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当作品はサイトからの転載です。
バレンタインは恋人たちの為の日、ということになっている。少なくともこの国ではそういうことになっている。だが、俺達には関係ない。それはもちろん俺の同居人が男だからだ。レイは並みの女が嫉妬するほどの美貌の持ち主だが、残念ながら女ではない。今の俺には恋人もいない。レイも相手が男だったという手痛い失敗をして以来、積極的に恋をしようとはしない。
もちろん、ハンターに追われる身であり、ひとつところに長く留まることの出来ないことも一因ではあるのだが……。
「バレンタイン・ドリームです。どうぞ」
優雅な仕草で、淡いオレンジ色のカクテルを俺の前に差し出したレイは、俺に軽く笑いかけると別の客のほうへ歩いて行った。彼は茶色に染めた髪を濃い赤のベルベットのリボンで結んでいる。
二月十三日、午後九時。シルバークロス・タウンの裏通りにあるこじんまりとしたバー、『シルバー・ローズ』。ブラウンを基調にした落ち着いた大人の雰囲気を持つこの店にレイが働き始めてから既に二年が経っていた。その日、俺はジーンズとGジャンに水色のダンガリーのシャツという仕事帰りのスタイルでこの店にやってきていた。
「おい、レイ。俺はこんなの頼んでないぞ!」
「それはレイのオリジナルなの。試しに飲んでみてくれない?」
レイの隣で接客をしていたバーバラがそう言いながら、ウインクを送ってきた。彼女はこのバーのマスター、バーバラ・ウォルターズ。ゆるく波打つ長い薄茶色の髪をきりっと後ろに束ねた彼女は少し釣り目がちなヘーゼル・アイが魅力的だ。面長な顔に意志の強そうな唇。バーテンダーの服装がほっそりとした身体によく似合っている。彼女は独り身でありながら、施設から引き取った血の繋がらない男の子を我が子のように可愛がっている。
「そうだよ。あんたが飲まないんなら俺が飲んじゃうよ」
言うが早いか俺のグラスに手を伸ばそうとしたのは、その男の子、クリスだ。短く切ったサンディブロンドに濃い青色の瞳。レイに負けないほど白い肌の彼は思春期真っ盛りの十三歳だ。
「こら! あんたにはまだ早いわよっ」
バーバラがぴしりとその手を叩く。
「ちえっ。俺はもう子供じゃないぞ」
羨ましそうに俺のカクテルを見つめるクリスの前に、氷がたっぷり入ったオレンジ・ジュースが置かれた。
「君はこっちだ、クリス。いらないんなら、俺が飲むけどね」
レイは優しげにクリスに微笑む。
「仕方がねえな。レイが作ってくれたんなら飲んでやるよ」
そう言いながら、クリスは嬉しそうにジュースのグラスに口をつけた。彼はもう一人で留守番をしても問題のない年だが、やはり一人は寂しいのだろう。時々、店にやってきては寝る時間になるまでバーバラのそばにいる。
レイの創作したカクテルは何だか甘そうだが、俺は思い切って一気に飲みほした。予想に反して甘すぎず、フルーティでちょっと刺激的な味はなかなかのものだ。
「美味いよ。でも、俺にはちょっと似合わねえかな」
「よかった。お前がこのカクテルを飲んだ初めての客だよ、デビィ。代金はしっかり戴くからね」
「おい、ただじゃねえのかよ!」
レイは俺の顔を見て、にやりとする。
「当り前だろう。客が金を払うのは当然のことだ」
偉そうなこの言葉はクリスだ。
「いいのよ、デビィ。それはレイの給料から引いとくから」
バーバラがそう言いながら悪戯っぽい笑みを浮かべると、レイはちょっと困ったように微笑みながらバーバラのほうを見た。
「それはないですよ、バーバラ」
「駄目よ、レイ。デビィはあなたの大切な友達なんでしょう? もっと大事にしなくっちゃ」
よく言ってくれた、バーバラ。その通りだ。
「大事にはしてるつもりですけどね。何だよ、デビィ。その締まりのない顔は?」
ちょっと不満そうに俺を睨むレイの顔を見ていたら、何だか無性に可笑しくなって余計にやにやしてしまった。
「いいじゃねえか。とにかく、このカクテルはいいよ、レイ。きっと売れるよ」
「ありがとう、デビィ」
「よかったわね、レイ。そのカクテル、私もとっても気に入ってるのよ。ああ、それからちょっとクリスを家に送ってくるわ。店を頼んだわよ、レイ」
「頼んだぞ! レイ上等兵」
クリスの言葉にレイはすかさず姿勢を正し、敬礼をしながら答えた。
「かしこまりました。大佐殿」
数分後、店のドアが開き、黒いサングラスを掛けた中年男が入ってきた。艶のない薄茶色の髪を肩まで伸ばし、無精ひげを生やしてくたびれたベージュのコートを着たそいつは黒いアタッシェ・ケースを両腕でしっかりと抱え込んでいる。大金でも入っているんだろうか。ゆっくりとカウンターのスツールに腰を下ろし、レイが目の前に立つと彼の顔を見ようともせずに、こう呟いた。
「マスターを呼んでくれないか?」
挙動不審な男の態度にレイは少し表情を硬くして答えた。
「彼女に何かご用でしょうか?」
「用があるから来たんじゃねえか。早く呼んで……あっ!」
男はレイの顔をじっと見つめ、驚きの声を上げてサングラスを外した。
「あんた、レイだろ? 俺だよ。私立探偵のケント・ジョークだ。いやあ、懐かしいな。元気そうでよかったよ」
「ケント……ああ、あの時の。マシューはどうしてる?」
「ああ。もうすっかり良くなって、今は地元でブティックを経営してる。マリーはまだまだ元気だよ」
「そうか。それはよかった」
レイはふっと寂しそうな笑みを浮かべた。あの事件はレイにとっては決していい思い出ではない。
「実は、ここのマスターに大事な用があってね。いや、正確には息子さんにだが」
「マスターは今、自宅に行っているんだ。あと数分で戻ってくるよ」
「そうなのか。じゃあ、待たせてもらおうかな。ああ……すまないがトイレを借りるよ。レイ、このアタッシェ・ケースは大事なものなんだ。誰も手を触れないように見張っててくれ」
そう言いながら、ケントは隣のスツールにケースを乗せて、席を立った。
だが、彼の乗せ方が悪かったのだろう。アタッシェ・ケースはスツールから滑り落ちて床に当たり、蓋が開いて中から布に包まれた四角いものが外へ飛び出してしまった。
「ああ、しょうがないな」
レイはカウンターから出るとそれを拾い上げたが、その際に布が外れ、下に落ちてしまった。それは小ぶりの額に入った絵のようだった。レイはこちらを向いているので俺には裏板の張られた額の裏側しか見えない。彼は拾い上げた額の表側をじっと見つめて小さく呟いた。
「青い……薔薇?」
その時だ。トイレのドアから出てきたケントが大声で叫びながら走ってきて、いきなりレイから額を奪い取ったのだ。
「馬鹿野郎! お前、この絵を見たな!」
ケントは絵を下に向けたまま床に置き、拾った布で上から覆い隠した。
店に数人いた客がびっくりしてこちらを見ている。レイもまた呆然とした顔で、慌てた様子で絵をアタッシェ・ケースにしまうケントを見ていた。だが、突然、レイの身体がふらついたかと思うとその場に崩れるように倒れてしまった。
「レイ!」
俺が駆け寄るよりも早く、ケントがレイの上半身を抱き起こした。レイは浅く息を吐き、眠っているようにみえた。
「ああ……。しまった。まさかこの絵を見てしまうなんて」
「おい、ケント! そいつはどういうことだ!」
「今はまずい。後で説明するから、他の客たちを……」
その時、バーバラが戻ってきたのだ。
客が帰され、レイは奥の休憩室のソファに寝かされた。ほとんど息をしていないように見えるレイはいくらゆり起しても目を覚まさない。救急車を呼ぼうとするバーバラを何とか宥め、俺は放心したようにソファに座り込んでいるケントの胸倉を掴んだ。
「さあ、どういうことだ? レイはいったいどうなったんだ?」
「……絵だよ。あの絵は目にした者の命を奪ってしまうんだ」
「なんだって?」
俺は胸倉を掴んだままケントを立ち上がらせた。
「それじゃ、レイは死んでしまうのか? 何とかしろ。もし、あいつが死んだら、俺はお前を殺すぞ!」
「……すまない。誰にも見せないように運んできたつもりなんだが……」
「救急車を呼びましょう、デビィ。それしかないわ」
バーバラが携帯を取り出して、911を押そうとした瞬間、レイが微かな呻き声を上げて目を覚ました。
「ん……。あ、あれ? どうしたんだろう、俺は」
レイは頭を押さえてゆっくりと身を起こした。俺はほっとしてケントの服から手を離した。
「よかった。大丈夫か? レイ」
「ああ。何だかあの絵を見た瞬間から一気に力が抜けたような気がして。すみません、バーバラ。ご迷惑をおかけしました」
「なるほど。あの絵は人間の生命エネルギーを奪ってしまうんだな。だから、レイの場合は助かったわけだ」
バーバラはレイにコーヒーを持ってきて渡しながら、ケントのほうに目を向けた。
「それはどういうこと? レイは普通の人間じゃないの?」
ケントはしまった、という顔で俺を見た。くそ、バーバラはレイの正体を知らないのに。ケントの奴、余計な事を言いやがって。
レイはしばらく黙っていたが、やがてふっと溜息をついた。
「バーバラ。俺は人間じゃないんです。ヴァンパイアなんです」
レイの言葉にバーバラは少し驚いたように彼を見たが、意外なことに恐怖の表情は見せなかった。
「そうだったの。ありがとう。本当のことを言ってくれて」
「俺は今日限りここを辞めます。ですから通報だけはしないでください」
「辞めることはないわ、レイ。今まで通り働いてちょうだい」
「でも……」
バーバラはレイの横に座ると、優しく微笑みながらレイの手をそっと握った。
「温かい手だわ。あの子と同じ。……私が小さな子供の頃ね、隣に素敵な男の子が引っ越してきたの。私は毎日、その子と遊んでた。一緒に絵を描いたり、本を読んだり、野原で駆け回ったり。本当に楽しかった。彼のお母さんも優しくてとても素敵な人で、私が遊びに行くと美味しいパンケーキを焼いてくれたわ。だのに、ある日、隣の家から凄い悲鳴が聞こえたの。恐る恐る外に行って庭から覗いてみたら、銃を持った男達がその子と両親を引きずって出てきたの。彼らの胸には杭が刺さってた。その時、私は気を失ったらしいわ。後で隣の一家がヴァンパイアだったて聞いたけれど、私には彼らが恐ろしい化け物だなんて、どうしても思えなかったの。だから」
彼女は握る手に力を込めた。
「何も心配しないで、レイ。私は誰にも言わないわ」
「ありがとう、バーバラ。信じていいんですね?」
「もちろんよ。ところで」
バーバラは改めてケントを見ると訝しげに眉を顰めた。
「あなたは誰なの?」
ケントは慌ててバーバラに向きなおった。
「失礼。バーバラさん、あなたの息子さんは施設から引き取られたのでしたね?」
「そうよ。それがどうかしたの?」
「あなたの息子さんには痣がありませんか? 青い薔薇の形をした痣が」
「え……ええ。どうしてあなたがそれを?」
「本当はあなたに話してはいけないことなんですが、こうなったら仕方がない。詳しいことを説明します。その代りコーヒーを一杯、もらえませんか?」
俺とケントはレイの向かい側のソファに腰を下ろした。ケントはコーヒーを一口啜るとおもむろに話を始めた。
「俺の名はケント・ジョーク。フリーの私立探偵です。この絵はある資産家の当主から預かったものなんです。何でもこの絵には若くして殺された先祖の呪いが掛かっているらしいんです。彼は財産争いの末に弟に殺されました。だが、自分が殺されることを予期していた彼は一枚の絵を描いていました。彼の胸にあった痣とそっくりな青い薔薇の油絵です。そして、今後、家を継いでいく者は青い薔薇の痣を持って生まれてくると遺言を残しました。彼の弟はこの絵を捨てようとしましたが、絵を見た途端に悶え苦しんで死んだそうです。結局、家は生前、兄と恋人の間に儲けられ、彼の死後に生まれた青い薔薇の痣を持った男の子が継いだということです。その後、この絵を見たものが次々と死んだので絵は封印されました。そして呪いが降りかかることを恐れて、青い薔薇の痣を持つもの以外は家を継ぐことが出来なくなってしまったんです」
ケントはふうっと一息つき、コーヒーを啜る。
「それじゃあ、クリスがその家の息子だということ? そんな馬鹿な!」
「当主には若いダンサーとの間に隠し子が一人いたんです。しかし、彼女はある日、突然彼の前から姿を消してしまったらしい。風の噂では彼女はアルコール中毒で亡くなったということでした。当主は子供の行方が判らないことを気にかけてはいたのですが、仕事に追われて捜索まで気が回らなかったのです。ですが、最近、ようやく心にゆとりができた。隠し子ももし生きていれば十三歳になっていますし、ぜひ自分の屋敷に迎え入れたいと思うようになり、見つかったのがあなたが引き取ったクリスでした。で、彼が正当な後継者かどうか、絵を見せて確かめるのが俺の役目なんですよ」
「なんですって!」
ケントはコーヒーを一気に飲み干した。
「この絵は正当な後継者だけは見ても死ぬことがないそうです。だからこの絵を見せれば彼が本物の後継者かどうか判るってわけなんです。本当は黙ってクリスにこの絵を見せなければいけなかったんですがね」
「なんてことなの……冗談じゃないわ! クリスはレイと違って普通の人間なのよ! 後継者だけが助かるなんてそんなこと、どうして判るのよ? 帰ってちょうだい、ケント。そんな危険なことは彼にさせられないわ」
「でも、もし彼が死ななければ、あなたには百万ドルが贈られるんですよ?」
「お金なんかいらない。それに彼が後継者なら私はクリスと引き離されてしまうんでしょ? 私達は普通に暮らしていきたいの! どうか放っておいて。私達の幸せを奪わないでちょうだい」
バーバラの真剣な眼差しに、ケントは困ったような笑みを浮かべ、溜息をついた。
「そうですか。……まあ、それなら仕方がない。当主にはクリスの身体には痣がない。人違いだったと伝えておきましょう」
バーバラはほっとしたように微笑んだ。
「そうしてちょうだい。ああ、それからもう今日は帰ることにするわ。後片付けは私がやっておくから、あなたはもう帰っていいわ、レイ。今日は大変だったわね」