 もういい。

 もう疲れたと、アイヴィーは目を閉じる。

 (しようのない子ね)

 すぐ傍らで聞こえてくる音が心地良かった。

                       ***

 次に目を開けた時には、そこはそれまでとは全く違う場所だった。

 そこは街でもなければ、雨も降ってはいなかった。ただ、何もない空間が果てしなく広がっているだけの場所だ。

 そこには二人の人間がいた。

 アイヴィーとユキ。

 何もない空間に、うずくまって涙を流すユキの嗚咽だけが響いている。

 漠然と、アイヴィーはその姿を見つめる。自分より背が高いはずの身体が嘘のように小さく見える。逃れられない苦難を無理矢理背負わされたその背中は酷く頼りない。

 あまりに頼りなくて、思わず手を伸ばす。

 じっと、気づいたユキがその手を見る。

 赤い瞳が悲しげに歪む。

 そうしてその目はアイヴィーの手から逸らされる。アイヴィーほどではないにしろ、それは明確な拒絶だった。そこにどんな意図があろうとも、アイヴィーが差し出した手は払われたのだ。その事実が、思いがけず胸を突く。

 アイヴィーはようやくわかった気がした。ユキの取った行動に対して、なんの行動も起こせないでいるその理由を。

 それは同時に、“起こせないでいる行動”の答えを示してくれた。今しがた、それを見てきたのだ。自分自身の、記憶の奥底で。

 あのアイヴィーとこのユキは違うかもしれない。

 “あの人”とこの自分が見ているものは違うかもしれない。

 それでも同じだ。一度差し伸べた手はおいそれと引っ込めることはできない。その手を差し伸べた想いが、欠片ほどでも心のどこかに残っているのなら。

 消えない欠片には理由がある。消えない欠片は痛みを生む。

 それを消すためなら、時にはその拒絶すらも乗り越えて……

 手にした答えに背中を押され、アイヴィーはユキを無理矢理に抱き寄せる。

 戸惑ったような表情を浮かべたユキはアイヴィーのように抵抗したりはしなかったが、しかし次の瞬間にはその表情を曇らせる。それでも、アイヴィーはユキを離さない。しっかりと握ったその手を離さない。

 何もない空間が、何かで満たされていく。

                       ***

 「ん……」

 おぼろげに、アイヴィーは目を開けた。

 雨音とくすんだ景色。寝起きでぼやけた意識のまま夢の終わりを感じ取る。

 アイヴィーは頭を振って居残る眠気を完全に振り払い、壁にかけてある時計を見る。時計の針は午後四時を少し回ったところで、うたた寝と言うには少し長過ぎる時間が過ぎていた。椅子に座ったまま寝ていたので身体の節々も鈍く痛む。

 「……………………ふぅ」

 アイヴィーは一つ息を吐き、自分の掌をじっと見つめた。

 そうして思い出す。滑り落ちた虚ろな世界で、自分が何を思ったのかを。

 あの時、自分に差し伸べられた手。

 一度は振り払ったあの手があったからこそ、今の自分がいる。今ではちゃんと、あの手に感謝することができる。だから、アイヴィーはその手を差し伸べたのだ。自分と同じ、辛い過去を背負ったユキに対して。

 それなのに振り払われた。拒絶されたのだ。しかしそれでも、ユキの助けになりたいという想いは残っている。だから振り払われた手をどうするべきか惑い、想いは袋小路にはまりこんでしまった。

 「私も、一度は振り払ったのにね」

 思い出した今となってはそれまでの行動が恥ずかしくさえ思える。答えを知っているはずなのに、それに全く気づかなかったのだから。

 そう、答えはこの手の中に始めからあったのだ。

 (私にはまだ……あの子に手を差し伸べたいっていう想いがある。それはきっと、まだユキが助けを求めている証拠。たとえ、ユキ自身の意思がどうあっても)

 それは自分勝手な考えかもしれない。しかしそう感じなければ、ユキを助けたいというこの想いがどこから来ているのか説明がつかない。助けを必要としない人間を助けるほど、アイヴィーはお節介ではないのだ。

 だから間違いないのだと信じる。その想いを、動き出すための原動力とするために。

 「……よし!」

 アイヴィーは目を瞑り、呟く。いつかと同じように。静かに、心が高揚していく。

 そのまま部屋を出ようと愛銃に手を伸ばした。

 が、それは最悪の形で妨げられた。

 ――ぐぅ〜〜〜〜……

 「――っ!」

 それはそれは盛大な腹の虫。

 思えば昼食も食べていない。家庭によっては夕食の準備に取りかかり始める時間帯とあっては当然だろう。

 「くぅ…………」

 誰も聞いていないとわかっていても思わず頬が紅潮し、その情けなさにやる気が萎える。

 しかしそこはどうにか自分を奮起させ、銃に伸ばそうとした手を一旦引っ込める。

 そうして向かった先はキッチン。収納の扉を開いたそこにはアイヴィーの“お気に入り”が所狭しと詰め込まれていた。時間は惜しいが腹ごしらえも重要だ。

 アイヴィーはその中から一つを取り出し、お湯の準備を始める。

 雨はいつしか止み、代わりに雲の切れ間からいくつもの光の柱が降り注いでいた。

                       ***

 「くっ……! ぁぐっ…………あぁっ……!」

 全身が焼けるように熱い。

 それに伴う激痛が身体の隅々まで奔る。

 思考は定まらず、今にも叫び出してしまいそうな自分をただただ抑え込むように拳を握り締め、歯を食い縛って呻き声を漏らす。

 研究所に戻ったユキは以前と同じように、カールの実験道具として昼夜を問わずに様々な処置を施されていた。今もベッドの上で手足を拘束され、なんらかの投薬を受けたところだ。

 それがなんなのか、なんのためなのかなど考える余裕はない。度重なる実験とそれによる身体の変調に振り回され、ユキの心身はたった一日余りでボロボロになっていた。

 「はぁ、はぁ、はぁ……!」

 ほどなくして、全身を支配していた熱と痛みが引いてくる。ユキは肩で息をしながら、その余韻に苛まれる。

 「やあ、調子はどうだい?」

 それを見たカールが注射器を片手に近づいてくる。その顔に張りついている薄笑いはいつ見ても好きになれない。

 「いやぁ、君が戻って来てくれて本当に助かったよ。実は上の無能共が私の研究の中止を検討していてね。おかげでスタッフも減ってこの有様だ。まったく、この研究は世界を変容させ得るものだというのに、その意味がわからない凡人にも困ったものだ」

 カールは研究中止に不平を漏らしながらも、最終的には自身の研究がどれだけ重要なものかを説いて聞かせる。

 「だが……とりあえず君を見せれば連中も黙るだろう。君は私にとって、これまでで最大の成果だからね」

 カールたちが死に物狂いでユキを捕らえようとしていた理由はそこにあった。要は延命だ。ユキそのものが必要なのではなく、ユキという目に見える成果をもって打ち切りが検討されているこの研究を存続させようという目論見だろう。

 そんな独りよがりな思惑にユキは、そしてアイヴィーは命の危険に晒されたのだ。

 「それにしても、数日で随分変わったね君は。以前なら泣き喚いて、ベッドの上で大暴れしていたのに」

 ぼんやりとした頭でカールの言葉を聞く。

 確かにそうだ。以前のユキならばその苦痛に堪えることなどできず、声を上げ続けていたはずだ。それがユキの知る、苦痛を軽減させる唯一の方法だったのだ。

 それをしなくなったのは、アイヴィーのおかげだった。

 自分と同い年とは思えないほど心に余裕があり、何事にも動じない強さも併せ持つアイヴィー。そんなアイヴィーと接する度に募っていく、ある種の憧れのような想い。あんな風になれればと、何度思ったか知れない。そんな想いがあったからこそ、ユキは自分の弱さを晒すことを拒んだ。アイヴィーだったらそうするだろうと考えて。

 だからこそ、ユキはその前から姿を消した。

 少し前なら、単純に迷惑をかけたくないという想いが先行したのだろう。しかし今は違う。今はただ、アイヴィーに嫌われたくないという想いが何より強くなっていた。

 ユキがそばにいることで、アイヴィーは否応なしに危険に晒される。守ってくれるかもしれない。守り通すことができるかもしれない。しかし同時に、そんな戦いに嫌気が差し、その元凶であるユキを疎ましく思うかもしれない。今のユキは、そうしてアイヴィーに拒絶されることが一番辛いことだと思えるのだ。

 だから姿を消した。

 アイヴィーに嫌われる前に。

 やがて来るだろう苦痛を避けるために。

 「…………こういうのも、なかなか扇情的だねぇ」

 「――ぅっ!?」

 そんなユキの心中など知る由もないカールは、心地よさそうに頬を歪める。弄ぶように首筋をなぞる注射器の針先に過敏に反応したユキは、思わず小さな声を上げた。

 怖いくらいに感覚が鋭くなっているのが自分でもわかる。

 「荒い吐息、玉のような汗、声を殺して必死に苦痛に堪える様子……そそられるじゃないか。まあ、官能小説としては少しムードにかけるかな? このまま君を滅茶苦茶にしても面白そうだけど……」

 本来なら恐ろしくて顔が青褪めてしまうようなセリフも、今のユキには右から左だった。そんなセリフを気にしている余裕すらないのだ。

 「ははは…………安心したまえ、そんなことはしないよ。そんなこといつでも、誰にでもできることだからね」

 カールがまた笑う。

 よっぽど嬉しいのだろう。ユキが戻ったことが。自分の研究が続けられるということが。

 「今は今しか…………君にしかできないことをやろう」

 首筋にあてがわれていた注射器が皮膚を貫き、ユキの中へと侵入する。

 ユキは痛みに堪えながら、続く更なる痛みを想像して身体を硬直させた。

 「…………ん?」

 しかし、その痛みはやってこなかった。

 突然室内に鳴り響いた電子音に反応したカールはひと時注射器を持つ手を休め、その音の発生源に視線を移す。

 「……まったく、いいところだというのに」

 カールはユキの首筋に刺さった注射器を一旦引き抜き、銀色のトレーの上に置くと部屋の隅にある端末へと向かう。何ごとか操作をしたあと、ディスプレイに女性の顔が映った。カールの秘書兼助手のルーシーという女性だ。

 『お楽しみのところを申し訳ありません』

 「何事だ?」

 『正面ゲートにお客様が見えています』

 「客だと? そんな予定はなかったはずだが?」

 『映像を回します』

 ディスプレイの映像がルーシーから別の場所に切り替わる。おそらくは正面ゲートを映す監視カメラの映像だろう。今しもそこに、一人の人間が映り込んできた。

 正面ゲートに向かって、悠々と歩を進める少女の姿。

 ユキはその姿を見て、それまでの苦痛も疲労も忘れて愕然とする。

 「ほう…………なるほど、これは珍客だ。そうだ、確か最後の在庫が残っていたな。あれで出迎えて差し上げろ、丁重にな」

 『わかりました』

 ルーシーの返事を潮に通信を切ったカールは、再びユキの方に振り返る。

 「……君を助けたハンターはなかなか殊勝なようだ。先に言っておくが、これは正当防衛だ。君との約束を違えたわけではないからね?」

 カールは笑っていた。さも愉快そうに。おそらくユキとの約束など、もはや眼中にない。

 全身に悪寒が奔る。

 「アイヴィー…………さん」

 そのカールの耳に、ユキの掠れた呟きは届いていなかった。

                       ***

 「止まれ!」

 ゲートの前には衛兵と思しい二人の男が立っていた。

 その内の一人が一声威嚇するとともに短機関銃を構える。もう一人もそれに倣い、結果二つの銃口がアイヴィーへと向けられる。

 「ここから先は立ち入り禁止区域だ。即刻退去しろ」

 いかにもマニュアル通りという風な警告。しかしそれを承知の上でここまで足を運んだアイヴィーに、当然退く気はなかった。代わりにアイヴィーは、目の前に立つ二人とその周囲を抜かりなく観察する。

 (武器はとりあえず見たまんま、あの下にはボディアーマーくらい着込んでるのかしら? 他の敵は…………なし。当面はこいつらをどうにかしないといけないみたいね)

 アイヴィーは瞬時に相手の戦力と状況を大まかに把握する。

 そうしてそれほど距離を空けずに並ぶ二人を見比べ、まずどちらを攻めるべきか思案した結果――

 「――!?」

 向かって左に立つ男と一息に距離を詰めた。

 「――このぉっ!」

 狙いを定め直そうとした男の右手首を掴んで制し、そのまま相手の側面に回り込んだ。もう一人は同僚の身体に邪魔されてアイヴィーへの発砲を躊躇している。

 狙い通りだ。

 「――ふっ!」

 それを見て取ったアイヴィーは即座に男の足をかけてその場に引き倒す。後頭部を地面に打ちつけて昏倒させ、力をなくしたその右腕を繰る。

 「――なっ? ぐわっ!」

 男が握ったままの短機関銃の引き金をその指の上から引く。

 吐き出された無数の弾丸はもう一人の足元から上半身へ、弾痕を穿ちながら駆け上がった。さらにアイヴィーは男が崩れ落ちる瞬間を逃さず、すぐさま接近する。

 「運がよかったわね」

 仰向けに倒れた男に馬乗りになり、顔面めがけて思いきり拳を打ち下ろす。その一撃で、男は声もなく意識を失ってしまった。

 これで施設の入り口を守る人間はいなくなった。アイヴィーは次なる目的を果たすべく立ち上がろうと足に力を込める。

 が、その背中に、突然の殺気が突き刺さった。

 「――!?」

 アイヴィーは無理矢理地面を蹴り、片腕一本で自重を支えながらその身を宙に躍らせた。

 その目の前を白刃がかすめ、肉が抉られる嫌な音が耳に届く。

 「っ…………また、なの?」

 身体を翻して着地したアイヴィーが見たものは、振り下ろされた短剣に胸を一突きにされた男。そしてその男の上に、先ほどのアイヴィーのように馬乗りになる短剣の持ち主。

 その持ち主の髪の色は白。俯き気味だったため瞳の色は確認できないが、見なくても想像がつく。

 「……あんた邪魔なんだってさ。消えてくれない?」

 「お生憎様、私はあんたたちの都合で生きてるわけじゃないのよ。だから、消えるならそっちの方にしてもらいたいわね」

 射るような赤い視線を、アイヴィーは悠然と受け止めた。

 そのまま無為に時を過ごすこともないと、アイヴィーは一歩前に出る。しかしその行動は無駄に終わった。

 「ごちゃごちゃ言ってないで消えなさいよ!」

 白髪の少女は一吼えするとともに短剣を引き抜き、唐突に突っ込んでくる。空気の読めなさは先日相手取ったレイン以上だ。

 しかし、アイヴィーにとっては好都合だ。

 「――なっ!?」

 短剣にこびりついた血糊が飛沫となって舞い、同時に少女の表情が驚愕に歪む。

 奇襲に近いその攻撃を、アイヴィーが平然と受け止めていたからだ。

 「もうそろそろ慣れてきたのよね。あんたたちのパワーも、スピードも、その突飛な行動も」

 このレベルであれば、予備知識さえあれば対処は可能な範囲だ。いや、最初に相手取ったユキと比べれば、常人を遥かに凌ぐはずのその動きも霞んでさえ見える。こんなところで、ユキと戦った経験が活きるとは皮肉なものだ。

 アイヴィーはすかさず受け止めた少女の腕を掴む。反撃の布石だ。

 「このっ……離せっ!」

 少女はそれを解こうと力任せに腕を振るった。

 それにしばらくは抵抗していたアイヴィーだったが、ほどなくしてその手が振り解かれる。やはり単純な力比べでは引けを取るといったところだが、もちろんただでは終わらない。

 「――っく!?」

 少女の顔が再び歪む。

 手にしていた短剣を取り落とし、その右腕が力なく垂れ下がる。

 アイヴィーは手を離す寸前に腕を捻り、関節を外していたのだ。たとえ痛みを感じなくとも、動かなければ同じというわけだ。

 「こ……んのぉ!」

 動く左手で短剣を拾った少女は、手玉に取られたという事実に怒りを露にして突貫してくる。

 しかしこの時点で、すでに雌雄は決していた。実力からして十分に勝機のある相手、その片腕が利かないとあっては、これ以上は手間取る時間すら惜しい。

 そこでアイヴィーは、奇策に出ることにした。

 「――!?」

 いつも着ている上着を脱ぎ、相手に浴びせかける。タイミングさえ間違わなければこの手のかく乱が効果的なのも経験上わかっている。

 予想通り、少女はその手に持った短剣を上着越しにでたらめに突き込んで来た。その短剣こそが、少女の居場所を明確に示してくれる。

 「――たあっ!」

 アイヴィーは少女の頭部があるだろう場所に振り上げた脚には、相手を捉えた確かな感触が残った。

 しかして、少女はアイヴィーの脇を行き過ぎながら地面へと吸い込まれていく。続いて聞こえてきた重い音は少女が完全に地に伏したことを教えてくれた。起き上がってくる気配はない。

 アイヴィーはそちらを振り返りもせず、倒れた衛兵の一人に近づいてその身体をまさぐった。ほどなくして目当ての物を見つけたアイヴィーはそれを手に立ち上がる。

 アイヴィーが手にしていたのは無線機だった。側面についたボタンを押して通信状態にし、それを口元へと運ぶ。

 「この施設にいる全ての人間へ、私は……そうね、侵入者でいいかしら」

 これはメッセージだ。

 今ここに立つアイヴィーの意思表示、それを対象となる全員に伝えるにはこの方法が一番効率がいい。

 「あんたたちが勝手に連れてってくれたのを返してもらいに来たわ。今日の私は手加減できないから、命が惜しいなら私の邪魔はしないことを薦めるわ」

 絶対に引く気はない、邪魔をする人間は是が非でも排除する。

 そういう意思表示だ。

 「あの娘は…………絶対に返してもらうわよ」

 アイヴィーは無線機を放り投げる。

 素速く銃を引き抜き、一射。銃弾は正確に標的を捉え、無線機は破砕する。監視カメラでもこの様子を見ているだろう相手に対する宣戦布告だ。

 同時に、アイヴィーの左腕から滑り落ちていく物があった。

 アイヴィーが常に左腕に巻いていた包帯だ。おそらく先ほどの、少女の最後の攻撃がわずかにかすっていたのだろう。それが発砲の衝撃で完全にちぎれ落ちたのだ。

 その下にあったのは傷でもなんでもなく、二つのアルファベット。

 “I”と“V”。

 それはアイヴィーの名前を示す文字。

 そして、アイヴィーの存在そのものを示す数字でもあった。

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