第二話
あれからどれだけの時間が経っただろう。
怖かった。
怖くて仕方がなかった。
目の前に迫ってくる恐怖の形相。悲痛な叫び声。その度に景色が赤色に染まる。
まるで自分のものでないような、しかし確かに自分のものであるその記憶に、何度強い恐れを抱いただろうか。
だから逃げ出した。あの場所から。
なのにまだ追ってくる。暗い部屋の片隅で震えるその姿を見止め、その手を伸ばしてくる。
もう嫌なのに。もうあんな想いはしたくないのに。
また、心が赤く染まる。
全身を突き上げるような衝動が支配する。
その前に立った者は皆等しく無力と化し、命を散らせていった。
積み上げられる屍の山、その山にまた一つの屍が加わることをどうすることもできない。その上にしか立つことを許されない自分を、どれだけ呪っても呪い足りない。
誰か自分を止めて欲しい。そうでなければいっそ……
その願いを、神様は聞き届けてくれたのかもしれない。
足元に広がる死の先に、これまで出会ったことのない瞳があった。
敵意でも、恐怖でもない瞳の色が、その心を小さく揺らす。
――それで、どうするんですか?
――それなのよね。どうしようかしら?
どこから声が響いてくるのと同時に、深い暗闇にか細い光が差し込んだ。
***
「……なんでそんなに嬉しそうなのよ?」
「ん〜…………なんででしょうね?」
怪訝そうなアイヴィーの視線を受けて、ミリアはニコニコ笑みを浮かべながら答える。
場所はとある廃れた街にあるアパートの一室。ここ数年、アイヴィーが寝所にしている部屋だ。
スラムでの一件のあと、傷と疲労その他諸々の事情によって身動きが取れなくなったアイヴィーは止むを得ずミリアに助けを求めた。事前に助けはいらないと宣言していた手前かなり気が引けたが、いつまでもあそこで転がっていても仕方がないのも事実だった。
“恥を忍んで”という言葉をまさか我が身で体験するとは思いもしなかったアイヴィーとしては相当プライドが揺らいだものの、ミリアの助けによってどうにか無事に部屋に帰り着くことができたのでよしとしよう。すでに時刻は夕刻を過ぎ、今はミリアから怪我の応急処置を受けているところだ。
その間中、ミリアは妙に嬉しそうにしている。アイヴィーは何度かその理由を尋ねてみたが、ミリアははぐらかすばかりで教えてはくれなかった。偉そうなことを言っておきながら助けを請うたことを「それ見たことか」と嘲笑っているとも取れるが、ミリアがそういう性格ではないことも十分に知っている。だとするとますますわけがわからない。
(……まあ、この娘のわけがわからないのは今に始まったことじゃないけど)
アイヴィーは半ば投げやりな心持ちで追求を諦めた。本当に重要な問題は、笑顔で傷の治療をするミリアの心境とは別のところにあるのだから。
アイヴィーはミリアから視線を外し、傍らのベッドを見る。
(…………私もお人好しよね)
いつもはアイヴィーが使っているそのベッドで小さな寝息を立てているのは、例の賞金首の少女だった。
ミリアに助けを求めた理由は、実はこの少女にあると言っていい。実際怪我だけを考えれば、アイヴィー一人ならば部屋まで帰ることもできなくはなかっただろう。しかし意識を失ったこの少女を放っておくことはできず、さりとてアイヴィーだけではどうにもできない状況だったためにミリアの協力を求めたのだ。
とはいえミリアも特別力が強い方でもなく、アイヴィーは怪我をしていた。しかもなるべく目立たないように運びたかったので、結局その作業はかなり骨が折れるものになってしまった。そうまでしてこの少女を連れてきても、アイヴィーには賞金というメリットしかない。運び出す苦労を差し引いた場合の利益を考えれば、自分のことをお人好しだと思うのも無理はない。
しかし一方で、漠然とそうしなければという想いが湧き上がってきたことも否定できなかった。
最初はそれがなんなのかわからなかった。しかし部屋に辿り着き、落ち着きを取り戻した今のアイヴィーはその想いの正体をなんとはなしに感じ始めていた。列車での夢がその予兆だったのではと思うのは、さすがに荒唐無稽過ぎるとは思うが。
「気になります? 大丈夫ですよ、怪我は大したことないですから」
アイヴィーの視線に気づいたミリアがそう告げる。
ミリアの言う通り、少女の怪我は肩の銃創とアイヴィーが最後につけた額の傷くらいで、怪我の度合いとしてはアイヴィーの方がよほど酷い。ただ、あれからかなりの時間が経っているのにも関わらず一向に目を覚ます気配がない。それがなんらかの原因があってことなのか、単にこの少女が寝ぼ助なだけなのかを判断するだけの知識をアイヴィーたちは持ち合わせていなかった。
「それで、どうするんですか?」
「そうなのよね。どうしようかしら?」
この少女は元々賞金首だ。本来ならば依頼主に引き渡すのが正しいのだろう。しかしアイヴィーの中にある、この少女をどうしても気にかけてしまう想いがそれを妨げていた。少なくとも、それが正しいのかどうかを確かめるまではこの少女を引き渡す気にはなれない。つまり、少女が目覚めない限りは八方塞という状況だ。
そんな、アイヴィーたちの話し声が耳に届いたのだろうか。
「ん……」
「ん……?」
「んん……?」
少女が小さな声を漏らして身動ぎした。それに反応して二人の視線がベッドの上に集中する。
ゆっくりとその瞼が開かれ、その下の赤い瞳に薄汚れた天井が映る。
「…………ここ……は?」
それが少女の第一声だった。続いてその視線がアイヴィーたちに向けられる。
少女は二人の存在を見止めて言葉を発しようとした瞬間、しかし同時に自身の状態に気づいて言葉を詰まらせた。一旦その目でそれを確認し、再びアイヴィーたちに向けられた時にはすっかり怯えた表情に変わっていた。
「あ……あの、私…………」
少女はその表情のまま、恐る恐る口を開く
それもそのはず、アイヴィーはもし少女が目覚めた時に暴れられては敵わないと、その身体をベッドの上に縛りつけていたのだ。しかも自由に動くのはせいぜい首ぐらいという厳重さで。
先の戦いを考えればその処置は至極当然と言えるが、しかし目覚めた少女からは殺気の類は全く感じられず、その様子はアイヴィーが予想していたものとは大分違っていた。
「す、すみません! すみません! すみません!」
「――ぅおわっ!?」
そして暴れ出すどころか、唯一自由な首を必死に振って謝ってきた。
予想とのギャップにアイヴィーは呆気に取られる。同時にそのあまりの勢いに二の句が次げない。ただ、状況を考えれば取って食われるのではないかと思われても仕方がない。この怯えようも自身の危機を感じ取ったからだとアイヴィーは考えた。
しかし少女の口から出た言葉は、目覚めた様子よりさらに意外なものだった。
「私、きっとひどいことをしたんですよね? その怪我も私のせいなんですよね? 本当に本当にすみません!」
「え……!?」
アイヴィーは思わず目を丸くする。
戦闘時の少女は明らかに正気とは思えなかった。そんな状態での出来事を正しく認識しているかのような言葉がその口から出てくるとは思いもよらなかったのだ。
「あんた、あの時のことちゃんと……」
「すみませんすみませんすみません!」
そのことを問い質そうとしたアイヴィーの言葉は、しかし繰り返される少女の謝罪の言葉に遮られた。
アイヴィーは閉口し、ミリアと顔を見合わせる。
とりあえず言葉は届かないものと判断し、まずは行動で示そうと少女に向かって手を伸ばす。
「――っ!?」
それを見た少女が咄嗟に目を瞑る。殴られるとでも思ったのだろうか。
(……失礼ね。私そんなに凶暴に見えるかしら)
心の中で愚痴りながら、アイヴィーは作業を進める。そうして数秒後――
「……………………え?」
少女を縛っていたロープを解き終え、それに気づいて目を開けた少女と視線を交し合う。
少女はキョトンとした表情でアイヴィーを見つめる。あらためて見るその赤い瞳は、引き込まれそうなほどキレイだった。が、今はそんな場合ではない。
「私の名前はアイヴィー。こっちのこの娘はミリア。少しは落ち着いてくれたかしら? え〜っと……」
「…………ユキ、です」
「そう。それじゃあユキ、縛ったりしてごめんね。色々と訊きたいことがあるんだけど、いい?」
「……………………はい」
“できるだけ優しく”と心がけながら紡いだその言葉に、ユキと名乗った少女は小さく頷いた。
「…………ふぅ」
アイヴィーはお気に入りのカップに注がれたお茶を一口飲み、一つ息を吐く。
「あれ? もしかしていつもと違う?」
「えへへ……わかりました?」
ミリアが気を利かせて淹れてくれた物だ。ミリアの趣味の一つで今回のようにたまにどこからか美味しいお茶を仕入れてきては色々と試しているようだ。
「ユキ……ちゃんは、どうですか?」
「あ、はい。とっても美味しいです」
こんなご時勢には珍しい趣味だが、どうやらユキの気持ちを落ち着ける役には立った。念のためまだベッドの上にいてもらっているが、体調は悪くないようだ。
アイヴィーはそれを確かめてからカップとともに一枚の紙切れをテーブルの上に置いた。
「さて、とりあえずこれを見て欲しいんだけど」
ユキの視線がその紙切れに向く。ユキの捜索を依頼する手配書だ。
「どう思う?」
「どう……ですか?」
アイヴィーのあまりにもザックリとしたその質問に戸惑いながら、ユキはその手配書に目を通す。その目つきが、徐々に真剣なものに変わっていく。
「これ…………嘘です」
「ん? どれが?」
アイヴィーの問に応じるようにユキは手配書に指を滑らせた。少し震えているように見えるその指は、“マクロック人材支援機構”と記された依頼主の欄で止まる。
「む〜……確かに、そんな組織は存在しないみたいですね」
それを見たミリアが即座にコンピュータ端末で依頼主を調べ上げる。前にこの手配書を見た時はとにかく一刻も早く稼がなければという考えが先行していたため、依頼主が実在するのかということに関しては全く気にしていなかったのが仇となった。
「私は少し前まで何かの研究所にいました。私を探しているとすれば、多分そこに人たちだと思います」
手配書に乗せていた手を握り締め、ユキはそう呟く。
「じゃあ、なんでそいつらはあんたを探してるの? っていうか、まずあんたはなんであんなところに?」
「……………………逃げ出したんです」
「逃げ出した?」
「はい…………あそこに、いたくなかったから」
それきり、ユキは口を閉ざしてしまった。
それは数秒だったかもしれない。しかしそれより遥かに長く感じる時間を、アイヴィーは何も言わずにいた。俯き、不安に震えるユキの言葉をただ待つ。
「……………………私は、一年くらい前にその施設に引き取られました」
アイヴィーの態度に口をつぐむことを諦めたのか、あるいは意を決したのか、ユキがとつとつと語り始める。
「事故で両親が死んで、他に身寄りもなかった私の前にその人たちは突然現れました。“研究に協力してくれれば、生活の面倒は全て見る”と言って。選択権はありませんでした。私にとっては“そうでなければ野垂れ死ぬか”と言われているのと同じでしたから」
ユキはそう言って自嘲気味に笑う。
その口調や物腰からして、おそらくユキはそれなりに育ちのいい少女のはずだ。まずもって身にまとっている気配が、こんな薄汚れた街に居を構えるアイヴィーとは明らかに違う。一人では生きることが出来ないと言っているに等しいその言葉も、全面的に信じられるほどだ。
そんな少女が、こんな風に笑えるものなのだろうか。“自分はなんて愚かで、浅はかで、弱かったのだろう”と、それほどまで自分自身を貶めるかのように。
降って湧いたそんな想いが胸を突き、かすかな痛みを残す。アイヴィーはそれを表には出さず、その答えが語られるのを待つ。
「私は…………そこでおかしくなっちゃったんです!」
ややあって、その答えがユキの口から吐き出される。
「なんのためかわからない薬をずっと飲まされたり、注射されたり…………変な機械に繋がれたこともありました。それで段々と……自分がどこにいて何をしているのか、わからなくなっていくんです」
始めは頼りなさそうなその肩だけが震えていた。しかしついにはその声までもが震え出す。聴き取り辛いというほどでもなかったが、その姿は痛々しくて見るに堪えない。
それでもアイヴィーはじっと耳を傾ける。それがこの話を引き出した、自身の義務であると思ったのだ。この手の話は苦手だろうに、アイヴィーと同じように辛い思いを堪えているミリアを少し見直す。
「……それで?」
アイヴィーは言葉を詰まらせるユキを促す。ユキには悪いが、毒を喰らわば皿までという心境だ。
「それで…………戦わされたんです」
そうしてようやく搾り出されたその言葉は予想通りのものだった。ユキの戦っている時の様子とそれまでの話を合わせればある程度想像がつく。
そして、その先も。
「私以外にも……同じような人たちがいて、その人たち同士で戦わされるんです。そのための訓練も、やってたような気がします。負けた人は……みんな死にました。なのにそこの人たちは、“出来損ないだった”って気にも留めないで……!」
それは殺し合いだ。生き残りをかけた。
優れたものだけが生き残り、それ以外は不要なものとして打ち捨てられる生存競争。それは選別であるのと同時に、生きたければ他者を踏み躙れという歪んだ真理を刷り込むためでもあったのだろう。
「…………でも、おかしいんです」
「おかしい……?」
そんな感慨を抱くアイヴィーを置き去りにして、ユキはなおも話を続ける。その瞳に、わずかに戦っている時のような狂気が過ぎった気がした。
「私も……当然戦わされました。でもおかしいんです。戦う部屋に入れられて、相手と向き合って……でもすぐに意識が途切れるんです。気がついたら、いつもベッドの上で」
それは今の状況に似ている。ユキが言わんとしていることを、アイヴィーは理解する。
「それでも覚えてるんです。まるで夢を見ていたみたいにおぼろげにですけど、ちゃんと覚えてるんです。相手の人の、恐怖に引きつった顔を……悲鳴を! 手に残った嫌な感触を!」
ユキは何かに取り憑かれたように言葉を迸らせる。その瞳からはいつの間にか涙が溢れ出していた。
その様子はまるで、自分の言葉で自分の心をズタズタに切り刻んでいるかのようだった。
もう限界だと、そう思った。ユキも、アイヴィー自身も。
「もういいわユキ。ありがとう、もう……」
「私はっ……!」
静止の言葉は、しかし届かなかった。アイヴィーの声を遮り、その心に止めを刺す言葉が放たれる。
「私は……人を殺しました。きっと、たくさん」
懺悔の声が響き、転じて静寂が訪れる。あとはただ、すすり泣く声が聞こえてくるだけだった。ユキと、そしてミリアの。
ユキの行為は不可抗力だと言える。生きていくために無理矢理やらされたようなものなのだから。それでもここまで自分を責め、心を痛めるユキは優しいと思う。今の世の中には珍しいほどだ。
しかしその優しさが、なおさらユキ自身を傷つけている。人を殺めたその刃を、今度は自分の心に向けさせているのだ。皮肉などという言葉では到底割り切れるものではない。
そんなユキに今してやれることは多くない。アイヴィーが知っていることとなると、それは一つしかなかった。
アイヴィーはゆっくりとユキに手を伸ばす。
「あ……?」
その手がユキに頭に触れ、優しく撫でる。かすかに煌く白い髪はサラサラで、心地良い触感がアイヴィーの手に残った。
それに気づいたユキはひと時嗚咽を漏らすのを止めた。
「……話してくれてありがとう。頑張ったわね、偉かったわよ」
心を痛めて泣く人間を泣き止ませる、アイヴィーの知るこれが唯一の方法だった。これでダメならもうお手上げだ。
「アイヴィーさん……」
顔を上げ、アイヴィーを見るユキ。涙に濡れたその赤い瞳はやはりキレイだった。戦っている時とはまるで違う。無垢な輝きを宿した宝石のようで、それを素直に美しいものだと思える。
「ぅ…………わぁああああああん!」
その瞳から更なる涙が溢れ出す。
ただ、アイヴィーの伸ばした手にすがりつくようにして泣くユキのその涙は、先ほどまでの涙とはまた違うような気がした。
とりあえずはこれでいい。
問題はこっちだ。
「……あんたは一体何してるの?」
「…………」
ミリアが無言でアイヴィーに向かって頭を垂れている。お辞儀をしている、というわけでもなさそうだ。
「……………………はぁ」
上目遣いに向けられた瞳からその意を汲み取ったアイヴィーは仕方なしにミリアのその頭に手を伸ばす。要するに自分も慰めて欲しいということらしい。
(なんなの、この状況は……)
お世辞にもキレイとは言えない狭い部屋で、泣きじゃくる少女にすがりつかれ、泣き濡れた相方の頭を撫でる。気分は小さな子供の保護者か女殺しの色男だろうか。
(さて…………本当にどうしようかしら)
えもいわれぬこの状況にうんざりしながらこれから先のことを真剣に考えるのは、中々に難しいものだった。
***
「……というわけで、とりあえず状況を整理しましょうか」
アイヴィーは二人が落ち着いたのを見計らって当面得られた情報を整理し始める。
「話から推測して、ユキがいたっていう研究所はおそらく戦闘員か何かを育成する場所みたいね。しかも相当違法な。手配書に依頼主欄を偽ったもの、自分たちの存在を知られたくなかったからでしょうね」
「隠れてあんなことするなんてヒドイです!」
そののっけから、ミリアが憤まんを爆発させる。
「気持ちはわかるけど今は抑えときなさい」
「でも!」
「話が進まないの、とにかく黙ってて」
「むぅ〜……」
むくれるミリアを尻目に、アイヴィーは気を取り直して言葉を続ける。
「その被験者だったユキは、その研究所から脱出してあのスラムに逃げ込んだ。ここまではいいかしら?」
「……はい。と言っても、気づいたらあそこにいた感じなんですけど」
確認の言葉に、ユキは曖昧に頷く。しかしその様子は先ほどより大分穏やかに見えた。
「ん? ということはその施設を抜ける時もあんなだったわけ?」
「多分……」
ユキの表情がサッと陰る。
アイヴィーの言う“あんな”とはもちろん戦闘時のユキのことを指していた。これ以上思い出させるもの気が引けたが、確認しておかなければならないことはまだまだある。
「大体、どういうきっかけでああなるの? それがわからないと、正直私としても怖いんだけど」
「私もよくはわかりません。ただ、そうなるのは決まって誰かに凶器を突きつけられた時とか襲われた時ですから……」
「……身の危険を感じた時にああなるってこと?」
「だと思います」
「ふぅん……防衛本能ってことかしら。それじゃあどうすれば元に戻るのかも……」
「……わかりません」
普通なら自分に害をなす相手がいなくなれば戻ると考えるのが妥当だろうが、だとすればその敵意が自分たちに向けられた時に困る。そうなると自分たちがこの世から消えなければならないのだから。
それ以前に、アイヴィーは戦闘時のユキを相手にしてちゃんと生き残っている。目の前の相手をどうこうする以外にも方法はあるということだ。しかし思い当たることと言えばコメカミに一撃入れたぐらいだ。壊れたテレビでもあるまいし、それで戻ったと決めつけるにはまだまだ不確かな部分が多過ぎる。
「まぁそれはそれとして、研究所側は逃走したユキを捕まえるために手配書を作成。それを見た私がユキを捕まえた、と」
今のところ答えが出そうにないユキのことは置いておき、現在に至る状況をまとめる。その作業自体はそれほど難しくはなかったが、問題はここからだ。
「で、あんたをどうするかなんだけど……」
そのセリフを口にするなり、ユキが一瞬身体を震わせたのがわかった。
当然だ、その次に出てくる言葉如何で、自分の行く末が決まるのだから。
そこでアイヴィーはわざとそれ以上言うのを止めて、ユキの様子を観察する。案の定キツく目を瞑り、祈るように続きを待っている。まるでゲンコツが振り下ろされるのを怯える子供のようだ。
その様子が、なんとなくアイヴィーの心をくすぐる。
(私ってSだったのかしら)
アイヴィーは心の中で苦笑する。そして、これ以上は可哀想だとようやく言葉の続きを口にする。
「そんなに不安がることないわよ」
「え……?」
「あんたがいいなら、しばらくここにいてくれて構わないわよ。もっとも、働かざる者食うべからずだけど」
「え、でも……!?」
ユキが驚くのもわかる。
ユキを匿うことは、まずユキの賞金を狙うハンターに狙われることを意味する。さらには業を煮やした研究所とやらが直接行動を起こす可能性もある。それに引き換えユキの存在は、今のところそれらの面倒事を帳消しにできるほどのものでもない。百害あって一利なしというのがごく普通の感覚だ。
しかし――
「まあ、無理じゃないくらいには守ってあげるわよ」
「そんな…………いいん、ですか?」
「ええ。あんな話聞いて、あっさり放り出すわけにはいかないでしょ」
一人の心優しい少女が苦しめられている。それを守ってやろうという程度の義侠心はアイヴィーにもある。それを助長する条件も揃っていた。同性であり、同年代であり、そして……
「あ…………ありがとうござ……うぅ……」
「あぁもう、泣かないの」
「よかったですね、ユキちゃん」
「はい〜……」
満面の笑顔で喜ぶミリアに、今日何度目かの涙で瞳を濡らしながら鼻声で答えるユキ。アイヴィーの言葉に安心したためか、色々と決壊しているようだ。
そして、これもまた安心したためだろうか。
――ぐぅ〜〜〜〜……
「あ……」
鳴り響いたのはお腹の虫。その瞬間、時間が停止する。
その虫の飼い主であるユキはピタリと泣き止み、代わりにトマトもかくやという勢いで顔を紅潮させる。
「………………………………ぷっ」
アイヴィーは堪えきれず噴き出した。
「……っははははははははは!」
「あ、あ、あの……」
完全に隙を突かれた形で大笑いするアイヴィー。それを見たユキはオロオロオタオタしている。
「くっ、ふふふふ……」
「あ、あの、違うんですこれは……」
釣られてミリアも笑い出す。
ユキは言い訳をしようにも言葉が出てこない様子だ。
「あっはははははははははははははは!」
「あぅ〜……」
アイヴィーはお腹を抱えて笑い続ける。なす術をなくして途方に暮れるユキの姿がなおのことおかしい。
正直なところ、ユキを匿うことにはまだわずかながら抵抗を感じていたが、それが一発でどこかへ吹き飛んでしまった。深く考えている自分が馬鹿らしいと。
「は〜…………こんなに笑ったの久しぶりね。おかげで私もお腹空いてきたわ。……と言ってもなんにもないのよね。しょうがない、なけなしのカップ麺でも出しましょうか」
「え……?」
そのアイヴィーの発言にユキが鋭く反応する。
「なけなし……なんですか?」
「ええ。確かちょうど三つ残ってたはずよ。これでウチの食料すっからかん」
アイヴィーはキッチンに向かい、ポットに水を入れて火にかける。そうして収納の扉に手を伸ばした時、ユキの思わぬ声が飛ぶ。
「それじゃあ、私はいいです」
「何? カップ麺は嫌い? 味は保証するわよ、一応お気に入りなんだから」
「そうじゃなくて…………それで最後なんですよね? それじゃあ何かあった時のために取っておかないと」
「……何今さら遠慮してんの」
ユキの言葉には聞く耳を持たず、アイヴィーは収納の中を漁り始める。
しかしユキも譲らない。
「だって私、アイヴィーさんに怪我させたのにこんなに優しくしてもらって、助けてもらって…………それだけでも十分なのにこれ以上困らせるなんて……」
「あのねぇ……」
まるで人が貧乏で困っているかのような口ぶりだ。いや事実なのだが。
その物言いに少しへそを曲げたアイヴィーはちょっとした意地悪を思いついた。
「そういうあんたがずぅっと占領してるそのベッド、私のなんだけど」
「――え!?」
「私は一体どこで寝ればいいのかしらねぇ?」
「あ……その…………す、すみません! すぐにどきま……うわっ!?」
「――あっ!?」
それはアイヴィーの狙い通り、見事な取り乱しぶりだった。
「……ちょっと大丈夫?」
ただあまりにも見事過ぎてベッドから転げ落ちたのは予想外だ。
「は、はい……」
ユキは床に突っ伏したまま返事をする。自分でしたことだが少し可哀想になってきた。
「大丈夫ですか? もう、アイヴィーちゃん!」
「あ、ありがとうございます」
見かねたミリアに助け起こされながら、ユキは申し訳なさそうに頷く。
「まったく……冗談に決まってるでしょ? あんたは黙ってベッドに入ってなさい」
「で、でも……」
それでもユキはなおも譲らない。それを今度はアイヴィーが見かねる。
「……困らせる、とかなんとか言ってたわよね? 別になけなしの非常食がなくなろうが、ベッドを取られようが、私はそんなに困らないの。食べ物はまた仕入れてくればいいし、寝る所だっていくらでもあるんだから」
「でも、私はそんなに怪我とかしていないし……怪我ならアイヴィーさんの方が……」
「伊達にハンターなんてやってないわよ。このくらいの怪我は日常茶飯事」
アイヴィーは口を動かしながらキッチリ手も動かす。その手元では着々と三つのカップ麺が完成に近づいていた。が、実際には左肩が痛んでかなりの難渋ぶりだった。それを気づかれないよう平静を装ったのはアイヴィーなりの気遣いだ。
「それにさっきも言ったけど、ちゃんと働いてももらうわよ。ハンターの仕事は無理としても家事とか…………あ、まさか家事一切できないとか言うんじゃないでしょうね?」
「いえ、それは少しは……」
「じゃあよし。その研究所とやらに帰りたくなるくらいこき使ってやるから覚悟しなさいよ?」
アイヴィーの頑として譲らない態度に、ユキはとうとう閉口する。それでも納得のいっていないような表情をしているが、あとは時間の問題だ。
その時間、三分。
「はい、お湯入れてフタして三分。これ食べたら、もう言いっこなし。いいわね?」
いつも使っている砂時計を返し、そう宣言する。何気に食べないという選択肢も残ってはいるが、真っ先に鳴き出した空きっ腹が食べ物を前にして堪えられるはずがない。また、出された物に手をつけずに無駄にするような性格でもないだろうという予測も働いての迅速な行動だ。
その考えは間違ってはいなかった。
「…………はい。わかりました」
まだ少し戸惑っているようだが、ユキははっきりとそう答えた。
「たくさん迷惑をかけるかもしれませんけど、よろしくお願いします」
かすかに顔を綻ばせるユキ。それは、アイヴィーが初めて見たユキの笑顔だったかもしれない。
それは同時に、この部屋に居候ができた瞬間だった。
三分後。
「さぁ、明日から働かないとね」
アイヴィーはまた忙しくなるだろう明日へ向けて気合を入れつつ、カップ麺のフタを剥ぎ取る。普通なら箸を使うところだが、アイヴィーは専らフォークを使う。そのフォークで麺を掬い上げ一すすり、お気に入りのその味を堪能する。
「二人とも、食べないの?」
「え? あ、はい……」
「食べます……よ?」
その傍らで、アイヴィーの様子を見守るように見つめているユキとミリアを促す。ユキはこの期に及んで遠慮していたようだがその言葉に静々とフタを開ける。ミリアの方は遠慮する必要などないのだが、なぜか複雑な表情でユキに倣う。
そして二人は、ほぼ同時に麺を口に運んだ。
「「――!?」」
麺を口にするなり、二人は身震いするとともに身体を硬直させる。フォークを口に差し込んだまま、一ミリたりとも動かなくなった。
「……? どうしたの二人とも?」
「――はっ! あ、いえその……」
「どう? 結構イケるでしょ?」
「はぁ……」
アイヴィーの問いかけに先ほどミリアが見せたような複雑な表情を浮かべるユキ。ミリアはどこかあらぬ方向を向いて何ごとか呻いている。
「……美味しくなかった?」
「い、いえ! そんなことはありません!」
アイヴィーの更なる問いかけに、ユキはやけに明るく返す。その態度に違和感を覚えたアイヴィーは問い詰めようと口を開きかけるが、ユキはそれを寄せつけない勢いでカップ麺を食べ始めた。それを見たミリアも妙に険しい表情で食事を再開する。
「……?」
色々と腑に落ちない点は多かったが、アイヴィーのお腹は一口目を食べたことでさらに食べ物を要求し始めた。アイヴィーは仕方なく追求を諦め、食べることに専念する。
三人の手に握られているのはいずれも同じ銘柄のカップ麺だった。
ブルーチーズヌードル岩海苔味。
アイヴィーのお気に入りだ。
***
ユキは、静かに天井を見上げていた。
時刻は夜半を過ぎ、冷たい静寂が部屋を支配している。そんな状況下でユキはどうにも寝つけないでいた。
先のカップ麺で胸を悪くして、というわけではない。明日から始まる生活への不安、アイヴィーに対する申し訳なさ、様々な想いが巡ってユキの目を冴えさせていた。
「……本当に……いいのかな?」
働いてもらうとは言われたが、ユキにできることなどたかが知れている。その上ユキは追われる身。考えるまでもなく迷惑をかけることの方が多いだろう。そうと知ってなお手を差し伸べてくれたアイヴィーのことをとても優しい人間だとユキは思った。
が、果たして自分はその優しさを受け取るのに相応しい人間だろうか。無意識にとはいえ、その手を真っ赤な血に染めてきた自分が。
「――っ!」
そのことを考えた瞬間、記憶がフラッシュバックを起こす。
赤い色が広がる、忌むべき記憶。まるで他人の記憶のような、しかし確かに自分の記憶。
ユキは自分で自分を抱き締めて震えた。否応もなしに背負われた罪が、否応もなしに心を責め苛む。冷たい孤独の部屋で、何度同じ想いに心を押し潰されただろうか。
その瞳に涙が滲んでくる。いつものように。
「ん……」
しかしそれは、いつものように流れ落ちはしなかった。
すぐ側から発せられた小さな声に、ふと意識が遮られる。声のした方に目を向けてみると、隣で寝ていたアイヴィーが寝返りを打ったところのようだった。
それは、冷たい静寂に灯った小さな熱だった。
そのわずかな熱は、しかしユキの心をじんわりと温める。
そもそもこの状況は、二人の妥協によって生まれたものだった。二人が暮らすことになる部屋にベッドは一つ。本来の持ち主であり、怪我人でもあるアイヴィーが使うべきだというのがユキの言い分だったが、他人様を床に寝かせられないというアイヴィーも譲らなかった。そうして双方の妥協の結果、決して大きいとは言えない一つのベッドを二人で使うことと相成ったのだ。
「優しくするのは今日までなんだから、今の内にそれを噛み締めて寝なさい」と言ってあっさり寝息を立て始めたアイヴィーだが、明日からのアイヴィーがその言葉通りになるとはユキには思えなかった。
言葉とは裏腹に、ユキのことをしっかり気にかけてくれるのだろうという予感がある。一見してドライで他人に興味がなさそうなアイヴィーの中に、ユキは確かにそういう優しさを感じていたのだ。
「アイヴィーさん……」
その優しさが胸いっぱいに広がる。冷めきった心を温めて余りある温もりはやがて全身を覆い、ユキを安らかな眠りへと誘った。
ユキはそれに逆らわず、ゆっくりと目を閉じる。
罪の記憶がユキを脅かすことは、もうなかった。




