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俺達は泊まるところがないケントと共にアパートに帰った。
「いや、よかったよ。もともとこの仕事は乗り気じゃなくてね。今のところ他に仕事がないから断るわけにもいかなくってさ」
「どうでもいいけれど、泊まる場所くらい確保してから仕事しろよ」
俺はソファに毛布を掛け、応急のベッドを作りながら、ケントに文句を言ってやった。
レイは帰ってきてから着替えもせず、ソファに座ったまま、テーブルの上に置かれた例のアタッシェ・ケースを睨み、何やら真剣な顔で考え込んでいる。
「まあ、いいじゃないか。たまにはいいだろ? それとも邪魔かな? デビィ」
「邪魔ってどういう意味だよ? 言っとくが俺達はただの同居人だ。変な勘ぐりはするな!」
「すまない。いや……でも、男であってもあんなに魅力的な同居人と長いこと一緒に住んでいて何事もないっていうのも凄いな」
「余計なお世話だ」
「何だかすっきりしないな。どうしてこんな方法を取らなきゃいけない? DNA鑑定をすれば済むことじゃないか」
レイはアタッシェ・ケースの表面を指でなぞりながら呟いた。
「まあ、そうなんだがな。これは一種の形式的な儀式なんだと聞いていたし俺は呪いなんて信じてたわけじゃないから何事も起きないと思っていたけれどな。迂闊だったよ」
「ところで、その資産家って言うのは誰なんだ?」
「ああ、お前らにだったら言っても問題ないだろう。コンラッド・バクスターの一族だ」
「ITのソフト開発で有名なあのコンラッドか」
「ああ、祖先は森林開発で財を成した一族だ。三か月前に俺の事務所にコンラッドの側近のサイモンと名乗る男が訪ねてきてね。現在、十三歳の孤児で胸に青い薔薇の痣がある者を探すように頼まれた。ずいぶん探したよ。で、やっとバーバラが十年前に痣のある男の子を引き取ったことを突き止めたわけだ。サイモンに連絡を取ると、今度はその絵を持って奴がやってきた。で、俺に呪いの話をしたってわけだ」
「ふうん。ということは、コンラッド本人とは話もしていないんだな?」
「まあ、そういうことだ」
その時、部屋に備え付けられた電話が鳴った。
受話器を取った俺の耳に飛び込んできたのは、バーバラの悲痛な叫びだった。
「デビィ? クリスがいないの! 誘拐されたのよ!」
「何ですって? 警察には連絡したんですか?」
「それが置手紙があって、警察に連絡したら息子を殺すって」
いつの間にか俺の横に来ていたレイが受話器をひったくった。
「バーバラ。落ち着いて。すぐにそちらに行きます」
「ケント。コンラッドには他に子供はいないのか?」
「いや。正妻との間に八歳の息子が一人いる。だが、彼には痣がないらしい」
「そうか。なるほど。ケント、たぶんお前には連絡が入るはずだ。恐らく、その側近はバーにスパイを送り込んでいただろう。お前がしっかり仕事をするかどうか確かめるために」
ケントの携帯が鳴った。彼は話をしながら、こちらに親指を突き立ててみせた。
「街外れのオフィス・ビルにいるそうだ。クリスは無事だ。あの絵を持ってバーバラと二人で来いと言われたよ」
「一緒に行くよ、ケント。デビィと一緒にお前の車でバーバラの家に行っていてくれ。ちょっと確かめたいことがあるんで後から行くよ」
四十分ほどしてレイがやってくると俺達はバーバラと共に指示のあったビルに向った。
ビルの入口にはスーツを着た男が待っていた。俺とケント、そしてバーバラは男と共にエレベーターに乗り、最上階の一室に案内された。
オフィスの中にはスーツを着た男が四名。そして正面の立派なデスクにはブラインドを下ろした窓を背にして黒髪をオールバックにした、目つきの鋭い痩せぎすの男が座っていた。
「ようこそ。おや、二人で来いと言ったはずだが、その方は?」
「こいつか? こいつは俺の助手だ。気にするな」
「クリスは何処なの? 早く会わせてちょうだい!」
バーバラが男に近づこうとするのを男の一人が遮った。
「まあ、お待ちなさい。ケント、その絵をこちらに渡してもらおうか」
「その前にクリスを連れてこい。なあ、サイモン、これは誘拐だ。立派な犯罪だぞ!」
「気安く私の名前を呼ばないでもらいたい。お前は私が金で雇ったのだ。それにお前はもう、あの店のバーテンダーを殺してしまったじゃないか。共犯だよ、お前も」
やはり、この男はバーにスパイを送り込んでいたのか。だが、どうやらそいつはレイが倒れたところまでしか見ていないようだ。
「あ……あれはわざとやったわけじゃ……」
「まあ、いい。おい、クリスをこっちへ連れてこい」
男の一人に連れてこられたクリスは回転椅子に縛りつけられていた。上半身を裸にされ、ジーンズとスニーカーだけを身につけている。彼の胸にはちょうど正面から見た形の青い薔薇の痣があった。彼はサイモンを憎しみのこもった目で睨みつけた。駆け寄ろうとするバーバラのこめかみに、男が銃口を突きつけた。
「悪いが、痣を確認させてもらったよ。さあ、絵を渡せ。ケント」
サイモンはそう言いながら、ケントに近付いてきた。ケントは男にアタッシェ・ケースを渡し、悔しそうに顔を顰める。三人の男が一斉に銃を構えた。
「大丈夫ですよ、皆さん。儀式はすぐに終わります。彼が後継者であれば何の問題もない。そうでしょう?」
サイモンは芝居がかった態度でアタッシェ・ケースを開けると絵の額を取り出した。クリスの傍から男が離れる。サイモンはクリスの前に跪き、絵の正面を彼の顔に近づけるとゆっくりと布に手を掛けた。
「やめて!」
バーバラの悲痛な叫びが部屋に響く。
「さあ、この絵をよく見るんだ、クリス」
サイモンは布を外し、むき出しになった絵をクリスの顔に突き付けた。
クリスはしばらく戸惑った様子でその絵を眺めていたが、やがて小さな声で呟いた。
「ええと……見たけれど、この絵がどうかしたの?」
サイモンは慌てた様子で絵を裏返した。もはや、呪いのことなど完全に忘れているようだ。
「くそ! 貴様、この絵に何をしたんだ、ケント!」
「何をそんなに慌ててるんだ?ミスター・サイモン」
突然、部屋の入り口から聞こえてきた声に振り向くと、そこにはレイが立っていた。
男たちの一人があっと声を上げた。
「どうした? 俺が死んだと思ったのか。残念ながら俺はそんなにヤワじゃないよ」
レイはにやり、と笑うとサイモンに向かってこう叫んだ。
「その絵にあんたが仕掛けた装置は全て外させてもらったよ。もう、あんたには逃げ場がない。諦めるんだな、サイモン」
サイモンはすでに落着きを取り戻していた。
「仕方がないな。お前達、全員、始末しろ」
間髪をいれず、ケントが銃を構えてバーバラに銃を突きつけていた男の腕を撃ち抜いた。バーバラはすかさずクリスに駆け寄って、彼の前に立ちふさがる。俺はバーバラに銃を向けた男を殴り倒し、残りの二人の男達の銃口が火を噴く間もないほど素早く、レイの鮮やかな蹴りが男達を襲った。
逃げようとしたサイモンの足を掬うようにバーバラが強烈な蹴りを入れると派手な音をたてて奴はひっくり返った。 顔を顰めて立ち上がろうとする奴の携帯電話が突然鳴り出す。ふらふらと立ちあがったサイモンは放心したように発信者の名前を見ていたが、そのまま出ようともせずに電話を切った。
パトカーがやってきて、簡単な事情聴取の後、サイモン達を連れていくと俺達はバーバラ親子を家まで送り届けてアパートに帰った。既に時刻は十二時を回っていた。
レイは俺達が車で待っていた時、部屋を真っ暗にして額から絵を取り出し、装置を取り出したのだ。だからこそ、俺達は安心してあの絵をサイモンに渡すことが出来たのだ。ケントもバーバラもなかなか芝居が上手い。
「俺は暗くても物が見えるからね。バーで倒れた時、あの絵が酷く重かったし、覆っていた布が分厚くて妙につるつるしていたんで、遮光布じゃないかと思ったんだ。だとしたら光を感じるセンサーが絵の表面に仕込まれているのかもしれない。実際その通りだったよ。センサーが光を感じると装置が動き、内蔵された毒薬が気化し、絵の表面に開けられた細かい穴の部分から気体が噴き出すようになっていた。あの絵はサイモンが用意した偽物だったんだよ」
レイはある事件で知り合いになった大女優グレース・アンダーソンの執事、マークに連絡を取り、コンラッドの携帯に直接、連絡を取って確かめてもらったのだそうだ。彼はグレースの古い友人なので、連絡を取ることは容易だった。
その結果、コンラッドは確かに痣のある孤児の捜索をサイモンに頼んだが、彼がクリスを見つけたことはいっさい報告を受けていなかった。無論、コンラッド本人は見つかればDNA鑑定をするつもりでいたし、絵を使おうなどとは夢にも思っていなかったのだ。
「実際、呪いの絵は屋敷の地下室ではなくて、ある銀行のバクスター家専用の金庫室に厳重に保管されているらしい。いくら側近でもサイモンが無断で絵を持ち出すことは不可能なのさ」
レイはシャワーを浴びてすっかりもとのゴールデンブロンドに戻っている。光沢のある薄いグリーンの絹のパジャマを着た彼をケントは興味深そうに眺めながら口を開いた。
「さっき警官が来る前にサイモンに吐かせたんだが、奴はコンラッドには内緒でクリスを始末するつもりでいたんだ。俺がクリスに絵を見せたら、奴の部下が死体を引き取りに来てバーバラに十万ドルを渡すつもりでいたらしい。彼が正当な後継者かどうかは関係なく、初めから殺すつもりだったんだよ」
「でも、バーバラが金を受け取らずに警察に連絡しようとしたらどうするつもりだったんだ?」
俺の疑問にケントはさらりと答えを返した。
「そうなったら、バーバラも始末してしまえばいい。そして、俺もね」
ケントは無意識にタバコを取り出そうとして慌てて引っ込めた。室内禁煙のことは覚えていたようだ。
「確かにな。しかしずいぶん回りくどいことをする奴だな」
「奴は自分の考えに酔っていたんだろうな。ある意味、絵の呪いを受けてしまったとも考えられるけどね。それにしてもコンラッドの奥さんはこの件に関わっているんだろうか。クリスが死ねば一番得をするのは彼女とその息子だし、サイモンは彼女の為に今度のことを計画したとしか思えないんだが」
レイの問いかけにケントが答えた。
「まあ、細かいことはそのうち明らかになるはずだよ。レイ、もしよかったらコーヒーを淹れてもらえないかな」
二月十四日。
この日、『シルバー・ローズ』はバレンタインの夜を楽しむカップルで賑わっていた。
夕方、俺はレイと共に店にやってきた。レイは店に入るとすぐに大きな赤い薔薇の花束をバーバラに手渡した。
「バーバラ、あなたは俺にとって恋人以上なんです。受取っていただけますか?」
「嬉しいわ、レイ。ありがとう」
バーバラはレイから花束を受け取ると彼の頬に軽くキスをした。畜生。こういう洒落たことは俺は逆立ちしても真似できそうにない。その花束は今、大きな花瓶に入れられて店のカウンターを飾っている。
レイが発明したカクテルは好評だった。テーブルのあちこちでオレンジ色のグラスがきらきらと輝いている。
「レイ、俺の気持ちを受け取ってくれないか?」
黒髪を長く伸ばしたハンサムな客がレイに真っ赤な薔薇の花束を渡そうとしている。
「ありがとうございます。ですが、私には恋人がいますので、申し訳ありませんが……」
男は少しがっかりしたようだったが、
「構わないよ。その恋人に飽きたら、いつでも俺のところにおいで」
と、無理やり花束をレイに渡し、何故か俺を物凄い顔で睨んで帰って行った。何やら勘違いされているらしい。
俺は仲のよさそうなカップルを見ながら、つい溜息をついてしまった。
「どうしたんだよ、デビィ。お前にはレイがいるじゃねえか」
クリスは俺の横に座ってにやにやしている。相変わらず生意気なガキだ。
「まあな。でも友人と恋人は別のものだ。お前みたいなお子ちゃまにはまだ判らねえかもしれねえがな」
「お、俺だってもてるんだぞ! この間だってクラスの女の子に映画に誘われたんだ」
「で、行ったのか、クリス」
「う……い、いや。断ったんだ。俺、これでもけっこう忙しいからな」
「いいか」
俺はクリスの肩に腕を回すと小さな声で囁いた。
「女を落とすには押して押して押しまくることだ。消極的じゃあ、恋の機会を逃しちまうぞ」
「ちょっと、デビィ。クリスに変なこと教えないでよ」
笑いながらバーバラが声を掛けてきた。
「そのとおり。クリス、デビィの言うことなんか聞いてるとただの女たらしになるぞ」
「ふん。お前みたいに男にもてもてになるよりはよっぽどいいじゃねえか」
「だからそれは言うな。いろいろ困ってるんだから」
「さあ、もう二人とも止めてちょうだい。今夜はバレンタインなのよ。男同士でも仲良くしなくちゃ」
バーバラはそう言いながら薔薇のように華やかな笑顔をみせた。やれやれ、彼女の笑顔には誰も逆らえない。
その後、コンラッドは莫大な慰藉料を払って妻と離婚した。八歳の息子は彼女が連れて出て行った。彼女が今回の件に関わったかどうかは未だに明らかにされていない。そしてコンラッドのたっての希望でクリスのDNA鑑定が行われ、彼の息子であることが正式に証明された。
バーバラとクリスは屋敷に招待され、コンラッドと話し合いの末、クリスは二十歳になるまでバーバラと共に暮らせることとなった。クリスに支払われる養育費はバーバラが断ったが、コンラッド側は要請があればいつでも支払うつもりでいるらしい。
「子供はいつかは親から離れていくものだもの。彼が幸せになるのなら、私はそれでいいと思ったのよ。だから、クリスが私の家にいる間は、全力で彼を愛して守ろうと思っているの」
レイは相変わらずバーバラのもとでバーテンダーを続けている。
ケントは何が気に入ったのか判らないが、近いうちにこの街に事務所を移すつもりだと言っていた。
結局、本物の青い薔薇の絵が本当に人を殺すものかどうかは謎のままだ。だが、それでいいのだろう。解明できない謎があってこそ、世の中は面白いのだから。